水族館

軍艦 あびす

水族館

 ふとした瞬間に『死のうかな』って思ったりする生き方を続けて、もうすぐ十八年が経つらしい。

 だからといって、一歩を踏み出す勇気は微塵もないのだろう。結局、命を投げ出すことを馬鹿の所業と割り切る本意がどこかに息を潜めているのだから。

 

 廃れた最寄駅から徒歩二十五分。鬱蒼と茂る木々に覆われてしまった、一つの巨大な影を捉えた。

 自殺の名所『美濃神水族館跡』は、廃業から数年放置され、災害の中で風穴を開けたりと大きな変化を纏っている。

 誰もいない入り口を通り過ぎて、順番に水槽を眺めながら上へ上へと登ってゆく。本来は、下っていくように進行方向が作られているのだが、土埃舞う空間にそんな常識はとうに存在していない。

 真ん中に聳える巨大水槽は、濁った水が今にも漏れ出しそうなガラスのヒビの前で塵を揺蕩わせる。もはや、魚の姿なんて確認できない。まだ生きているのかも疑わしいが。

 カサマツウオ、ハチビキ、ハナフエフキ、オウムブダイ、次から次へと並べられる解説の羅列は、割れたガラスの先に何を指しているのだろうか。

 淡々と、月明かりを目指して足をすすめる。巨大水槽を回るように、何度も何度も回るように、空に近い場所を目指して歩いた。

 最後の水槽、というべきか。本来なら最初の水槽となる場へと辿り着く。傍の、汚れたStuff Onlyと書かれた扉へ手をかけた。

 

 

 名所として語られるので、インターネットの記事は何度か見つけた。幽霊が出るだの組織が死体を隠してるだの、信憑性のかけらもないカスのような作り物語だ。ここに足を運んだのは、勿論そんな有象無象のためではない。

 既に壊れて沈んだ、巨大水槽の上にあったであろう鉄の橋。その根本だけが、油まみれのボルトと共に佇んでいる。それに加えて、謎を孕む一つの影も。

 こちらに気付いた姿から、少女だと簡単に気が付いた。都市伝説の幽霊だろうか、と、嘲笑する。

「君も自殺しにきたの?」

 歳は、同じくらいか。蒼の瞳が特徴的だが、別に日本人じゃないって訳でもなさそうだ。

「お前は?」

「私は、死のっかなって思ったりしてたまーに来て諦めて帰るだけ」

 自身と同じように語った、少女は再び巨大水槽を上から眺めて座る。崩れた天井から、月がこちらを覗いていた。

「君、名前」

「俺は、宮野」

「私は楠」

 互いに、これ以上なく要らない情報だろう。今後会うこともない相手の、この世にありふれた苗字たちだ。

「お前はなんで自殺?」

 少女の横に腰を下ろして、次の映る水面を見つめる。汚れているが、太陽の沈んだ世界ではどちらにせよ同じ色だ。

「ありがちだよ。不倫した親の子供ってだけで人間関係色々だるくなって」

「なるほどね」

「宮野は?」

「なんか、人に笑われたり怒られたりしたときに、ふとした瞬間生きてる理由が分からなくなって。だから『気分だけ』自殺しようかなって」

「気分って。なんじゃそりゃ」

「俺もわからん」

 人にこの感覚を話したのは、初めての事だった。同じ場所に立つもの同士、分かってもらえるとでも思っただろうか。

「ね、なんでここが自殺の名所って呼ばれてるか知ってる?」

 楠は、笑う。不謹慎極まりない会話も、誰かに聞かれる訳でもないので大丈夫だろう。

「そりゃあ、こんな濁った水の中で死ねば誰にも迷惑かけねえからだろ」

「半分正解かなー」

「どういうことだよ」

 楠は立ち上がり、廃材と化した鉄の橋にもたれかかり、水の方を指差した。

「まだ魚は生きてる。だから食われて、痕跡を残さず消えれるんだ」

 無邪気に語る楠に、背筋を撫でられるような感覚を覚えた。確かに、海で人が死ねば魚が食いにくるだろう。それと同じ筈なのに、何故か。

 眼前に聳える水の中に人喰いが居ると思うだけで、一歩踏み出せばそこに沈むこの空間が畏怖に包まれた。

「嘘だろ、こんな汚ねえ水で魚が生きてられる訳ねえ」

「それが案外生きれるんだよね。何年も飼われて野生を失った魚は汚濁に対応できなくて死んだけど、新しく来た子たちは海を覚えてる。いつどんな環境になるかもわからない自然を、覚えてたんだよ」

 あとついでに、自殺の名所ってことで餌は頻繁に食える。と、楠は語った。

 正直、死ぬつもりはないままここに居るのだ。いつも己の自殺を拒んでいるのは、死にたくないという欲望。必然だろうが、この話を聞いてここから一秒でも早く逃げ出したくなる。

「まあでも、いいよね魚は」

「はぁ?」

 汚れたアスファルトの上に、大の字で寝転がる楠。彼女の虚な目に、水面の月が映る。

「魚は、環境に適応できなかったら勝手に死んでいく。でも私たちは適応できなかったら罵られて、蔑まれて、別の場所を探すだけ。自分で命を捨てれるほどの覚悟を、最後の最後まで強いられるんだ」

 環境に適応できなければ死ぬ。全くデリケートな生き物だと、皆の解釈はそうだろうが、彼女から見れば真逆らしい。

 いっそ死んだ方が楽なのに、その一歩を拒むのはいつも自分自身だと。

「俺、もう帰るわ。お前の話聞いてたら俺がどんどん馬鹿に見えてくる」

「いいよ、別に意地張らなくても。お互い死ぬの怖いだけなんだから」

「悪いだろ、甘いこと言ってる奴がガチで悩んでる人の横に居たら」

 楠は、寝返りを打って右頬をアスファルトで潰す。膨れた面は、ちょっと面白いことになっていた。

「いやー、人それぞれ色々思うことあるでしょ。私は宮野の話聞いてやっぱ死ぬのやめた」

「なんで急に」

「よし、明日にする」

「宿題じゃねえんだから」

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

水族館 軍艦 あびす @a_gunkan

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