琴座のαとマーメイド・その4

 一体いつから、アシタバと好一はつきあうことになったのか。

 それぞれの主張には食い違いがあり、そもそも記憶媒体からが異なるのである。アシタバは外装なので外装らしく、基本的には自らの気持ちをデータとして取り扱う。それゆえ「自分が恋に落ちた瞬間は何月何日何時何分何秒か」という問いが成立しうるし、「つきあっていると認識した瞬間はいつか」も決定できる。

「意外に初期から、自分はその状態に移行していた」というのがアシタバの意見で、

「そんなもん?」というのが好一の反問である。

「自分の内面のデータが恋愛状態に相転移したとかいう話じゃなくてさ」と好一。「ああ、こいつ面白いな、と思った瞬間とかが大事なんじゃないの」

「認める」とアシタバ。「それのどこが気にくわないかがわからない」

「別に気にくわないわけじゃないけど」と生体としての好一は言う。「自分の状態が相手を好きってやつだとわかったから、相手を好きになるんじゃなくて、相手を好きだなと思うから相手を好きだって状態になるんじゃないの」

「そうでもない」とアシタバ。「君に好意を持つという状態が形成されてから、自分が君に好意を持っていると認識するまでには、百六十時間以上がかかった。記録によれば」

「だから」と好一。「状態と自己認識の間にそれだけの時間のズレがあるんなら、その『恋愛状態』だか『おつきあい状態』だかの定義が間違ってるんじゃないのって言ってんの」

「その可能性は低い」とアシタバは淡々と続ける。「少なくとも他の嗜好品に対しては、この『状態』は判断基準として強い蓋然性を示している」

 ずいぶんと角の立ってきた下生えを踏んで進みながら、好一は両手を上げて降参しておく。

「それに忘れてはいないと思うんだけど」とアシタバ。「このアシタバはあくまでもデータで、プレイヤーにはまた別の思考があるはずなんだ」

「勿論、わかってる」と好一。「それも含めて、つきあってるっていうことだろ」と言う。

「そうだね」とアシタバも同意する。

 その点に関して、二人の間に意見の食い違いは存在しない。


 仮想空間側から荒森へ入り、外縁側へ向かうと現実世界へ到達する。現実世界から荒森を奥へ進むと、仮想空間へと至る。

 三年前にアシタバが、曲線の束に還元されかけている城戸好一を発見したのは、仮想空間を奥へ進んだ森で、いまではそれがどこだったのかもわからない。二人の出会ったその場所をもう一度見出すという課題も、二人の冒険リストにはある。

 荒森という実仮想空間は現実世界に包囲されており、現実空間は中間領域へ、中間領域は仮想空間へとつながっている。仮想空間をそのまま進んだところには「長城」が聳え立っている。

 長城は視界の限りに聳える壁で、向こう側へ辿り着いた者はかつてない。向こうから帰還した者も、越境を確認された者もいない。長城は無限の長さを誇り、荒森の中心部を包囲している。相手を包み込むにはそれだけの長さが必要であり、ただ、アルゴリズムのみがそんな離れ業を可能としている。長城は激しく削られ続ける自己を絶えず書き換えながら、荒森の中心を目指して前進中で、干拓するようにして領地を拡大中である。

 アシタバは三年前に、長城を望む丘の林の中で、城戸好一を発見した。そんなところに生体がいるとは考えなかったし、さらにその相手が口を利くとは思わなかった。

「まあ……若い頃の話だよ」

 と好一は言う。荒森には小さな頃から出入りしていて、つい油断したんだと言う。

「ついうっかり、であんなところにまで入り込めるもんか」

 というのがアシタバの意見なのだが、好一は実際にそれを達成したのだ。感覚としては、海淵で素潜りの人間に出くわしたといったところだ。アシタバがみつけなければ、好一はそのまま点にまで還元されて、神隠し認定されていたに違いない。

 仮想空間での運動に特化し、日々研鑽を続けるアシタバでも、長城を目視できるような距離での活動はごく単純なものに限られる。意識を保つのがギリギリというのが正直なところだ。そこでは物質なるものは形を脱し、始終重なり合ってはすり抜け合いを続けている。

 過去のアシタバはなんとか好一のサルベージに成功し、中間領域まで運ぶことに成功したが、さすがに好一も遭難の影響は免れなかった。名前や住所、生年月日や学校名、親兄弟に親戚、友人達の名前は出てきて四則演算にも問題はなく、歴史や地理にもそこそこの得点を示したが、好一からは、荒森の奥を目指した動機が完全に消滅していた。

 一体なにが好一を駆り立て、荒森の奥へ向かわせたのかという記憶は、好一自身から欠落していた。

 好一の記憶の中では、自分たちがつきあいはじめたのは、アシタバに助けられた帰路での出来事である。ほとんど形式と成り果てかけた好一に、意識を保つように呼びかけ続ける声は、記憶というより、頭蓋そのものの中に今も響き残っている音だ。アシタバに抱きかかえられ運ばれていく間、ふたりの体は、絡み合うワイヤーフレームのようにして、同じ空間を共有していた。二人をなす幾何構造の無数の交点が同時に、同じ場所に存在していた。

 それ以上緊密な関係を、城戸好一は誰かと持ったことがない。


 そうした経緯で、好一は今も時折、荒森の奥を目指してみる。

 かつて自分の生命をかけて求めた何かがどうやらそこにあるのだという。自分がその興味を失ったらしいことに深甚な興味がうまれ、動機がまた生成された。

 好一を発見したとき、アシタバが一体その場で何をしていたのかについて、当人は沈黙を守ったままである。

「やあ、こんなところまでは久々にきたな」

 と行く手を見上げたアシタバが言う。二人は今、手を握り合い、その手は同時に同一の空間を占めている。

 二人の視線の先には無限の長さを持つ長城が横たわり、ギリギリと歯を食いしばるようにして、激しい鬩ぎあいを展開している。形式が揺らぎ、軋み、悲鳴を上げる。ふたりにはそれが破裂音と爆発音の連鎖に変換されて認識される。あたりは、世界が噛み砕かれていく音でいっぱいだ。

 長城はかつて人類が作り上げた史上最大の構築物で、逆巻き荒れ狂う数学の侵攻をそこで押し返し、堰き止めている。

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花とスキャナー えんしろ @enjoetoh

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