Atomic Bomb Requiem

十夢叙華

Prologue 昭和二十年八月六日 -August 6, 1945-

 その日は、雲ひとつない晴天だった。


まだ朝だというのに、太陽は焼け付く程に燦々と輝き、そこから発せられる眩いばかりの光に熱せられた大気は、あちらこちらで陽炎を生み出しながら、この六つの川が流れる美しいデルタの街を覆っていた。その熱は、人々が眠い目をこすりながら住処を出るや否や、身体の至る所から汗が滲み出るほどで。しかも、方々から聞こえてくる合唱のような蝉時雨が、この街に住む人々の体感温度をさらに吊り上げ――


 ――「暑い」。その言葉でしか言い表し様の無い日だった。


 そんな中、この街の人々は――おそらく当時の日本人のほとんどがそうであったように――家族でちゃぶ台を囲みながら、数切れの芋や雑炊など申し訳程度の食事を摂った後、あわただしく「行ってきます」、「行ってらっしゃい」と互いに挨拶を交わし、母親は夫や子供を笑顔で送り出した。昔ながらの下町風の路地には、学校へと向かう子供たちのはしゃぎ声が響き、街を見渡せば、行き交う路面電車やその停車場は、通勤客や学生でごった返していた。中心街の大通りに銀行の前では、開店時間が待ち切れず数人の人が並んでいるのが見受けられた。

 同じ頃、この街のあちこちで「エンヤ、エンヤ」の掛け声とともに、ガラガラと木造の家が崩れ落ちる音がする。そこでは壮年の男達が中心になって縄を引っ張って家屋を引き倒していた。家が崩れ落ち、もうもうと立ち込める砂塵が収まると、老人や婦人、いがぐり頭の中学生や、おかっぱ頭の女学生までもが家の残骸に一斉に群がり、使える瓦や木材をテキパキと運び出し、後に残されたどうしようもない廃品をひとまとめにした後、国民服姿の男たちが、鍬やショベルで跡地を均して真っ新な更地にしてしまう。


 彼ら、彼女らにも、容赦無く日は照りつける。


 その少女も、そんな人々の中にいた。カーキ色に染められた学生服とモンペを身に纏うおかっぱ頭の彼女は、女学校の先生を先頭にして級友達と一列になって先生が剥がした瓦を次々に「ハイ、ハイ、ハイ」と掛け声を掛けながら、額から滝のように流れる汗を気に留めず、まるでバトンリレーの如き要領で手渡していく。

 朝もまだ八時辺りだというのにこの熱気。十二、三歳の少女にとっては単純に見えるこの作業も正直「たいぎい(しんどい)」ものであった。事実、ここ連日の作業で体調を崩す者も続出しており、少女の友人も、今朝いつものように迎えに行ってはみたものの、熱を出して寝込んでいると彼女の叔母に聞かされ、一人寂しく作業場に向かったのだ。――当の少女も、ギラギラした陽射しに当てられ、ともするとその場に倒れそうになるくらいだった。だが、その度にかぶりを振り、決して弱音を吐こうとしなかった。この作業は「御国の為」になると心から信じていたし、何より同じように信じて隣で頑張っている級友に悪いと思ったからだ。

 しかし、前日も斯くの如き炎天下の中で作業していたので、朝からこの陽射しはやはりきつかった。周りを見ると級友達も「たいぎ」そうな顔をしていた。それでも皆、搾り出すように、「ハイ、ハイ」と掛け声を出して暑さと疲労感に耐えている。多分、級友達も彼女と同じ様に考えていたに違いない。互いにそう思うことで、過酷な作業に耐える彼女たちは、自分自身をぎりぎりのところで支えていたのだろう。


「ハイ、ハイ、ハイ」


 流れるように瓦が少女たちの小さな掌を伝って運ばれてくる。彼女は右隣の少女から渡された瓦を素早く左隣の少女に手渡す。


「ハイ、ハイ、ハイ」


(暑いねぇ……)

 その言葉が唇から外へ出そうになる。


「ハイ、ハイ、ハイ」


 ふと、横を向くと懸命に働く級友の真剣な眼が瞳に止まる。彼女は首をブンブンと横に振る。

(ううん。いけん、いけん……)


「ハイ、ハイ、ハイ」


 目が、少し眩んだ。頭もぼうっとする。

(まだ終わらんのんかなぁ……ダメ! そがぁな事、考えちゃ――)


「ハイ、ハイ、ハイ」


 永久に続くかのように頭の中で掛け声が連鎖する。それは何故だか子守唄のような甘い旋律にも変わる。意識が朦朧とする。


(――もう、駄目――)


