第一章「夢の帆船」⑥

「俺、あんまり恋とか愛とか、そういう感情ないからさ。誰が相手でもそうだから、そこは安心してよ」

 ついりの自宅へと向かう道すがら、ナツキはあっけらかんと言い放った。

 陽は沈み、あたりは暗くなり始めている。

「不安だったら、手とか足とか縛ってもらってもいいし。もちろん、そういった趣味もないんだけど」

「そっ、そんなことしないよ」

「そう? その方がありがたいや」

 秋人に持たせられた寝袋を抱えて、ナツキはニッと笑った。

 黒いジャージと白いトップス、膝丈より少し長い黒いタイトなスカート。長い黒髪は一つに束ねて、黒いキャップの後ろに通している。

 どう見ても、美しい少女にしか見えなかった。ついりは、同じ教室で学んでいる男子達の姿を思い返してみたが、とてもナツキのイメージと一致しない。

 喋り方だけは、年相応の男子のようではあるのだけれど。

「ナツキさんは……どうして女の子の格好をしているの?」

 口に出してしまってから、ついりはマズい、と思った。

 踏み込んだ質問をしてしまったかもしれない。

 後悔したところで、言葉はもう口から出してしまっている。

 おそるおそるナツキの表情を覗いてみると「うーん」と唸りながら、すこし考え込んでいる様子だった。

「どうして、かぁ。だってこっちの方が、可愛くない?」

 ナツキは軽く手を広げて、歩道で立ち止まりポーズを取ってみせる。

「うん、可愛い」

 間髪入れず、ついりは答えていた。

「でしょ? 色んな服を着てみてさ、自分がいいなって思ったものを選んでるだけなんだ。学校の制服も、男子の学ランよりセーラー服の方がずっといいなって思って」

 ついりは、調理準備室で初めて出会った時のナツキの姿を思い出していた。チャコールグレーの制服が、おそろしい程に似合っていた。その場にいる、他の誰よりも。

 自分が良いと思うものを選んでいる。ナツキはそう言った。素晴らしいことだと思う。

 そう思う一方で、ついりには咀嚼しきれない感情があった。

 ナツキが好きな服を選べるのは、選べる立場にあるからだ。文句が言えないほどに、見た目が美しいからだ。生まれた時から与えられたギフト。それは誰しもが手に出来るものではない。

(私は、選べなかった……)

 嘲笑。冷笑。

 誰もいない音楽室。

 床に散らばった楽譜。

 その前にしゃがみ込んでいる自分の姿。

 ふとした瞬間に、もう消してしまいたい記憶が脳裏をよぎる。

 目の前にいるナツキは、何も悪い事はしていないのに。

 ついり自身の苦しみとナツキの美しさは、初めから関係が無いのに。

 事あるごとに、暗い感情を抱えてしまう自分が、ついりは嫌いだった。あまりにも惨めだった。

「俺、学校もさ、制服で選んだんだ。学ラン着るようにって指定されていたから、入学前にアニキ引き連れて職員室乗り込んでさぁ。好きな格好させろって大暴れしたら、けっこうスンナリ認めてくれたよ」

 抑圧された環境でも我を通せるのは、その人が強いからだ。成功体験に裏付けられた、揺るぎない自信があるからだ。

 その手に掴んだ何かがあって、周りに肯定されて育った自我があって。

 そういう人だけが、自分の欲するままに素直に行動する事ができる。

 周りの迷惑なんか、気にもしないで。

(私には、それが無い……)

 強さが無い。自信がない。成功体験がない。肯定された、自我がない。

(だから、全部しょうがないんだ)

 ついりは、自分の左手を見た。

 その人差し指の第二関節の部分には、黄色の絆創膏が貼ってある。

「ん? ついりん、指を怪我したのか?」

 俯きげに歩くついりの顔を、ナツキが覗き込んでくる。

「ううん、これはタコが出来ていたの。トランペットを持つ時にね、人差し指で支えるようにするから、ここが硬くなるんだ」

 初めて楽器を持って練習をした日、あまりにも指が痛くなってしまって、泣きベソをかいてしまった事をついりは覚えている。

 それから痛みに耐えて練習を続けていくうちに、いつのまにか人差し指にタコができた。中学の先輩に「これが指に出来たらスタートラインだからね」と言われて、やっと部活の仲間に加えてもらったような気がして嬉しかった。

 そのうち、指の痛みも忘れて、毎日トランペットの練習をするようになった。

 あの頃は、楽器を吹けるようになるだけで、毎日が本当に楽しかったのに。

「ついたよ、ここが私の家」

 チカチカと、白っぽい灯りをチラつかせている街路灯の下で足を止める。

 住宅街の一角にある古ぼけた二階建てのアパート。その一階に、ついりと家族が暮らす部屋がある。

 煌々と灯りが漏れている戸建住宅が立ち並ぶ路地とは異なり、古い街灯の一本だけを光源にしているアパートの周囲は、どことなく薄暗い。

「へぇ。ついりんの部屋はどこなの?」

「103号室。少し待っててね、部屋の中をちょっと片付けてくるから」

「えー、気にしなくていいのに」

「私が気になるの。とにかく、呼びに来るまでここに居てね」

 ナツキはついりに言いつけられるがまま、その場所に立ってアパートを眺めていた。

 少しばかり顔を上にそらし、形の良い小鼻を動かしてクンクンと匂いをかぐ。

 左手首にはめたブレスレットをかちゃりと鳴らし、手をニギニギと動かして

「なーんか、匂うんだよなぁ……」

 と小さく呟いた。

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