誘虫灯

ミモザ

誘虫灯

 人間、生きていく中で一つや二つは抗うことの出来ない恐ろしい経験があるはずだ。それが自然の脅威や、天災であれば「人知を超えたものだから」や「自然に抵抗することはできない」と、お利口に納得しようとする事はできる。

 だが、本当に恐ろしいのは「人間の事が理解できない時」だということは、皆が心の奥底で目を背けながら、しかし確かに理解している。

 

 深夜、世間では皆が眠りに着いているであろう時間にようやく私は解放される。

 「あーあ、早よ帰りてぇ」

 時計の針が2時を差した瞬間に大きく伸びをしながらあくびを噛み殺して、両肩を3周回す。その後、1日が終わった感傷に浸るのが私のルーティーンだ。

 「麻帆ちゃん、今日もお疲れ様。時間だし送るよ」

 男性スタッフの井上からの呼び掛けに、はーい!と、不自然なまでに明るい声で返す。

 話しかけるな、中年。と湧き上がる不快感に無理矢理蓋をして、帰り支度を整える。

 化粧品、財布、タオル、着替え。荷物をまとめて部屋を出ようとした時に、ふと思い出した。

 「ドライヤー忘れとるやん」

 わざとらしく独り言を言いながら、それを探す素振りを取った。それはまだ封も開けていない新品。しかもなかなかの高級品だ。

 それでもあまり持ち帰ろうという気にならない理由が明確に有った。

 初めて会った客からのプレゼントだったからだ。それもいわゆる本指名ではなく、初回の客。別に普段なら何も気にせずに有り難く持ち帰っていただろうが、今回の客に関しては違った。

 初回指名で私を呼んだ男の第一声に私は少し動揺した。

 「やっとちゃんと会えたね、前見た時に声かけたかったんだけど勇気なくてさ、お店来ちゃったよ」

 え?何言ってるの?この人。考えている最中にも男は続ける。

 「いやー、僕と麻帆ちゃんってやっぱり結ばれてるよね、初めて見た時からビビッと来てたんだよ。嬉しいなあ、一目惚れの子と色んなことできるなんてねぇ」

 気持ち悪い。誰かと間違えてるのか…?いやでも何より発言もそうだけど、見た目が気持ち悪すぎる…なんのポリシーもなく、ただの自堕落の結果であろうボサボサに伸び切った髪から黄ばんだ目を見開き、ガタガタの歯を見せて笑っている

 「えー?どっかでお会いしましたっけー?麻帆ちょっと覚えてないや!」

 不快感を表さないように努めた。

 男は一瞬顔を曇らせた様に見えたが少し間を置いて答えた。

 「まあ、覚えてなくて当然だよね。でも僕はよく見かけてたんだよね、麻帆ちゃんのこと」

 なんなんだよコイツは…いちいち回りくどい言い方しかできないのか…

 「ハハハ…とりあえずシャワー浴びましょっか」

 「待って、その前にプレゼント。これ、麻帆ちゃんが欲しがってたやつだよ。色んな店回ってようやく見つけたんだ」

 男はそう言いながらドライヤーの箱を手渡してきた。

 「わ!嬉しい!丁度いま使ってるやつ壊れたばっかりだったの!助かるー!」

 大袈裟に喜んで箱を私は受け取った。

 「じゃあ、シャワー浴びようか」

 

