第四章「二つの月」11
夜の公園。
ソレはジャングルジムの頂上に腰を下ろし、多幸感に打ち震えていた。
やはり、竜堂の身体は良い。
特に、この竜堂魚月の身体は別格だ。
月の光を受けて全身が輝いている。
月鱗は、とっくに太腿を覆い尽くし、上半身にまで広がっていた。
身体の変化には疼くような快感が伴っていた。感じたことのない解放感だった。
歓喜のあまり、自然と涙が流れた。
こんな気持ちは、初めてだった。
暗い石蔵の中に入れられた時から、ずっと窮屈な閉塞感を抱いてきた。
「先祖返り」で身体が変容してからは、冷たい地下の棺の中で強制的に眠らされた。
終わることのない幽閉。
どこまでも続く暗闇。
いつ来るのかもわからない「王の覚醒」を待つ間に心は淀み濁っていった。
ソレはある時、精神体となって肉体を抜け出す術を得た。また、同じ状況にある仲間と存在を重ねることで、生きた人間の精神にも干渉できるようになった。
しかし、それでもまだ、竜堂の治める土地から抜け出す事は叶わなかった。
藍那という女が張った結界が、それを固く禁じていたからだ。
ソレはひどく憤った。
しかし、諦めることはしなかった。
結界の内側である屋敷の隅々にまで根を伸ばし、そこに住む人々の心を盗み見て、機会が訪れる時を待ち続けた。
そして四年前のあの日。
ソレは隙を見逃さなかった。
屋敷に張られた結界には、要がある。
要のある場所は、当主か、それを継ぐ者にしか知らされていない。
当主の心は守りが固く、綻ぶことはなかった。しかし、継ぐ者はそうではなかった。
その日、竜堂不由彦の心はひどく揺れていた。動揺から出来た綻びは、そっと引っ張ってやるだけでスルスルとほどけた。
不由彦と親交の深かった道津雪子という名の使用人の精神にソレは子供の頃から長い時間をかけて根を張っていた。
雪子という女の身体を介して、巧みに竜堂不由彦を支配した。
不由彦に結界の要を破壊させれば、ソレはここを出ることが可能になる。
そうすれば、もう自由だ。
竜堂家の事情なんか関係ない。
その筈だった。
けれど、ソレは出会ってしまった。
思惑通りに事が進んでいたさなか、竜堂魚月の身体に変化の兆候が現れた。
古の先祖の肉体への『先祖帰り』。一族が待ち続けた、王の力の覚醒。
あの石蔵から、わずかに漏れ出していた気配にも、その片鱗が充分に感じられた。
気が変わった。欲しくなった。
その古の力は、自分達が得るべきだとソレは思った。
気が遠くなるほどの期間、多くの仲間達が、自由という犠牲を払ってきたのだ。
たった数年、そこにいただけの少年が手にする力ではない。
ソレは不由彦を使い、魚月の身体に宿る力を手に入れようとした。
だがそれは思いもよらない形で阻まれた。
「……あの女」
ソレは歯噛みした。
竜堂の地に忌まわしい結界を張った、薬売りを名乗る女。
偶然に居合わせた彼女の画策により、目覚めかけた竜堂魚月の身体は奪われた。
得体の知れないその女は、ソレと同じように、長い時を渡る存在だった。
飄々として捉えどころがなく、何を目的としているのかもわからない。
迂闊に手を出す事は出来なかった。
藍那ナイアと名乗るその女が、魚月の身体とそのお付きである秋人を自らの手元に置いた事で、ソレが干渉することはなおさらに難しくなった。
けれど、諦めきれなかった。
あの力が欲しい。
世界すらも狂わせる、あの力が。
ソレは策を弄する事にした。
その精神に深く根を張った道津雪子。
その雪子の元に引き取られた竜堂の血を引く幼子、竜堂遥香。
操り人形の竜堂不由彦。
コマは揃っていた。
時間はたっぷりとあったし、待つ事には慣れていた。ソレは少しずつ、計画を進めた。
柄井ついり、という女子高生を使った企みは結果的には失敗したが、収穫もあった。
魚月の身体の中にいる存在は、他者に甘い。
弱さには隙を見せるだろう。
竜堂秋人には、迂闊なところがある。
騙せる余地は十分にあった。
薬売りの藍那は警戒すべきだが、彼女は魚月にべったりと張り付いている訳ではない。