 彼女は、ふっと真っ青な空を見詰めながら、重力に身を任せた。


 ――その時だ。行列の先頭に立っていた先生が時計を見て、


「作業止め! 小休止!」


 号令を掛けた。途端に、女学生達は掛け声を止め、整然としていた列を崩し、木陰やわずかに残る建物の陰がある方へと、、めいめいに散って行った。


「靖ちゃん、もう終わったよ」

 気付いたら、少女は隣の級友に抱き留められていた。




 彼女たちが作業していた場所の近くには、古くからのお寺があった。境内には本堂や鐘楼の他、二、三の建物が立っており、また庭には、春には薄桃色に美しく咲き誇っていたであろうであろう桜や、秋には黄金色に染まるであろう銀杏などが植えられ、休息にはもってこいの場所だ。建物の陰や木陰を見つけて、少女たちは暫しの休息を取っていた。


 その少女も、本堂の陰で身体を休めていた。

「ねぇ、靖ちゃん、大丈夫?」

 彼女の横では、さっき彼女を助けた級友が、同様に暑さを凌いでいる。

「うん。ちょっとフラっときただけじゃけぇ……エマちゃん、ごめんね」

 そう言って微笑んだものの、少女の表情は、とても疲れを隠しきれていない。

「ほんまに? たいぎかったらいつでも言うんよ」

「心配し過ぎ! うちは本当に大丈夫っ! ほら、この通り!」

 心配する友の気遣いにも、彼女はわざと大声で、両腕をぐるんぐるん回して自分はまだ元気であることを示そうとする。隣の彼女は、それを見てちょっと呆れたように苦笑する。――そうだ、この子はそういう子だ。

「そう。でも、靖ちゃん、無理はいけんよ」

「ありがと。でも、お国のために作業を頑張るんが、うちらの務めじゃけぇ……」

「ほうじゃねぇ・・・・・・」

 二人は壁に寄り添って空を見上げた。空は、雲の欠片も無く、抜けるように蒼かった。今日は憎らしいほど暑かったが、青空だけはうっとりする程に美しい。


 その日は、雲ひとつない晴天だった。――事実、この街の南方の高台に設置されていた気象台は、午前六時の段階で「快晴、風力2、気圧764mHg」と天気図に記している。


 木陰で友と二人で涼みながら、少女は、暫くの間、真っ青な空を見詰めていた。すると、一羽の鳥が目の前を飛んで行くのが見えた。彼女が見ている前でその鳥は陽の光で輝くような青空を、思うが儘に翔んでいた。

 彼女はその鳥を目で追った。小さな鳥だった。突風が吹いたら何処かにでも飛ばされるのではないかと思われる位の小鳥だった。だが、その小鳥は、地上の事などお構い無しに自由に空を駆けている。そんな鳥を見ていた少女の瞳は心なしか安らいでいたようだった。鳥はゆっくりと少女たちの真上を旋回すると、上空へと翔け昇って行く。少女は尚もそれを目で追う。鳥はぐんぐん高度を上げていった。あの青い空に吸い込まれるかのように。高く昇るに連れ、鳥はどんどん小さくなっていった。空の彼方へと飛び去って行くその小さな鳥。少女は鳥の行く先を見上げた――


 ――その先に、少女はそれを見た。小さな豆粒のような物体が、鳥よりも遙か上空を飛んでいるのを。

「何じゃろ、あれ……」

 彼女は思わずその言葉を口に出していた。隣に居た級友もそれを見つけたらしく、立ち上がり空を指す。

「Bじゃ……」

 周りの女生徒達もそれに気付いて騒ぎ始めた。


 それは飛行機、しかも憎き『敵』の爆撃機だった。

 彼女たちが見たところ、数は三機。超高度で飛んでいるのか、余程注意しないと、なかなかそれとは気付きにくい。しかし、彼女たち――況や街中の大人たちはすぐにそれだと気付いた。今、空を飛ぶものは鳥以外にそれしかないと知っていたからだ。耳を澄ませると微かだが爆音も聞こえてくる。


 すると敵機は、地上に向けて何かを投下した。少女はそれが落下傘であるのが見えた。落下傘はゆらりゆらりと落ちていった。


 その時、路面電車は会社や学校へと出る人で溢れ――


 銀行ではお金を下ろそうと気の早い人々が玄関前に列を成し――


 街を賑やかせる商店は営業に向けた準備に勤しんでいて――


 人々は普通の日常を始めようとしていた。


 そんな彼らの頭上に、落下傘がひらり、ひらりと舞い降りた。


 いったい、どれ程の人間が「それ」を見たのだろうか。それは分からない。だが、それに気づいた人々は、空からゆらゆら落ちて来るそれを指差しながら、或る者はその飛行機の乗員が脱出したのだと嗤い、また或る者はそれが落ちてくる意味が解らず、首を捻り続けるのだった。


 少女も不思議に感じながらその光景を眺めていた。何時になったら「それ」が地上にたどり着くのだろう、そう思った刹那――











 






 一瞬の閃光とともに、人々の日常は終わりを告げた。




 少女の今日も、明日も、――未来も。














 

 一九四五年八月六日、廣島。その日は、雲ひとつない晴天だった――

 







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