 そんな会話から始まった客だった。だからその男から貰ったものを持ち帰りたくなかったのだ。

 嫌なやり取りを思い返しながらベッドの下を覗き込むと、込み上げる気持ち悪さに任せて乱雑に押し込んだであろう未開封の箱が出てきた。

 「見つけちゃったじゃん」

 ため息と後悔と共に箱を取り出す。

 少し考えたが、やはり新品だし欲しかった物ではあったので持ち帰る決意を固めた。

 「なんでこれ欲しかったの知ってんだろ…マジきもいわ」

 あんまり考えても仕方ないか。とりあえず欲しかった物が手に入った事実だけで気分は少し良くなった。

 「麻帆ちゃーん?準備できたー?もうドライバー来てるよ」

 「あ、ごめんなさーい!今降りまぁす!」

 忙しなく薄暗い階段を降りて、玄関の扉を開けてもたれかかっている井上への挨拶も早々に車へ乗り込み、ウィンドウを開けた。

 「井上さんお疲れ様でしたー」

 「お疲れ様ー、あ、そういえばあの客ちゃんとブラック入れといたから安心してね」

 「流石、仕事早い!じゃあまた明日ね!」

 ウィンドウを閉めると、ドライバーは何も言わずに車を走らせ始めた。

 二、三分走っただろうか?見える位置にコンビニが見えたのでドライバーに声をかけた。

 「コンビニ寄って」 

 はい、と小さな声で返事をしてドライバーはハンドルを左に切り駐車場へと車を停めた。

 「すぐ戻るんで」

 小走りに入店し、カットフルーツとヨーグルト、サンドイッチを悩む間もなく手に取りレジに置いた。

 「あとバージニアの5ミリとテリアのメンソール一つずつ。あと袋」

 「5点と袋で1622円っす」

 店員が詰めている間に会計を済ませ、やる気のない店員からの視線を背に受けながら、商品を片手に店を出た。

 車に戻ると、何も言わずにドライバーは駐車場から車を発進させて軽快に国道を進んで行った。

 信号待ちの車窓から見えるのは下品なネオンサインと、やたらにくっ付いて歩く若い男女、それを睨みつけているホームレス。

 「いつ見ても汚い街…最悪」

 誰に聞かせるでもなく悪態を吐きながら、自分がその街の一部であることを思い出して憂鬱になった。

 遠くから見て憧れていたあの煌びやかな不夜城は、いざ近くで見るとただのゴミ溜めでしかない。どんなに綺麗な景色でも、それを俯瞰で見るから美しく見えるんだ。

 美しい富士山を近くで見たいからと言って登ってしまっては、あの綺麗な青と白のコントラストは見えない。素人が歩くには無理がある山道と、捨てられたゴミが目に付くだけだ。

 そんな現実にも負けずに登り切ることが出来れば、世界を見下ろす様な、また違う美しい世界が広がっているかもしれない。けれど、私はそこには到達出来そうもない。この不夜城に辿り着くことで満足してしまった私は、まだこの山の二合目だと言うのに足を止めてしまったのだ。

 「着きました」

 ドライバーの声で我に返った。浸りすぎた。

 「あ、どうも」

 降りようとする私を止める様に声がかかった。

 「ドライヤー、忘れてますよ」

 忘れたんじゃない、置いていこうとしたんだ。やっぱり気持ち悪いし、持って帰りたくないから。

 余計なことを…と、恨めしく思いながら、私は乱暴に箱を拾い上げて、後部座席のドアを強く閉めた。

 私を運んで来た車が去っていくのを尻目にエントランスに入り、管理人室を素通りして、エレベーターのボタンを押した。

 13

 12

 11

 順調に降りてくる。とは言え、この時間は毎回苦痛だ。両手が塞がっているので携帯も触れない。

 8

 7

 6

 止まった。

 「あー、だる」

 他人からしたらなんとも思わないかも知れないが、私はこのエレベーターでのすれ違いが大の苦手だ。別に誰も私とすれ違うことを気にしないかもしれないが、この時間に女が大きな荷物とドライヤーの箱を持って立っているのは違和感でしかない。その違和感によって私の仕事が推察されるのが嫌なのだ。

 そんな事を取り止めもなく思っているとエレベーターはまた動き出し、私の目の前に無人の空間を運んできた。

 あれ?人が乗ってたんじゃないの?

 一瞬躊躇ったが、別に不思議な話でもない。6階で降りたのだろう。それ以上は深く考えずに、私を迎えにきた空間に乗り込み、自宅の階のボタンを押した。

 14階を示すボタンが淡いオレンジ色に灯り、ドアが閉まる。ふっと体が重力に逆らい空へと昇って行く、独特な感覚に包まれた瞬間に6階のランプが点いた。 

 止まるのか…面倒だな…さっき6階に降りた人が用を済ませて、また上がって来るのだろう。今度こそ顔を合わせるのか…しかもこの狭い空間で。一瞬で憂鬱になった。

 しかしその憂鬱も束の間、気付いてしまった。

 なんで中のランプが光ってんの?