何日間か、そこを離れることもある。
ソレは機会を伺い続けた。
そして、ようやく手に入れた。
古の王の力が眠る身体。
力が漲っていた。感覚が拡張していくのが分かる。果てしない高揚が、下腹部から迫り上がってくる。
ソレは大きく両腕を広げた。
月鱗は、もう手首にまで広がっていた。
真の力は、もうすぐそこにある。
「随分と、気持ちがよさそうだな」
男の声がした。
ソレはゆっくりと声の方を向いた。
竜堂秋人が、黒い鞄を携えてそこに立っていた。
戦うつもりなのだろうか。両手に黒い手甲をつけている。
「あら、兄様。追いかけてきたの? 嬉しいね。私の身体が、完全に羽化する瞬間に立ち会ってくれるなんて……」
「……生憎だが、そのつもりはない」
秋人は、鞄から取り出した黒い棒を片手に携えた。手首を振り、ジャキっと音をたててそれを伸ばす。防犯用の特殊警棒である。
「力付くでも止めさせてもらう」
ソレは、フンと鼻を鳴らした。
「……兄様、本気? そんなおもちゃで、何か出来ると思っているの?」
「やってみないと、わからないよ」
秋人は警棒をスッと構えた。
「アハハハ! やっぱり兄様はいいなぁ。まっすぐに愚かで。いいよ、やってごらん?」
ソレが座すジャングルジムの後ろから、人影が音もなく現れた。
その人物は、意志の感じられない虚な瞳で、ぼーっと空間を見つめていた。
「不由彦さん……」
秋人は、警棒の柄をグッと握り込んだ。
竜堂家の次期当主と目されていた不由彦。冷静で理知的な義兄。
その姿は秋人の憧れだった。
あんな風になりたいと、子供の頃からずっと思っていた。
「さぁ不由彦さん。怖い敵がくるよ。守って。戦って。大切な私を守るために」
ソレは、呆けた不由彦に囁きかけた。
片手の掌を水平に広げ、そこにフッと息を吹きかける。
身体から立ち昇る蠱惑的な香りが、不由彦の周りにふわりと降りていった。
それを吸い込んだ不由彦は、様子が明らかに変わった。
全身を大きく震わせたかと思うと、歯茎を剥き出しにして、だらりと舌を垂らした。眼球は忙しなく動き始め、ハァハァと激しい吐息を漏らしている。
さながら獣のように見えるその姿を、秋人は四年前にも目にしていた。
あの時と同じ、理性無き姿。
ニタァ、と笑みを浮かべた不由彦は、地面に低く突っ伏し四つん這いになった。
そして、咆哮を上げる。
(来るッ……!)
一瞬の事だった。
地面を蹴った足が、土煙を上げた。
旋風のような突進。
秋人はそのタイミングに合わせ、手に持っていた鞄を投擲した。
向かってきた不由彦に正面からぶつかった鞄が、勢いよく開く。その中身がバッと散らばった。
それは、粉のようなものだった。
不由彦は、突っ切るようにして真っ直ぐに駆け抜ける。
投げた鞄一つの衝撃程度で、不由彦の攻撃は止まらなかった。
警棒を固く構えていた秋人の防御を、もろともしない突進。
不由彦は四足獣のように、頭から秋人の胴体にぶつかっていった。
「ぐっ……かはっ!」
その衝撃を胸で受けた秋人は、手に持っていた警棒を弾いたうえ、数メートルも後方に吹き飛ばされた。
叩きつけられた先の地面で膝をつく。
スラックスの生地が破れ、擦りむいた膝からは赤い血が滲んだ。
打ち付けられた身体の痛みに耐え、秋人は立ち上がった。
顔を上げ、正面の不由彦の姿を見据える。
四つ足で低く構えた不由彦は、全身に灰色の粉を被っていた。
秋人の投擲した鞄から散ったものだ。
それは灰だった。
棗椰子と棕櫚の枝を燃やした後の灰に、海水から取った粗塩を混ぜたもの。
複数の宗派の様式が混ぜこぜになっているが、その効果は藍那に保証されていた。
術の力を伝播しやすくする、媒介だ。
灰だらけになった不由彦は、呻き声を上げながら片目を擦っていた。瞼の中に灰が入り込んだのだろう。
不由彦の注意が逸れた瞬間。
秋人は懐から一枚の白い紙を取り出した。
細い長方形の紙には、文字と弓などの絵が墨で描かれている。
悪霊祓いに用いられる符の一種である。
(少し荒っぽい方法にはなるが……!)
