第四章「二つの月」13
それから一ヶ月も経つ頃には、秋人の傷もほとんど癒えていた。
元来身体の回復は早い方の秋人だが、今回ばかりはそれなりの時間がかかった。
ベッドの上で目覚めた秋人が、療養中もひたすらに気にかけていたのは藍那堂の事だ。
数日間意識を失っていた秋人は、藍那から預かったばかりの店を、いきなり休業させてしまった。
もちろん、その間の収入は無い。
家計の事など気にしないナツキは能天気にスイーツを食べ歩いているし、それに加えて藍那堂には二人の居候が増えていた。
不由彦と遥香である。
事件後、行く場所の無かった二人の身柄をとりあえず迎え入れた。
そのこと自体に問題は無いのだが、人が増えれば比例して生活費も増えるのが自然だ。
電卓を弾き帳簿との睨み合いを続けていた秋人に救いの手を差し伸べたのは、意外にも居候の不由彦だった。
過去に竜堂家の実務を取り仕切っていただけあって、不由彦はさすがに優秀だった。経営の観点からさまざまな面で秋人を助力したのだ。
その甲斐もあってか、休業明けの店舗運営は順調な軌道に乗り始めていた。
そんなある日の事だった。
「じゃあ、行ってしまうんですか?」
エプロン姿で店の棚にハタキをかけていた秋人は、振り向きざまにそう言った。
「そうだね。遥香の学校の事もあるし……紹介してもらった職場とも話はついているんだ」
秋人と同じクリーム色のエプロンを身につけた不由彦が、棚に品を並べながらそう言った。
「そうですか……。寂しくなります」
「私もそう思うよ。けれど、いつまでもここでお世話になる訳にはいかない」
不由彦は手を止め、秋人の方を見た。
潰れた左眼を眼帯で隠し、残された方の眼で真っ直ぐと前を見つめている。
「私達はそれぞれに、自分の人生を生きるべきだと思う。竜堂家の人間ではなく……一人の人間として」
「……はい」
そう言って、不由彦は穏やかに微笑んだ。
あの屋敷で次期当主と言われていた頃には、見ることのなかった表情だった。
「まあ、だからといって二度と会わないという事じゃない。時々は遊びにくるよ。遥香も、あの子に懐いているみたいだ」
「ナツキですか。あいつ、遥香さんに変な影響を与えてないといいんですが。今日も連れ回しているみたいだし」
「いいんだ。遥香には少し引っ込み思案なところがあるから……、そうしてもらった方がありがたい」
厚かましく遠慮を知らないナツキは、どちらかといえば物静かな遥香にもしつこく絡み続けていた。
初めの頃は見ているこちらがハラハラとしたものだが、今では随分と打ち解けているようだった。
洋服選びやスイーツ巡りなど、ナツキの趣味に連れ回されているような節もあるので、秋人はこっそりと心配をしている。
「……秋人。あの子の事だが」
「ナツキ、ですか?」
不由彦はこくりと頷いた。
「疑っているわけじゃないんだ。あの子が善良な存在である事は分かる。……けれど、その得体がしれない」
秋人は、不由彦の考えていることになんとなく察しがついた。
心配をしているのだ。
その身体には竜堂の力が宿り、左腕には異界へと繋がる門までついている。
ともすれば、世界を滅ぼしうる存在。
それが、ナツキだから。
「……確かに、アイツは変なヤツです」
秋人は、手に持っていたハタキを置き、掌を開いた。
それを一本ずつ指折り数えていく。
「服は汚す、ご飯はこぼす、片付けは出来ないし、掃除もできない」
「……え?」
ポカン、とした表情の不由彦を尻目に、秋人は更に続けた。
「奇抜な服ばかり着るし、放っておくと甘いスイーツしか食べない。言う事は聞かない。自分勝手。厚かましい。ものすごいナルシストで、寝相も悪い」
両手の指で数えきれないほどにナツキの短所をあげ連ねた秋人は、最後にもう一つ付け加えた。
「しかも、人間じゃない」
そう言った秋人を、不由彦が見つめた。何かを見極めようとする瞳だった。
秋人は指折り数えていた手をパッと開き、それを交差させるようにパンパンと叩いた。
そして、ニッと歯を見せて笑った。
「けど、信頼できます。あいつは、僕の相棒です」
「……そうか。そうだよな」
その時、店に置かれている時計が、ぼーん、と音を鳴らした。
開店の時刻を示すものだ。
「時間ですね。店、開けてきます」
秋人はそう言って店頭へと向かった。
その背中を、不由彦は眩しそうな表情で眺めていた。
漢方藍那堂の入り口が開かれる。
カラン、カランとドアベルが鳴る。
店から出てきた秋人は、「準備中」の札を「営業中」と書かれた面にひっくり返した。
少し斜めになっていたその札を、秋人は水平になるように整える。
「……よしっ」
満足気に頷いた秋人は、店内に戻っていった。
また、新しい一日が始まる。
秋人の手によってピカピカに磨かれた藍那堂の看板が、陽射しを反射して輝いていた。
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