 普通エレベーターって中からボタンを押した時以外、どこで止まるかって分からないもんじゃないの?

 気づくや否や3.4.5と立て続けにボタンを押した。

 6階に着くまでに降りなきゃマズい。必死に何度もボタンを押し続ける。

 しかしどの階にもボタンは反応してくれなかった。

 そして6階に着く。ドアが開くとそこには帽子を目深に被り、マスクを着けた作業服の中年が立っていた。

 私は顔をこわばらせながら左にずれてその男が入って来るのを待つしかなかったが、男は入ってくる素振りを見せない。3秒ほどの沈黙が、確実に私の首を絞めていた。

 「あ、すみませんねぇ今点検中なんですよこのエレベーター」

 心底ほっとした。私の喉元で行き場を失っていた空気がようやく外に出てきた。

 「そうだったんですね、本当にびっくりしましたよ」

 私が言葉を返すと、作業服の男は答えず俯いたまま乗り込んできた。

 「何階ですか?」

 私はつい何十秒前に味わった恐怖心からか、この空間に人がいてくれる事に珍しく少し安心してしまった。

 「……14で」

 男は一瞬溜めてそう言った。

 ドアが閉まり、狭い箱の中で二人になる。動き出したエレベーターの中で無言の二人。

 男が口を開いた。

 「この時間にお帰りですか、大変ですね」

 「はあ…どうも」

 「ドライヤー買ったんですか?」

 「いや、別に…ちょっと仕事の人に貰っただけですけど」

 あの安心はやっぱり嘘だった。何でこんなに話しかけてくるんだろう。

 居心地の悪さを感じて無意識にドアの上に有る階数表示に、何の救いを求めるでもなく目をやった。

 12

 13

 14

 15

 あれ?

 16

 17

 R

 止まった。

 何が起きたか分からず私はパニックになってしまい、ただ怯えるしかなった。

 ドアが開くとそこには暗闇が大きく口を開けて、私が足を踏み入れるのを待っている。

 エレベーターから漏れる光が全て吸い込まれているかの様に何も見えない。

 ドン、と背中を押された私は暗闇に倒れ込んでしまった。

 「お前、どういうつもりだよ。何で俺のこといつも無視したんだ?」

 男の声が反響して耳に届いてくる。

 「は…?何のこと…」

 なんとか上体を起こしてエレベーターに目をやると、そこには逆光の中帽子を取る男が見えた。

 ボサボサの長髪から黄ばんだ目がこちらを睨みつけている。

 「お前、毎日俺と顔合わせてるのに覚えてないんだな。そりゃそうか、こちとら毎日挨拶してるのにお前は何も返さず無視して行くもんな」

 あの客だ…気付いた時にはもう恐怖で声も出ない。

 「お前、まだ俺が誰か分かんないのか?毎日お前が出かける時に、行ってらっしゃいってら声かけてやってるよな?」

 ああ…分かった……コイツ管理人だ。

 「ま、分かったところでもう遅いわ」

 男は私の上に跨って手錠を掛けて、何度か私を殴りつけて首を絞めてきた。

 痛い。

 頭がボーっとして抵抗する気が起きない。

 ダメだとは思いつつも私はそのまま気を失ってしまった。

 

 目が覚めたとき、私は知らないベッドの上に居た。あの後の事は分からない。ただ、服は全て脱がされて、私の体には精液であろう液体がまとわりついていた。周りには誰も居ないみたいだ。

 恐怖で泣きそうになったが、今は逃げるしかない。

 寝かされて居た部屋から出るとそこは異空間だった。

 壁一面に私の写真が貼られている。エレベーター内のカメラ画像。マンション各所にある防犯カメラの画像。果ては駅のホームや、働いている店に入るところを盗撮されたであろう写真まで。壁一面に所狭しと貼られているのだ。