秋人は、手甲に内側に仕込んでいた五センチ程の鉄杭を、符の真ん中に突き刺した。
右の拳の先から符と鉄杭が突き出たような格好になる。
(近づいて……確実に)
秋人の額を、ぬるい汗が伝った。
目の痛みに苦しむ不由彦は、唸り声をあげて両腕を振り回している。
秋人は意を決し、拳を固く握った。
不由彦の獣のように鋭く尖った爪が空を切っている。秋人はその懐へ飛び込んでいく。
目にも止まらぬ、鎌鼬。
秋人は、左腕の手甲で防御を試みた。
だが、狂気に堕ちた不由彦の膂力は、それすらも容易に切り裂いていく。
「うぐッ…!」
二の腕が裂け、鮮血が飛んだ。
しかし、怯むわけにはいかない。
秋人は、構わずぶつかっていった。
低い姿勢で構えている不由彦に膝で体重をかけ、覆いかぶさるような体勢で、無理やりに身体を押さえ付けた。
「うがああああああああ!」
ものすごい膂力だった。
押し退けられそうになった瞬間、秋人は振りかぶった右の拳を叩きつけた。
その先に仕込んだ鉄杭は、不由彦の脇腹にぶすりと突き刺さる。
悪霊祓いの符も諸共に、肉の中にめり込んだ。
「ぎやあああああああ!」
不由彦の叫び声が響き渡った。
全力で拒絶を示した両腕が、秋人の身体を突き飛ばす。
その瞬間、秋人は右の手甲を斜め方向に強く捻った。
あらかじめ焼き付けてあった鉄杭が、ポキリと折れる。
深く突き刺さった鉄杭と符は、そのまま不由彦の身体の表面に残った。
灰で塗れた不由彦の身体。
電気を通す水のように、その灰は符の持つ力を不由彦の全身に伝えた。
悪霊祓いは、獣祓い。
不由彦の理性を塗りつぶしていた獣の性と反応し、その術式は発動する。
「ん、ぐ、うああああああッ!」
頭を強く掻きむしりながら、不由彦は地面をのたうち回った。
取り憑いた獣の性と、人の理性が反撥しあっている。
地面に蹲った不由彦の姿を見つめながら、突き飛ばされていた秋人はゆっくりと立ち上がった。
ここから先は、不由彦が本来持つ理性の強さに賭けるしかない。
しかし、少なくとも時間稼ぎはできる。
不由彦が身動きを取れないうちに、目的を果たすことができれば。
「へぇ、兄様は竜堂の若旦那様相手に随分とひどいことをするんだねぇ」
ジャングルジムのてっぺんから跳び、ソレはふんわりと地面に降り立った。
長い黒髪が、宙で靡いている。
まるで何万匹もの蛇が、同時に蠢いているようだった。
「ひどいのはお前だよ。不由彦さんの心と身体をこんなに弄んで……」
「ひどい? 私達が?」
ソレはクスクスと笑った。
「わかってないねぇ、兄様。これは、そいつ自身が望んだことなんだよ。竜堂家なんて無くなればいい、無力な自分なんて消し去ってしまいたい。私達の目の前でそう願ったのは、そいつなんだから」
ソレは、苦しむ不由彦の姿を一瞥した。
「何百年、何千年。私達に犠牲を強いてきた一族の次期当主が、『辛いから辞めたい』だなんて、随分と都合の良い話じゃない? これは対価よ。願いを叶えた対価。兄様を誑かした薬売りの女がやっていた事とおんなじ」
滔々と話すソレの声が、少しずつ変化していくことに秋人は気が付いた。
肉体の声帯が震える音とは別に、ソレの方から他の声色が聞こえてくる。
子供の声。老婆の声。男の声。女の声。
それは、魚月の身体に入り込んだ意識の集合体の声だった。統合された、それぞれの思いが漏れ出しているようだった。
「苦しむべきなんだ、こいつは」
「こいつだけじゃない」
「竜堂の全て、世界の全て」
「あの石蔵の外にあった全て」
「触れることすら叶わなかったものの全て」
「壊してやる」
「狂わせてやる」
「私達には、もうその力がある」
爬虫類に似た瞳が、爛々と輝いていた。
何かに陶酔しているようでもあった。
ソレは、手の甲まで月鱗に覆われた腕をゆっくりと秋人に向けて翳した。
瞬間、秋人は強い力で押し出された。
目に見えない巨大な何かが、正面からぶつかってきたような衝撃だった。
「ぐっ、ふ……」
公園の端まで吹き飛んだ秋人は、仰向けに倒れ込んだ。口の端から血が流れる。
