第四章「二つの月」12
某所、某病院。
病棟の個室に、窓から朝陽が差していた。
真っ白なベッドの上には、一人の老人が横たわっている。
顔の下半分には人工呼吸器が取り付けられており、その表情を伺うのは難しい。
ピッ、ピッ、と音を立てて心拍を伝える機械が、物言わぬ彼の生存を示し続けていた。
ベッドの脇の小さな椅子に腰かけ、藍那ナイアは林檎の皮を剥いていた。
お見舞いの品として持ってきたものだ。
小さなナイフを巧みに扱い、クルクルと剥いた皮を器用に一枚に繋げていく。
「……あっ」
それが、プツッと途切れた。
長く繋がっていた皮が、皿の上に落ちる。
「……ここまでだね」
老人がゆっくりと目を開いた。
竜堂式部。
かつての竜堂家当主である。
「あ、目が覚めたかな」
藍那は、掛け布団の中に手を差し込み、式部の手を取った。
枯れ枝のように細い指だった。
その手をさするようにしながら、藍那は式部に語りかけた。
「終わったみたいだよ。全部、片がついた」
式部の眼が、僅かに見開かれた。
しかし、言葉を発することはない。
それだけの体力は残ってはいなかった。
皺だらけの手の微かな震えから、藍那は式部の思いを読み取った。
「雪子さんも大丈夫。取り憑いていた根は全部取り除いたよ。日常生活に戻れるかどうかは、彼女次第だけど」
ピク、と老人の人差し指が動いた。
目の端から一筋の涙がこぼれ、乾いた肌に沁み込んでいく。
藍那は、式部の額にかかった前髪を手櫛で掻き分けた。
「……君はよくやった。できる限りを尽くした。だから、もう気に病まなくていい。あの子達は、この先もきっと大丈夫だから」
酸素マスクの奥。
隠れた口元が、僅かに微笑んだ気がした。
ピッ、ピッ、という電子音が鳴る間隔が、少しずつゆっくりになっていく。
生命の危険を示す警告音が鳴り始める。
そのけたたましさとは対照的に、ベッドの上の式部の表情は穏やかだった。
「おやすみ、式部。私の大切な友人……」
窓から差し込む朝陽を受けながら、藍那は薄く微笑んだ。
その最後の瞬間まで、式部の掌を握り続けていた。
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