第三章「穿山甲」⑫
秋人の痛めた腕に応急処置を行いながら、藍那は話を進めた。
「あの症状は『穿山甲』の過剰摂取にかなり近いね。たぶん、屋敷中の人間がああなってるはずだよ。秋人君、この匂いがわかる?」
鼻をきかせてみたが、秋人は何も感じ取れなかった。藍那は、ザックの中からマスクを取り出してそれを身につけた。特殊な形状のマスクは、藍那の顔半分ほどを覆った。
「君は苗床と直に接触し続けてきたからね。強い耐性を得るのと同時に、感覚が鈍くなっているみたいだ。今、この屋敷中が『月鱗』の匂いで満ちているよ。耐性がない人間は、きっとひとたまりもないはず」
包帯を巻き終わり、藍那は秋人の肩をピシャリと叩いた。貼られた湿布はかなりの効能で、はやくも痛みが引いてきている。
「ということは……『月鱗』を持つ魚月が蔵から出たのでしょうか」
「可能性は高いけど、そうとも限らない。いくつか心当たりがあるよ。ついてくる?」
ザックを背負い、藍那は立ち上がった。
「もちろんです。行きます」
歩き出した藍那に続き秋人も部屋を出た。
屋敷の内部は、ひどい有様だった。
『月鱗』の匂いに当てられ、正気を失った使用人達が、正視できない程に乱れていた。
ところ構わず自慰にふけるもの、獣のように性行為をしているもの。笑いながら、自身の身体を傷つけているもの。
ときおりこちらに手を伸ばしてくる彼らをいなしながら、藍那と秋人は歩を進めた。
見知った人間が正気を失う様を目の当たりにして、秋人はたまらず目を逸らした。
見ていられない。こうならない為に、ずっと厳しい制約を守ってきたはずなのに。
「秋人君、こっち!」
藍那は、大粒の雨が降り注ぐ中庭の方へと足を踏み出した。
濡れた地面の上を走る。
雨で視界が悪く、前がよく見えない。
秋人は目を凝らした。
その先で、何かが散らばっているのが見えた。木片だろうか。
敷地の中でも奥まった場所へと藍那は進んだ。長く屋敷に住んでいる秋人ですら、こんな所へ来たことはない。
「……やっぱり、壊されてる」
そう呟き、藍那は足を止めた。
後に続いていた秋人の視界に、無惨に破壊された建物の影が映る。
祠、だったのだろうか。
散らばっていた木片は、その建物の残骸だった。その他にも、地面に転がっているものがある。
古い鏡、水晶、鉱石、干からびた樹木。
それらも、祠と同様に破壊されていた。
「これは……何ですか?」
秋人の問いに、藍那が答える。
「……この祠が、結界の要なんだよ。封じる力を持つ様々な道具が、ここに納められていた。この屋敷を囲う塀には、内部の『月鱗』の力を抑え込むようにまじないをかけてあったんだ。この祠を基点としてね」
地面に転がっている道具は、藍那が仕入れて式部に売り渡したものだ。
秋人に説明した内容に偽りはないが、藍那はひとつだけ真実を隠していた。結界が抑え込んでいたのは『月鱗』の力だけではない。
封印の要である祠は、藍那の他には歴代の当主ぐらいしか場所を知らない筈だった。直接伝えられなければ存在を認識できないように、目眩ませの術をかけていたからだ。それなのに、何故破壊されているのだろうか。
「……藍那さんは、どうして竜堂家の事に、そんなに詳しいんですか?」
秋人は、訝しげな顔でそう聞いた。
確かに、見知らぬ客人が家のことを自分以上に知っていたら不思議に思うことだろう。
藍那は、正直に話す事にした。
「そりゃあ、この結界は私が当主に頼まれて組んだものだからねぇ。作ったから、知っている。それだけだよ」
飄々とした様子でそう話す藍那を、秋人はじっと見つめた。この屋敷は、もう百年以上前に建てられたはずだ。壊された祠も、新しいものには見えない。
三十代に見えるこの女性は、いったいいつから生きているというのだろうか。
秋人の背中を、ぬるい汗が伝った。
「結界が破れたんだ。こうしてる場合じゃない。秋人君、急ぐよ!」
そういって藍那はまた走り出した。
「急ぐって……どこに行くんですか!」
追いかける秋人に向けて、藍那は叫んだ。
「決まっているだろう。君の、巌窟王のところだよ!」
降りしきる雨の中、進む視線の先には、秋人が長年通い続けた石蔵が聳え立っていた。
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