第一章「夢の帆船」⑦
数分後、ドアから出てきたついりに迎えられて、ナツキは家の中に迎えられた。
ついりの父は、夜勤で今日は家に居ないらしい。母だという女性は、自己紹介をしたナツキに対して伏し目がちにゆっくりと頭を下げるだけで、何も言わずに自分の部屋へと戻っていった。
丸い背中が薄暗い和室に入っていくのを見送りながら
「ゴメンね、ああいう人だから」
と、ついりは何かを諦めた様子で呟いた。
ついりの部屋は、襖一枚を境にしてリビングと隣り合った場所にあった。
薄いピンクを基調としたベッドやカーテンからは少し幼い印象を受けるが、部屋の中は綺麗に整頓されている。
子供が使うような木製の勉強机と、漫画や教科書が並んだ本棚があった。
本棚の中には、ナツキが見たことのない薄い紙の束がいくつもファイルされていた。ナツキが尋ねると、それは楽譜をまとめたものだ、とついりは答えた。
「へー、他人の部屋ってなんか面白いな」
「ちょっとナツキさん、あんまり引っ張り出して見ないでよ。恥ずかしいなあ」
「ちょっと見るだけだよ、ちょっと見るだけ」
そういって、ナツキは部屋の壁に立てかけられたコルクボードに目をやった。
コルクボードには、何枚もの写真が貼り付けられていた。
今よりも少し幼い年齢のついりが、写真の中で笑っている。特に枚数が多いのは、楽器を抱えている集合写真だ。制服から見るに、中学生の頃のものだろうか。
ナツキが今日初めて出会ってから一度も見たことがないような快活な笑みを浮かべて、写真の中のついりは大事そうにトランペットを抱えている。
「ついりん、中学生の頃から楽器やってたんだね」
「え、うん。部活でね」
ついりは、紺色の寝巻きに着替えて落ち着かない様子で自分のベッドに座っていた。
本人がその気はないと言っていたとはいえ、ナツキは男の子なのだ。見た目にはどんなに女の子に見えても、その事実を知ってしまうと、中々平静ではいられない。
よくよく考えれば、自分の家に、自分の部屋に、男子を招くなんて初めての事だ。しかも、同じ空間で一夜を共にするなんて。
ついりを襲った異様な出来事。それを解決する為ではあるけれど、男の子と同じ部屋で眠ることには、正直なところ気が引けた。
「へー、ついりん、この写真だとメチャメチャ笑ってんね」
「う、うん。まぁ、子供の頃の写真だし」
「高校に入学してからの写真は、全然無いんだ」
「……うん」
「……あ、なんだろコレ」
そう言ってナツキは、コルクボードの隣にある棚から、小さな置物のように見える茶色い塊を手に取った。
手に取るとその塊はずしりと重く、そして存外に冷たかった。平べったい円柱のような形をしていて、表面が少し波打っている。
下部の一面だけが平らだったが、そこにはびっしりと文字が刻まれていた。
見たことのない、不思議な文字だった。
「ああ、それ。それだけじゃ、なんだか分からないよね。少し待って」
そう言ってついりは自分の机の中から、細長い小さな紙箱を取り出した。
引き出して、中身が見えるようにナツキの方に向けて傾ける。
箱の中には、黒くて細長い棒状のものがビッシリと詰まっている。
「何それ。お菓子?」
「え、違うよ」
ついりは口元を抑えるようにして、少し笑みを浮かべた。
「これはお香だよ。海外のものらしいんだけど、リラックス効果があるんだって。ナツキさんが持っているそっちのは、このお香を立てるお皿だね」
ついりはナツキの手からその茶色い塊を受け取り、テーブルの上に置いた。紙箱からお香を一本取り出し、塊の真ん中あたりに差し込む。香は天井を垂直に向く形で安定する。
「お皿の形がデコボコしてイビツでしょ? この凹んだところに、灰が溜まって散らばらないようになっているんだ」
「へぇ……。これ、使ってるの?」
「時々かなぁ。……睡眠不足で体調崩す子も多かったから、少しでもよく眠れるようにって、春頃に吹奏楽部の部員に配られたの」
「……誰が配っていたか、わかる?」
「先生だよ。顧問をしている、山賀先生。選択授業で音楽を取っていたら分かるかも」
ナツキは音楽の授業はとっていなかったが、何となくその名前には聞き覚えがあった。