夜空を仰ぐ形になった秋人の視線の先に、ソレはいた。
全身の月鱗を煌めかせながら、空中を歩くように浮遊している。
着物の裾がはためき、ふくらはぎまで月鱗に覆われた下半身が見えた。
「ほら、こんなこともできる」
ソレはニンマリと笑い、両の掌を重ねて地面に向けた。
何かを押し下げるように、二の腕をおろしていく。
「がっ……あっ……」
ミシッと何かが押し潰れる音がした。
秋人と身体の上の方から、ひどく重たい何かが押し付けられていた。
逃れられない圧迫が身体を襲う。
押し付けられた周囲の地面が、ベコッと凹んでいくのがわかった。
肺が押し潰され、呼吸すらままならない。
「が……や、め……」
秋人が苦悶の声を漏らすと、ソレはケラケラと笑って重ねた両手を顔の横に上げた。
すると途端に身体が軽くなる。
通常に戻った秋人の肺が、不足していた空気を一気に吸い込んだ。
むせて咳き込み、血を吐く様子を見せた秋人を、ソレは薄く微笑みながら眺めていた。
「ねぇ兄様、苦しかった?」
荒く息をして地面に突っ伏している秋人の近くに、ソレはゆっくりと降りてきた。
「逆らうのなんて、馬鹿らしくなるでしょう。生き物としての格が違うんだもん」
ソレは汗と血に塗れた秋人の顎を持ち、無理矢理に引き寄せた。
鼻先が触れ合うほどに、二人は近づいていた。互いの瞳に、その姿が写る。
「……でもすごいね。兄様は不思議」
ソレは上唇をペロリと舐めた。
その舌は赤く、先端が二つに割れている。
「こんなに近くで月鱗の力を受けているのに、全然おかしくならないんだね。竜堂の血を引いているとはいえ、あの不由彦とは大違い。本当に素敵だよ」
辺りは甘い匂いで満ちていた。
月鱗の放つ光と香りは、人を狂気へ誘う。
覚醒によって強くなった月鱗の力を、この場所で受け続けている秋人が、未だ正気を保っていることにソレは驚いていた。
「しかも、力が周りに影響しないように結界まで張り続けてる。範囲はこの公園かな? 人間の味方は大変だねぇ」
秋人は目を見開いた。
「……気付いて、いたのか」
「当たり前でしょう。私達が、どれだけの長い時をこの忌まわしい結界によって封じられてきたと思ってるの?」
ソレはふっと微笑み、公園の端の方に視線をやった。
暗い公園の四隅には、なるべく目立たないように独鈷や水晶が設置してある。
姿を表す前に、秋人がこっそりと設置したものだ。それらは結界の要だった。藍那堂の倉庫から持ち出した、力のある品々。
「でも、あれじゃ不十分。要のある位置が分かっちゃうもん。時間さえあれば、内側からでも壊せちゃうよ。残念だったね」
「そう……か……」
秋人の身体からスッと力が抜けた。
全てを、諦めた様子だった。
必死に用意した企みを、全て看破されていたのだ。無理もないだろう。
ソレは項垂れた秋人の頬をそっと撫でた。
「兄様、よく頑張ったね。でも、これで分かったでしょう? もう何をやったって無駄だってこと」
「…………ああ」
秋人は焦点の定まらない様子で、ボンヤリとした表情を見せた。
張り詰めていた気持ちが切れてしまったのか。
両腕もだらりと垂れ下がっている。
「……ねぇ、兄様。私達と一緒に行こうよ」
ソレは、秋人の耳元に唇を寄せ、甘やかな声で囁きかけた。
「兄様ならいいよ。だって、私達と一緒にいても正気を保っていられるもの。隣に居ることができるんだもの」
月鱗に覆われた掌が、秋人の身体に触れる。その存在を確かめるように指が肌の上を滑る。やがてソレの腕は秋人の背中にまわり、その身体をギュッと抱きしめた。
「私達のものになってよ。本当の兄様になって。ずっと隣にいて。この世界が壊れていく様を、一緒に見てよ」
空の月が、もう傾きかけている。
朝が近いのだ。
秋人は、地面からそれを仰ぎ見ていた。
密着したソレの身体から甘い匂いが漂ってくる。むせかえるほどに濃い、誘惑の香り。
だらりと下げていた腕に、秋人はゆっくりと力を込めた。
「一緒に……か……」
