第三章「穿山甲」⑪

 片脇に本を抱えた秋人が、藍那の部屋を訪れたのは、もう夕方になろうかという頃だった。

 商品の手入れをしていた藍那は、どうぞどうぞ、と秋人を部屋の中に迎え入れた。

「ちょうど退屈していたんだ。少し話し相手になってよ」

「はぁ……僕でよければ。大した話はできませんが。これ、約束の本です」

 秋人は魚月から借り受けていた小説を手渡した。『モンテ・クリスト伯』である。

 本のタイトルを見た藍那は、興味深げに目を細めた。

「へぇ……中々のユーモアセンスだねぇ」

 藍那の反応の意味が、秋人にはよく分からなかった。

「何か、変でしたか?」

「いやいや、何でもないよ。その子には、お礼を伝えておいてちょうだい」

 そういって藍那は畳の上に本を置いた。その周りには、先程まで藍那が手入れをしていた品が並んでいる。

「……これ、全て売り物ですか?」

「そうだよぉ。興味がある?」

「いえ。……なんというか、あまり薬には見えないもので」

 秋人は真顔でそう言った。しばし、沈黙が流れる。

 ぷっ、と藍那が吹き出した。そして

「あっははははは!」

 と声をあげて笑う。

「な、何かおかしかったでしょうか?」

 動揺する秋人の前で、藍那は目尻を拭く。

「いやいや、おかしくないよ。そうだよねぇ、薬売りって自己紹介したもんねぇ。これはいわゆる薬品とは少し違うんだ」

「そうなんですか?」

「うん。何ていうか、私は御用聞きみたいなものでねぇ。便宜上、薬売りって事にはしているんだけど、商品としては色々な物を取り扱っているんだよ。昔は、長崎までカステラを買いに行かされたこともあるし」

「なるほど、それは失礼しました」

「いやいや、いいんだよ。昔、おんなじことを言ってきた人が居てね。つい、それを思い出して笑っちゃったんだ」

 藍那は遠い記憶に残るその相手と、目の前にいる秋人の姿を重ね合わせてみた。見た目だけでなく、話すことまでよく似ている。

「仕事はいつもお一人ですか?」

「そうだねぇ。昔は手伝ってくれる人もいたけれど、今は個人でやっているよ。いい人がいれば雇うつもりではいるんだけどねぇ」

「大変なんですね……」

 その時、突然の雷鳴がはしった。

 遠くの空が、ゴロゴロと鳴っている。

 窓の外を見ると、辺りが暗くなっていた。

「あらら、夕立かなぁ」

 程なくして、雨粒が屋根を叩く音が聞こえてきた。随分と強く降っているようだった。

「みたいですね。予報には無かったので、すぐにあがると思いますが」

「一応、荷物をまとめておくよ。停電になると、片付けるのも大変だからね」

「手伝います」

 畳の上に広げていた品を二人で片付けていると、何やら屋敷の中から騒がしい音が聞こえてきた。

「どうしたんだろうねぇ」

「ちょっと見てきましょうか」

 藍那の荷物をまとめ終えると、秋人は部屋から出て周りの様子を伺った。

 すぐ先の廊下に、仁王立ちしている男の背中があった。

 背格好から見て、庭師の竹内のようだ。顔見知りである秋人は、後ろから声をかけた。

「竹内さん、何かありましたか?」

 男は、ゆっくりと振り返った。

 低い唸り声が聞こえた。

 男の表情を見て、咄嗟に秋人は身構えた。

 明らかに常軌を逸している。

 血走った眼、口の端に溜まった泡。

 瞬間、秋人の右肩に強い衝撃が走った。

 がああ、という叫び声と共に、男が右腕を振り下ろしたのだ。

「ぐああっ!」

 秋人はたまらず声を漏らした。

 物凄い力だった。痛みに耐えかねてうずくまった所に、再度腕が伸びる。

 秋人は襟首を掴まれ、そのまま力任せに宙吊りにされた。ジタバタと踠いてみたものの、びくともしない。

「どうかしたぁ?」

 背後から、間伸びした声が聞こえた。藍那だ。気になって廊下に顔を出したのだろう。

 ギラギラとした男の目が、藍那の姿を捉えたことがわかった。

「おんな……」

 そう呟き、男はゴミでも放るかのように、秋人の身体を壁際に投げ捨てた。

 背中から壁にぶち当たり、強い衝撃を受ける。肺から押し出された空気が、カハッと喉から漏れた。

「あ、藍那さん、逃げてッ!」

 息も絶え絶えに、秋人はそう叫んだ。

 男の目には、理性の欠片も残っていなかった。欲望のタガが外れている。あれでは発情期の獣だ。間違いなく、藍那が狙われる。

「ぐあああああああああ!」

 廊下に悲鳴が、響き渡った。

 それは、男の叫び声だった。

 秋人が顔を上げると、そこには自分の眼を両手で覆っている男の姿があった。

 眼前に立つ藍那は、その手に噴射器のようなものを持っている。

 自衛用の催涙スプレーのようだった。

 片手で眼を押さえ、腕を振り回そうとしている男から即座に距離をとり、藍那は指に挟んだ何かを投擲した。

 それは男の首元にタタタッと突き刺さる。

 大きめの針のようなものだった。

 コンマ数秒後、男の身体はぐらりとバランスを崩し、音を立てて床に倒れ込んだ。

 ドシン、という衝撃が秋人にも伝わる。

 少し呆気に取られた表情で、秋人は藍那を見つめた。

「即効性の痺れ薬。……女一人の行商旅だし、まぁ、これくらいはねぇ」

 そういって藍那はニヘラと笑った。

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