 異常な空間にその場で吐いてしまった。蹲った地面にも私の写真が貼ってある。

 異常だ。本当に理解できない。怖い。

 足下に封筒が落ちていた。開いて見てみると、遺書のようだった。

 『あなたをずっと僕の物にしたかった。でもあなたは僕の物になってくれない。じゃあ無理矢理でも僕の物にしてしまえばいいんだって気付いたんだ。でも、いざ君を自分の欲望のままに襲ったら、僕に残った物は何もなくなった。全てを叶えてしまったから。でも、よく考えたらここで僕が死ねば、君はもう僕のことを忘れられないよね、君の記憶の中で永遠に生き続けるんだ』

 本当に理解できなかった。怒りと嫌悪感で全身が焼き尽くされそうだった。私は遺書をビリビリに破いて何度も踏みつけた。何度も何度もふざけんなと叫びながら。

 少し気分が落ち着いた時、はたと我に返った。このままじゃ外に出れない。せめて服着なきゃ、と各部屋を探す事にした。

 まず最初に開けたのは洗面所、とりあえず体を洗いたかった。このままの精液まみれの体では服を着ることさえ叶わない。シャワーを浴びて全身を洗い尽くした。ひとしきり体の表面を洗ったが、肝心な所が洗えていない。この状況で何もされてない訳がないとは理解していたが、現実をまだ知りたくなかったのか、肝心なところは後回しになっていた。

 私は意を決して自分の性器に指を突っ込むと中からドロっと白い液体が出てきた。

 最悪過ぎて、気持ちが悪すぎて悲鳴すら出なかった。ただ震えるだけで、反応することさえ出来なかった。へたり込んだ私に流れるお湯だけが寄り添ってくれた。

 もう疲れた。怖がる度に気持ちを奮い立たせるのも、その気持ちをすぐさま打ち砕かれるのも。

 どれくらい呆然としたかは定かではないが、無理矢理起きてシャワーを膣内に流し込み何度も洗った。もういい、痛いと思っても、何度も、何度も。

 そして浴室から出た私は、もうショックを受ける事にも疲れたのか、何も考えられなくなっていた。

 濡れた体も拭かずにリビングであろう部屋を開ける。

 そこに有ったのは、あの客であり、管理人だった物だった。梁に首を吊って死んでいる、ただの物だ。

 もう何も感じなかった。その惨状を見ても、ショックでも何でもない。ざまあみろ、と気分が晴れることもなく、ただその状況を俯瞰で見ていた。

 首を括った物の下に溜まった排泄物も、だらしなく開いた口から溢れる泡も、変色し、紫とも茶色ともつかない色をしたその醜い顔も、何もかもがどうでもいいとしか感じなかった。

 だからこそ私は、その横で見つけた体液が少し染み込んだ自分の服を抵抗なく着れたのだろう。

 どこか私は壊れてしまったのかもしれない。

 

 部屋を出た私は、そのまま自分の部屋へ帰り、着替えもせずに眠って、日常生活に戻った。

 警察も呼んでいない。井上にも話していない。

 その夜も普通に出勤して、仕事をして、何もない一日が終わった。

 もう、どうでもよくなったから。

 もう、私はどこかおかしくなってしまったようだから。

 昨日、私の身に起きた異常な事態が怖かったとももう思わない、あの管理人が居なくても私の世界は何も変わっていないんだ。

 私は結局これからも、美しく見えるだけのこの街でゴミと一緒に埋もれていく。煌めくネオンの灯りに群がる虫の一匹として、私も焦がれて、惹かれてこの街に来ただけなんだ。

 それはどんな物事でも同じ。あの管理人も私に惹かれた虫にしか過ぎなかった。ただ、近付きすぎてその光に焼き殺されただけなんだ。

 私の価値観は何を経験しても変わっていないはず。

 でも、一つだけ、心残りがある。

 あいつが首を吊るのに使ってたドライヤー、持って帰って来ればよかったなって。

 そういう事を微塵もおかしな事だと思わずに考えてしまう。

 あれ?

 私の価値観は変わってないはずだよね?

 あれ?

 やっぱり怖いや。

 何が怖いって?簡単な話。

 私は、私が理解できない。

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誘虫灯 ミモザ @silver_wattle24

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