持ち上げた腕を身体にまわす。
抱き合うような体勢になった秋人の掌が、ソレの背中に触れる。
月鱗の硬い感触を着物の向こうに感じた。
「そう、そうだよ。兄様は私達と一緒にいるべきなんだよ。あんな女や、バケモノとじゃなくて……。私達が、本当の魚月になってあげるから……!」
その瞬間だった。
ソレの全身を覆っていた月鱗が、細かい蠕動と共に強い光を放ちはじめた。
最後の変化が始まったのだ。
「う、あ、あああああ!」
ソレは、叫び声と共に身体を反らせた。
痛いのか。苦しいのか。
口の端から飛沫を飛ばしながら、大きく身体を痙攣させている。
どちらにせよ、ソレは反射的に秋人の身体から腕を放した。
秋人は、その瞬間を見逃さなかった。
「……ッ!」
瞬時に起き上がり、ソレの左腕を抑え込む。
その手首にはン・カイの腕輪がはめられている。
秋人はそれを両手でしかと掴んだ。
「……ッ! 秋人、貴様ァァァッ!」
変化の最中、ソレは叫んだ。
洞穴の奥から響くような、低い声だった。
何人、何十人もの声が、幾重にも重なったような。
「僕の相棒は……あいつだけで十分だッ!」
秋人は、その手に力を込めた。
カチャリ、と音がした。
封印の腕輪。その錠が外される。
「戻ってこい…………ナツキッ!」
その名を呼んだ瞬間、強い発光と共に、秋人の目の前で何かが爆ぜた。
爆風のような衝撃波が秋人を襲う。
吹き飛んで地面に叩きつけられた秋人が目にしたのは、宙に舞う無数の月鱗だった。
それはキラキラと光を反射させながら、ゆっくりと空中を周り浮遊している。
魚月の身体を覆っていた月鱗が、内側からの力で強制的に排斥されたのだ。
その中心に、一つの人影があった。
風に靡く黒髪。
滑らかな白い肌。
長い睫毛と、漆黒の瞳。
一糸纏わぬ姿をしたその人は、裸で仁王立ちをしたままに、声を放った。
「随分と待たせてくれたなぁ、アニキ!」
そこにいたのは、竜堂ナツキだった。
髪を振り翳し、挑むような目つきで秋人を見つめている。
その足元に、腕輪が一つ転がっていた。
ン・カイの腕輪を外したことにより、その意識の封印が解けたのだ。
身体を覆っていたはずの月鱗は、見る限りその肌には一片も残っていない。
ナツキが戻ったことにより、その全てが弾き出されたのだろう。四年目のあの時の同じように、魚月の身体の覚醒は止まっていた。
「……は、ははっ……」
秋人は、その場でへたりと腰を抜かせた。
なんとか、ギリギリで間に合ったのだ。
粗野なナツキの声を聴くと、ついホッとして気が抜けてしまっていた。
「んだよ、笑ってる場合かぁ?」
浮遊する月鱗の間を歩き、へたり込んでいる秋人に、ナツキは手を差し伸べた。
「……いや、何でもない」
その手を掴み、ゆっくりと立ち上がる。
「よく、戻ってきてくれた」
秋人がそういうと、ナツキは口を尖らせてポリポリとこめかみを掻いた。
「よかったのかよ……戻ってきたのが、バケモノの俺の方で」
バケモノ。
それは、封印される瞬間に秋人がナツキに向けて放った言葉だった。
「あれは、なんというか……言葉の綾だ」
「……は、なんだよそれ」
ナツキはムッと眉間に皺を寄せる。
「は、遥香さんの身体を取り戻す為に、あの時は従順なフリをしなきゃいけなかったんだ!」
ムスッとした表情のまま、ナツキが顔を近づけてくる。
真っ直ぐに正面から睨まれ、秋人は何故か、しどろもどろになってしまう。
「……で?」
「……そんな風に思っている訳じゃない。うまく演技しようと思って、つい……」
弁明を続ける秋人の顔を、ナツキはずっと睨みつけている。
身長差がある為、下から見上げるような形だ。腰に手を当て、全く引く様子のないナツキを前にして、秋人はとうとう観念した。
「ごめん。悪かった。バケモノだなんて言って、すみませんでした」
そう言って頭を下げた秋人の腹に、ナツキは軽くパンチを打ち込んだ。
「うっ……」
小さく呻いた秋人を見て、ナツキはニカッと笑って見せた。
「分かればいいんだ、分かれば。傷ついたんだぜー、俺は。いきなり封印されるし」
