モールス
かつエッグ
モールス
――なぜ通信がゆるされないのか
許されてゐる そして私のうけとった通信は(宮沢賢治「青森挽歌」)
「タカムラさん、テレビカードは大丈夫ですか」
37.8℃。
私は、体温計に表示された数字をカルテに入力しながら、817号室の患者さん――タカムラさんに、ずっと気になっていたことを聞いてみた。
「え……? テレビカード?」
タカムラさんは、怪訝そうな顔で聞く。そして、気がついたように
「ああ……看護師さん、カードがないせいで、ぼくがテレビが見られないんじゃないかって、心配してくれたんだね」
痩せたその顔に、笑みを浮かべた。
「ありがとうね」
入院生活はとても退屈だ。
まして、面会も原則としてできないこの状況が続いている。
病室から出られない患者さんには、せいぜい、床頭台に取り付けてある液晶テレビを観ることぐらぐらいしか、気晴らしの手段がない。中には、見るでもないのに、一日中、テレビをつけている患者さんもいる。ただ、テレビを観るためには、売店でテレビカードを購入しなければならない。そして、つけている時間でテレビカードの残高はどんどん減っていく。
タカムラさんの病室は、私が巡視でいつその部屋に行っても、テレビがついていたためしがない。
タカムラさんは静かに目を閉じて、臥床していることが多い。
(ひょっとして、タカムラさんテレビカードがないのでは)
余計なお世話かも知れなかったが、気になってしまったのだ。
ああやって一日をただベッドの上で横になって過ごすなんて。
私にはとても耐えられそうにない。
「実は、ぼくは、テレビは苦手なんでね……」
と、タカムラさんは答えた。
白髪の、穏やかな顔つきのタカムラさんは、大腸癌の手術のために外科に入院したのだが、術後の経過が思わしくなかった。手術自体はうまくいった(と主治医の先生も言っている)のに、なかなか手術創が癒合せず、微熱も続いているために、退院のめどがたたないのだった。
「ああ、そうでしたか……」
私は謝った。
高齢の患者さんには、タカムラさんのように、テレビを好まない人が、けっこういるのだ。テンポが速すぎる、刺激が多すぎる、そう言って、持ちこんだラジオを好んで聴いている患者さんは多い。
「すみません、さしでがましいことを……」
「いやいや、気にしてくれてありがとう」
「なにか、少しでも気晴らしになるようなことがあるといいんですが」
私があきらめきれず言うと、タカムラさんは、笑いながら
「実はね、ひとつ、頼んであるものがあるんだよ、なかなか届かないのだけれど。家のどこにあるのか、見つけられないのかなあ……」
数年前に奥様を亡くし、子どももいないタカムラさんは独り暮らしだった。
「なにしろ、家族がいないからね。他人では、勝手がわからないんだろうなあ」
そう言ったのだ。
※
それからもタカムラさんの病状は、改善しないままだった。
主治医の先生も、あれこれと手を尽くすが、なかなか奏効しないようだった。
そんなある日の、深夜の巡回。
私たちは、患者さんに異常がないこと(極端にいえば、生きて、息をしていること)を確認するために、かならず見回りをする。
寝ている患者さんを起こしてはいけないので、そっと部屋に入る。
タカムラさんは――。
タカムラさんは、ベッドに横になったまま、顔を向こうに向けて、窓の外を見ていた。
カーテンは閉じられていなかった。
目を開けているタカムラさんの瞳に、外の明かりが反射する。
病室は8階にあるため、見晴らしが良い。
地方の田園地帯に建つ、この病院の周りは、広く田圃に囲まれている。
水が張られたばかりの田圃の水面には、街路灯の黄色いあかりが揺れている。
田圃の向こうに、木立があり、そのさらに向こうには高速道路が走っている。
高速道路を行き来する車のヘッドライトの光が、壁や、木立などの障害物の隙間を抜けて、明滅して見える。
ピカリ ピカリ ピカリ
車の種類によるのか、速度によるのか、その瞬きは、あるものは短く、あるものは長く、途切れることなく続いていく。
タカムラさんは、そんな窓の外の景色をじっと見つめていたのだ。
「……タカムラさん?」
私は小さく声をかけた。
タカムラさんは、ゆっくり私に顔を向け、返事をする。
「……はい」
「あの……眠れませんか? もし眠れなくてお困りなら」