少し神経質そうな印象を受ける、眼鏡をかけた細身の女性のはずだ。
「このお皿もね、先生がくれたの。形はあんまり可愛くないけれど、使いやすいんだよ」
茶色い香皿は、テーブルの上で鈍い輝きを放っていた。怪しげな形状。刻まれた得体の知れない文字。眠りの病に陥った吹奏楽部の部員達に、共通して配られたという。ナツキはクンクンと鼻を効かせた。
(香皿には、何もついてねえみたいだけど)
ナツキには、通常ならざる存在の気配を感じ取る事ができた。
それは、お腹が空いている時に食べ物の匂いを嗅ぎ取るような感覚に似ていた。その正体までは明確に分からないが、そこに何かがある事には確信を持てる。
放課後、ついりが調理準備室に入ってきたあの瞬間、ナツキはその残り香を敏感に感じた。
ついりの身体に、わずかに染みついていたのだ。
ついりは、間違いなく何かの影響を受けている。吹奏楽部の部員もそうだ。彼女達を眠りの病に陥れた何かしらの媒介が存在するはず。というのが魚月と秋人の推察だった。
目の前にある香と香皿は、ついりの部屋にある物の中で最も疑わしい。
(特にこの香は……)
黒い棒状の香が紙箱に敷き詰められている。顔を近付けると、ウッディな甘い香りが鼻を突いた。その香自体の甘い匂いとは異なる気配を、ナツキの感覚ははっきりと捉えた。精神の中枢を刺激する、蠱惑的な香り。
(これだ。間違いない。魅了に近い効能が付与されている……)
ナツキはゴクリと生唾を飲み込んだ。目の前の香には、間違いなく異能が付与されている。いまここでその分だけを“喰って”しまうことも、可能といえば可能だった。
しかし、それではこの異変の大元を辿る事ができない。問題の夢の内容を探らなければ、おそらく原因の解決にはならない。
進むことには危険が伴うだろうが、より強大な異能を喰らう為には必要な事だった。
(今はまだ、我慢だな……)
ナツキはポケットからスマートフォンを取り出して
「この香と香皿の写真、撮ってもいいか?」
とついりに尋ねた。
ついりが小さく頷くのを確認し、ナツキはカメラ機能のシャッターをきった。それを終えると同時に、ネイルのついた指をハイスピードで動かして、スマートフォンに文字を打ち込む。画像と文章の送り先は、藍那堂にいる秋人であった。
この香と香台を配ったのが吹奏楽部顧問の山賀、という教師である事も含め、ナツキは今までに知り得た情報を、メッセージアプリを通じて全て秋人に共有した。
最後に、擬人化されたアニメタッチの虎がZUMBAを踊っているスタンプを、ダダダっと連続して秋人に送りつける。
「サンキュー、ついりん。香とかめっちゃオシャレだね。どんな匂いがするのか、俺も気になるなぁ」
ついりに話しかけつつ、ナツキはスマートフォンをポケットに仕舞った。
(虎穴に入らずんば虎子を得ず、って言うからなぁ……)
ついりの机の上は赤い色の目覚まし時計がある。その短針はもう十一時の辺りまで近づいている。夜も更け、いよいよ眠る時間が近づいていた。
秋人に持たされた寝袋を床に広げて、ナツキはそこで眠る準備を始めた。
「お香、少しだけ焚いてみる?」
ベッドに腰掛けたついりが、寝袋の上で横になったナツキに尋ねる。
「うん。頼むよ」
ナツキは香に目を凝らす。これに火を付ける事によって何かが起きるかも知れない。
ついりの手によって、黒い香の先端に橙色の小さな火が灯される。白くて細い煙がうっすらと立ち昇り、甘い香りが部屋の内部に渦巻いていく。
香りは鼻腔からゆっくりとナツキの内部に侵入してきた。それは、ナツキの身体を抗いようのない脱力に誘う。徐々に身体の支えが効かなくなり、地面に惹かれるように身体が横たわっていく。
とろん、と瞼が重たく感じた。
言葉を発しようとしても、思うように舌が動かない。もごご、という呻き声だけが口の端から漏れていく。
ダメだ。意識を保てない。
朦朧と歪む視界の中で、ナツキは誰かの笑い声を聞いたような気がした。
そしていつのまにか、ナツキの意識は闇に中に暗く沈んでいった。
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