「だ、だから悪かったって……」
「……確か、和菓子の末次堂が今月末に限定数量の金箔入り羊羹を売り出すんだよなぁ。高校生の小遣い程度では、とても手が届かない高級品だとか……」
「分かった、分かった! 買うよ、買う!」
「っしゃあ、やりぃ!」
ガッツポーズで喜ぶナツキを前にして、秋人は肩をすくめた。
思えば、竜堂の屋敷にいた時の魚月も甘い食べ物が好きだった。
魚月とナツキ。身体を共有する二人には、どこか通じるところがあるのかもしれない。
秋人は、裸のままだったナツキの肩に、自分の着ていたジャケットを脱いでかけた。
身長差があるナツキが着ると、膝上まで覆うような格好になる。
「とりあえず、それを着ていてくれ。……目のやり場に困る」
「……は? 俺の身体に、見られて困る箇所なんてないぜ」
「そういう意味じゃない! まったく……」
秋人は苦笑し、嘆息した。
「……! アニキ、あれ!」
突如、ナツキが何かを指さした。
秋人が目をやると、そこには黒い靄がとぐろをまくように渦を作っていた。
複数の意識の集合体。
魚月の身体から弾き出された強い怨念を抱く存在が、そこにいる。
「……もう、取り逃がせねえぜ」
「わかっている。その為に周囲に結界も張った。……ここでケリをつける」
ナツキと秋人。
二人は並び立ち、同じ方向を見つめた。
渦を巻く黒い靄の中に、宙を漂っていた無数の月鱗が巻き込まれていく。
一点に集合した月鱗は、黒い靄を包み込むようにその型を形成していった。
頭、胴体、四肢。
大量の月鱗は、即席の身体を形成する。
隙間から漏れ出る靄を撒き散らせながら、ソレはおよそ人の声ではない咆哮を放った。
「竜堂秋人……竜堂おおおおおおおおっ!」
金属が反響しあうようなその声が、二人の耳をつんざく。
片耳を手で塞ぎながら、ナツキは
「アニキ!」
と呼び、親指でピンッと何かを弾いた。
反射的に受け取った秋人は、手のひらを開いてそれを見た。
それは月鱗だった。
たった一枚だけ、ナツキの身体に残っていたもの。
「これは……」
「一枚あれば十分だろ。……ちぃっと無理してでも、前で戦ってもらうぞ」
そう言ってナツキは、片腕に残っていたもう一つの腕輪に手をかけた。
ン・カイの世界へと繋がる「顎門」を開く鍵だ。
「……わかった。気を付けろよ」
「アニキこそ、な」
秋人はフッと微笑んだ。
そして、受け取った月鱗を自らの口の中に放り込み、奥の歯で勢いよく噛み砕いた。
割れた月鱗から染み出した効力が、口内の粘膜から秋人の身体に浸透していく。
竜堂の一族に生まれ、月鱗に対して特別に強い耐性を持つ秋人だけが耐えうる用法だ。
狂った際に獣のような膂力を見せた不由彦と同じように、身体にかけられたリミットを外し、人の運動能力の限界を越える。
人の理性を残したままに。
秋人はぶるる、と背筋を震わせた。
身体中で感じていた痛みが消えていく。
それは癒えた訳ではない。
麻酔のように感覚を紛らわせているだけだ。けれど、今はこれでいい。
スゥーッと息を吐き、秋人は両腕を低く広げた。
感覚が研ぎ澄まされる。
空気がピリピリと震えているのが分かる。
……来る。
秋人は目を凝らした。
正面。
ソレは、秋人をめがけて跳んだ。
腕にあたる部分がヴウンッ、と風を切る音と共に振り下ろされる。
秋人は広げていた腕を振り切るようにしてソレを薙ぎ払った。
秋人の鋭く変化した爪が、月鱗を抉りだすように弾く。
夜明けの空に月鱗が舞う。
秋人は上体を強く捻り、両腕を交互に繰り出してソレの身体を抉り続けた。
限界を超えて、肉体が躍動する。
右、左、右、左。
その反復運動を支える背骨が、ミシミシと音を立てた。
抉った月鱗の向こう側に闇が覗いている。
その中身は、少しずつ漏れ出していた。
思念が凝縮された、黒い靄。
身体を脱ぎ捨てた竜堂の一族、その怨念。
「ナツキィッ!」
秋人が叫ぶ。
「よしきたッ!」
後方、真っ直ぐに突き出されていたナツキの左腕が、指の先から二つに裂けていく。