不眠時指示で用意されている眠剤をお持ちしますが。そう言うとした私を
「いえ……このままで大丈夫」
「なにを見ていらっしゃったんですか」
タカムラさん私の問いには答えず、
「……大丈夫、もう、寝ますから」
そう言って、目を閉じた。
(いや、これは大丈夫だろうか……)
私の看護師としてのこれまでの経験から、嫌な予感がした。
タカムラさんのように、高齢で、身体状態の良くない患者が、夜もあまり眠れないことが続くと、
(このことは、ちゃんと報告しておかないと)
そう思いながら、私は退室したのだった。
※
次に訪室したとき、タカムラさんのサイドテーブルの上に、見慣れないものを見つけた。
ニスが塗られたごつい木製の台の上に、真鍮だろうか、金属製のバーが金具で取り付けられている。バーの一方の端には丸くて赤いつまみがついていた。一見して古いもので、かなり使いこまれた雰囲気があった。
私がこれはなんだろうと思って見ていると
「ようやく届いたんだ、もう、待ちくたびれたよ」
と、タカムラさんは、明るい声で言った。
「これは?」
「看護師さん、ベッドを起こしてもらえますか?」
「あっ、はい」
私がクランクを回してベッドを起こすと、タカムラさんはサイドテーブルを回して、自分の膝の上の位置に移動させ、その道具を自分の正面に置いた。背筋をすっと伸ばし、赤いつまみの上に右手の指を置いて、顔を引き締め、
タタタタンタンタンタタタ
流れるようにつまみを上下させた。
リズミカルに音が響く。
タタタタンタンタンタタタ
私はあっけにとられて見ていた。
「ああ、これって…」
そうだ。映画で見たことがある。
氷山と衝突し沈みかけた豪華客船の通信室で、通信士が必死に救援を求める、そのシーン。
通信士は、たしか、救援信号を送るために、このような機械を使っていた。
「電信……実は、ぼくはね、昔、こういう仕事をしていたんだよ。もう、ずっとずっと昔だけどね」
タカムラさんは、手を止めて、穏やかに言った。
タカムラさんが実演してくれたのは、モールス信号というものだった。
ト(短)ツー(長)の二つの符号の組み合わせで情報をつたえる。
現在では、通信技術の進歩でその必要性が低下し、もはやアマチュア無線など趣味の世界での利用が主体だけれど、タカムラさんが若い頃は、まだまだいろいろな場所で使われていたのだそうだ。電報もこの電信を使って送られていたことがあるという。
「ウナ電――なんて言っても、もう若い人は知らないよねえ」
私がうなずくと、タカムラさんは笑った。
そして、いつになく饒舌に、話してくれたのだった。
「例えば、モールス符号では、アルファベットの『S』・・・だ。『O』は、ーーーだよ。だから」
タタタタンタンタンタタタ
・・・ーーー・・・
タカムラさんは、なめらかに電鍵(この道具をそう呼ぶのだそうだ)を叩いた。
「こう打てば、つまり」
「エス……オー……エス、 SOSですね!」
私が答えると、タカムラさんは嬉しそうにうなずいた。
「もちろん、今、この電鍵は発信器に繋がってないから、いくらこうやって打っても、送信はされないからね、まちがって誰かに救難信号を受信されて、大騒ぎになることはないよ。もっとも――」
タカムラさんは悪戯っぽく言った。
「今のぼくにとっては、このSOSが、どこかに通じてくれた方がいいのかもしれないけどね」
「タカムラさん……」
冗談めかしてそんなことを言うタカムラさんに、私はうまく答える言葉がなかったのだ。
※
それから何日かして。
その日の私は、夜勤だった。
眠前の配薬のために、タカムラさんの部屋に行った。
病室のドアの前で呼びかけても、返事はなかった。
部屋の電気も消えているようだった。
消灯にはまだ時間があるが、もう寝てしまったのだろうか。
しかし、耳を澄ますと、カチカチという音が、かすかに聞こえた。
眠ってはいないようだ。
なにかおかしい気がする。
「失礼します」
断って、部屋に入る。
「あっ!」
タカムラさんは、明かりの消えた部屋の中で、サイドテーブルに覆いかぶさるように、身体を起こしていた。
タカムラさんの顔は、窓の外に向けられていた。
そして、右手は電鍵に置かれ、絶え間なくキーを叩いていたのだ。
カカカカカチカチカチカカ!
「タカムラさん?!」
私は、呼びかけながら、ベッドに近づいた。
タカムラさんは答えない。
カカカカカチカチカチカカ!