異界への門が開く。
その切れ目は、中指の先から手首へ。
二の腕をパックリと割り、肘先も超える。
左腕が、開いた。
その切断面に広がるのは闇の世界である。
光の届かない、ン・カイの地下世界。
その闇に向けて強い風が吹き込んでいた。
正しくいえば、あちら側から吸い込む力で大気が震えているのだ。
闇に世界の最奥で微睡む「彼」が、その口を開いている。
この世界にある異能など、「彼」にとっては捧げられた供物のひとつに過ぎない。
「もう逃さねえ……!」
左腕の「顎門」を構えたナツキが、ソレに向けて歩を進めていく。
月鱗の奥から漏れ出した靄が、強く吹く風に巻き取られるようにして、少しずつ引き裂かれた。
身を削がれた黒い靄は、秋人の目の前で甲高い悲鳴を上げる。
「イヤアアアアアアアアアア!!」
ソレは散らばった月鱗をかき集め、身体の抉れた箇所を塞ごうとする。
しかし、秋人がそれを阻んだ。
革靴の底で伸びた腕を踏み付け、もう片方の脚で強く蹴り上げる。
宙に高く月鱗が舞った。
秋人は、手を休めなかった。
全身を動かし続け、黒い靄を覆う月鱗を、そこから物理的に排除していく。
空いた穴からは、黒い靄が少しずつ引き摺り出され、ナツキの開いた門に吸い込まれていった。
ソレは月鱗を震わせるように声を発した。
「イヤ、イヤ、ねぇ兄様、やめさせてよ、こんなこと……」
その声は、魚月のものに似ていた。
拳を握った秋人の動きがピクっと止まる。
「私達は、あの暗い石蔵から出たかっただけ。自由が欲しかっただけ。みんなが当たり前に持っている幸せが欲しかっただけ……」
黒い靄が、秋人の身体に擦り寄っていく。
その頬を優しく撫でるように。
「悪いのは私じゃないよ。閉じ込めた竜堂家の方だよ。ねぇ、兄様も知っているでしょう? おかしいと思っていたでしょう? だったら、こんなことしないで。もっと私達に優しくしてよ。魚月にそうしたみたいに……」
ソレは懇願を続けた。
その一方で、散らばった月鱗を集め続けている。
秋人の目に入らないように、こっそりと。
「おい、アニキ! 何やってんだ、もうこっちは限界だぞ!」
ナツキが叫んだ。
左腕に開いた門が徐々に大きくなっている。腕の裂け目が肩の方まで伸びているのだ。
このままでは、まずい。
門が広がってしまう。
あちら側にある「彼」の身体が、通り抜けられるほどに。
ナツキの背筋を冷たい汗が伝った。
核心に近い予感があった。
近づいてきている。
ン・カイの入り江の奥深く。
光の届かない地下世界から、供物を求めて「彼」が腕を伸ばしはじめている。
「……ッ、早くしろおおおお!」
ナツキは叫んだ。
秋人はキッと眦を決した。
身体にしなだれかかるようにすり寄っていた黒い靄を、片手で振り払う。
月鱗で形作られたソレの肩を掴み、その奥で漂う靄を覗くように語りかけた。
「……ダメなんだよ。辛くても、悲しくても、誰かを利用して自分だけ気持ち良くなろうなんて、しちゃいけないんだ」
黒い靄が、月鱗の内側で揺れている。
閉じ込められ、世界を憎んだ者たち。
それが今、月鱗で作った囲いの中に閉じ籠ろうと必死になっている。
この子達が求めた自由とは、どんなものだったのだろう。
秋人は、グッと奥歯を噛んだ。
やりきれない思いがあった。
「……すまない」
秋人は、ソレを両腕で拒絶した。
月鱗でできた腕が、秋人の方に差し出されたまま、ゆっくりと離れていった。
「アニキィッ、避けろおおおおおおおッ!」
途端、ナツキの絶叫が聞こえた。
同時に、後方から迫り来る異様な気配を察知する。
咄嗟に左方向へと跳躍した。
寸前まで秋人がいた場所を、何かが通り抜けていった。
とてつもなく大きな何かだった。
びゅおうっ、と突風が巻き起こる。
とてつもないスピードで通り過ぎたそれは、ナツキの腕から伸びたものだった。
肩まで二つに分かれたナツキの腕は、半径一メートル以上の大きな門を形成している。
開いた門から突き出るような形で、巨大な物質が現れていた。
それは腕だった。
見た目は有毛目の動物の腕と似ていたが、サイズがあまりに大きい。
真っ黒な体表。
柔らかそうな短い産毛が、びっしりと生えている。
指の先には鋭い鉤爪があった。
鉤爪は、月鱗で作られた人型の塊を容易く切り裂いていった。
月鱗が飛び散る。
黒い靄が霧散する。
巨大な腕は、そのどちらも余すことなく掌の内側へ握り込んだ。
断末魔すら聞こえなかった。
ソレは、「彼」に捕まったのだ。
自らへの供物と認識されたのか。
固く握られた巨大な拳は、ナツキの腕の門を通って、暗い世界へと戻っていった。
辺りが静寂に包まれる。
ほどなくして、門の奥側からピチャピチャと液体が粘着するような音が聞こえてきた。
それは、「彼」が供物をしゃぶり始めた事を示す音だった。
陽の光が届かない、地下深く。
竜堂という一族が守り、呪い、繋いできた憎しみと力の結晶を、ン・カイの主は片腕一つであっさりと奪い去っていった。
「彼」にとってのそれは、いつもより少しだけ上等な捧げ物の一つに過ぎなかった。
「ア、アニキ……腕輪をッ! はやく!」
苦しげなナツキの声が耳に届いた。
ソレが居なくなった空間をボンヤリと見つめていた秋人は、ハッと我を取り戻し、ナツキの方に駆け寄ろうとした。
しかし、脚が動かなかった。
全身に、鋭い痛みが走る。
早くも月鱗の効果が、切れ始めたのだ。
一時的な増強効果の反動で、肉体にダメージが反映されている。
元々無理を効かせていたせいか、いつもよりも代償が大きい。
秋人の体感では、全身が捩じ切られているようだった。
目も眩みそうな痛みに耐えながら、秋人は芋虫のように地面を這いずった。
ナツキの腕に開いた門は、もはや自分の力では閉じられないまでに拡がっている。
鍵である腕輪は、誰かが嵌めてやらねばならない。
さもなければ、ナツキ自身の身体があの門に飲み込まれてしまう。
「いま……そっちにッ!」
這いつくばって進んでいた秋人の手が、地面に落ちていた腕輪へと届いた。
それを無造作に掴み、痛む上体を無理矢理に起こす。
「腕を……下げろッ!」
「やってる……っつうの! これが限界なんだよッ!」
大きく二つに裂けたナツキの腕を、外側からの力で無理にでも閉じなければ、肝心の腕輪も手首に嵌めることができない。
それをやろうにも、秋人の身体はもはや、立ち上がることさえ出来なかった。
ナツキはもはや、更に大きく開こうとする門に抵抗するだけで精一杯だ。
「アニキッ! もう保たねえッ!」
びゅうびゅうと吹き荒れる風に髪を靡かせながら、ナツキが叫ぶ。
「……くそっ……」
震える腕で必死に腕輪を支えながら、秋人は歯噛みした。
その時だった。
秋人の向かい側に現れた人影が、大きく開いたナツキの腕の片側を支えた。
身体で抱え込むように、根元の方からそれを閉じていく。
「……不由彦さん!?」
そこに立っていたのは、不由彦だった。
秋人が打ち込んだ杭が脇腹に刺さっており、真っ赤な血で衣服が濡れている。
しかし、その目には光があった。
月鱗に狂う以前。屋敷にいた頃と同じ、理知的な色をした瞳だった。
不由彦は残された片目を大きく見開いた。
「秋人、腕輪をッ!」
声に応じ、秋人はナツキの手首に腕輪を押し当てた。
二人は両側から支えるようにして、異界への門をゆっくりと閉じた。
カチャリ、という音と共に腕輪が嵌まると、あたりには急に静寂が満ちた。
門の向こう側から聞こえていた気味の悪い咀嚼音が消え、吹いていた風が止んだのだ。
秋人は、バタリと地面に倒れ込んだ。
それは、ナツキと不由彦も同じだった。
それぞれが肉体に限界を迎えていたのだ。
仰向けに寝転んだそれぞれの瞳に、東の空から昇ってくる光が見えた。
夜明けを迎えたのだ。
「……ああ、もう朝か……」
ナツキがポツリと呟いたのが聞こえた。
それを最後に、秋人の意識は途絶えた。
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