姿勢をかえず、手を動かしている。
早足で、タカムラさんの顔が見える位置に回り込む。
タカムラさんは、窓の外をにらみつけ、歯を食いしばって、必死にキーを叩いていた。
私は思わず、その視線を追った。
しかし、窓の外にあるのはいつもの風景で。
田圃に月の光が揺れて。
はるか遠くの高速道路で、行き交う車のヘッドライトが、ピカリ、ピカリと光って。
「どうされましたか、タカムラさん!」
「そうか? そうなのか?!」
タカムラさんは、呼びかける私の声も耳に入らないようだ。
「わかった! 今伝えるから! ちゃんと伝えるから!」
そう言って、すごい速さでキーを叩き続ける。
カチカチカチカカカカカチカチカカカカカカカ!
「タカムラさん、タカムラさん!」
力をふりしぼって、通信をおくり続けるタカムラさん。
なにを伝えようとしているのか。
誰に通信を送っているのか。
どこにもつながっていない、この電鍵で。
いや、ひょっとしてどこかにつながっているのか?
タカムラさんの必死のようすに気圧されながらも、私はベットサイドのナースコールを押した。
「どうしたの、なにがあったの?」
ナースステーションから同僚の看護師が駆けつけた。
「タカムラさんが!」
そして、別の患者さんの手術記録入力のために、たまたまこんな遅い時間にまでナースステーションに残っていた、病棟当直医の先生も、同僚の後から顔をのぞかせた。
「ああ、譫妄の、幻覚妄想状態だな……」
先生は冷静にそう言って、抗精神病薬セレネースの注射を指示した。
同僚が慌てて薬を取りに走る。
だが、その準備ができる前に。
タカムラさんの身体から緊張がぬけ、
タンタタンタ タタタン タンタンタタ……。
最後のフレーズらしいものを打って、電鍵から手を離した。
タカムラさんは通信を終えたようだ。
ふうっと息を吐くと、ようやくそこで私たちに気がついたようで、きょとんとした顔をして、言った。
「おや? みなさん、こんな大勢でどうされましたか?」
「タカムラさん……」
「ん?」
「持ってきました!」
同僚が、トレイにセレネースと注射シリンジを載せて部屋に入ってきた。
「先生?」
すっかり落ち着いたタカムラさんを見ながら、私は聞いた。
「うーん、まあ、また興奮するといけないから、念のためやっとこう」
主治医の指示でタカムラさんは、セレネースを投与され、そして次の日の昼すぎまで、まったく目を覚ますことなく眠り続けたのだった。
目を覚ましたタカムラさんに、私は、なにがあったのか聞いた。
「うーん……」
タカムラさんは、しばらく考えて、困った顔で言った。
「じつは、あまりよくおぼえていなんだよ、なにか夢をみたような……」
それは譫妄ではよくあることで、何も覚えていない人もいれば、おぼろげに夢の中の出来事のように感じている人もいる。
私はうなずいて、いきさつを説明した。
「今伝えるから、ちゃんと伝えるから! 真剣な顔でそうおっしゃっていましたよ」
「ふうん?」
タカムラさんは首をひねる。
「なんなんだろうなあ……窓の外からモールスが……夢だろうなあ」
※
また譫妄になってしまうんじゃないか、体の具合も悪くなるんじゃないか、そんな私たちの心配に反して、この事件を境に、タカムラさんの調子は良くなっていった。
夜間のおかしな言動もなく。
電鍵はいつも手元に置いていたが、あの時のように叩き続けることは、私の知る限りなかった。
リハビリも進み、ついに、退院が決まった。
それも自分の足で歩いての退院だ。
「良かったですね、タカムラさん」
「ありがとう、お世話になったねえ」
「お大事になさってください」
私は退院するタカムラさんに挨拶をする。
タカムラさんは鞄を抱えた。その鞄には、あの電鍵が入っている。
タカムラさんは、病棟から連絡通路へと歩き出したが、ふと足を止めて、ふりかえった。
そして、私に言った。
「ね、看護師さん。ぼくは思うんだけど……」
「はい」
「通信はだれにでも来る。そうしたら、その通信には、きっと応えないといけない」
「えっ?」
「準備しておくことだよ」
タカムラさんは、くるりと背を向けて、そして退院していった。
タカムラさんが帰っていく連絡通路の床に、窓からさした陽ざしが反射して、ピカリ、ピカリときらめいていた。それはまるで何かの通信のように――。
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