平凡な記憶
黄黒真直
平凡な記憶
N氏はごく平凡な人物であった。少なくとも、この時代のこの国において、平凡と称させる人生を歩んできた人物であった。
裕福でも貧乏でもない家の二番目の子供として生まれ、二人の親に育てられた。美形とは言い難いが、決して醜悪でもない、見てもすぐに忘れてしまうような容姿をしていた。
子供時代は公教育を受け、ごく平均的な成績をとっていた。数人の同級生と仲良くし、ときに交際することもあった。公教育のあとは、難関でも平易でもない高等教育機関に進学し、目立つところのない成績を修めた。
それらを修了すると、一般的な企業に勤めた。その業界では多少名の知られている、しかし国民全体からすれば全くの無名な企業であった。N氏はそこで、教われば誰でもできるような仕事をし、多くも少なくもない給料を得ていた。
勤め始めて数年経った頃、友人の紹介で知り合った人物と結婚した。一年後には一人目の子供が生まれ、三年後には二人目の子供が生まれた。
これまでに大きな事故も病気もなく、誇れるほどの成功もなければ、悔やむほどの失敗もない。これといった趣味もなく、同僚や友人の間で流行っているものに手を出す程度であった。しかし、それらに夢中になることはなかった。
もしN氏に何か一つでも特徴があるとすれば、それは、あまりにも特徴がないことであった。どのような人物であっても、一つくらいは特筆すべき点があるものだ。身体的特徴であったり、趣味であったり、遭遇した出来事であったり。しかしN氏には、それが一つもなかった。
N氏のことは、N氏の周りの数十人しか知らなかった。N氏のことが書かれた本も、ニュース記事も、映像記録もない。N氏が死ねば、数年か数十年後にはN氏を知る者はいなくなり、その存在は未来永劫忘れ去られるであろう。
そんな平凡なN氏は、平凡な人物が抱きがちな、平凡な欲を持っていた。
何者かになりたい、という欲だ。
自分が死んだ後も誰かが自分の存在を知ってくれるような、そんな何者かになりたいと思っていた。
しかしそれも、本気で望んでいるものではなかった。学者やスポーツ選手がメディアに出演しているのを見たとき、ふと心に湧く程度のものだった。子供の頃にはそのような人物になることを夢見ていたが、今ではすっかり諦めがついていた。
ある日のこと、世間でにわかに流行りだしたものがあった。ある企業が提供を始めた、五感体験サービスであった。
それは、他人の人生を楽しめるという触れ込みだった。スポーツ選手や宇宙飛行士、はたまた軍人や貧民街の住人など、ありとあらゆる人物の人生を、まるで本物のように体験できるという。
しかも中には、実在の人物の人生を体験できるものもあった。自身の記憶を貸したスポーツ選手が、広告塔としてそのサービスを宣伝していた。
サービスの噂は徐々に広がり、N氏の周囲でも話題になった。そして友人の一人が、ついにそれを利用した。
「本当にすごかったよ。スポーツ選手の訓練中の疲労感とか、試合に勝ったときの興奮とか、汗の一粒一粒が流れる感覚まで、全部リアルに体感できるんだ。終わったあと、あの体験と今の自分、どっちが本当の人生か、しばらくわからなくなったくらいだ」
ある識者は、こう述べた。このサービスは、演劇、小説、映画に続く新たな疑似体験メディアである、と。
「映画も小説も、他者の人生を疑似体験できる娯楽と解釈できます。皆さんも小説を読み終わったあと、まるで自分がその主人公の人生を歩んだような気持ちになったことがあるでしょう? その究極の形が、このサービスです」
同僚や友人たちが利用し始めたことで、N氏も体験しようと思い始めた。あまり安価ではなかったが、ちょうどその企業が割引キャンペーンを始めたことで、ついに体験する決心がついた。
仕事の帰りに、N氏はサービスに立ち寄った。自宅から一番近かったのは、大きな博物館の隣に建てられた会場だった。
ようこそいらっしゃいました、と受付の人物が言った。
「一名様ですね。こちらの用紙に、必要事項をお書きください」
項目は多かった。名前、住所、性別、年齢……そんなものが必要なのか疑問に思えたが、N氏は聞かれるがままに全てを書いた。何かしらの誓約書にサインし、料金を支払うと、いよいよ体験することになった。
狭い個室に案内され、ベッドに寝かされた。体中に電極のようなものをつけられ、頭に大きな装置をつけられた。これが五感体験装置だ。
「この装置は、脳の記憶領域である海馬に直接作用します」
装置の準備をしながら、従業員がそのような説明をした。
「簡単に言えば、存在しない記憶を書き加える装置です。次々と記憶を書き込まれている間は、それをリアルタイムに体験しているように感じます。そしてそのあとは、あなたの脳に、それらの体験の記憶がしっかりと刻まれるのです。まるで、自分が実際に体験した出来事のように」
装置の準備が終わると、従業員は外に出ていった。部屋の電気が消されると、いよいよ体験が始まった。
それはこれまでにない体験だった。
宇宙飛行士の人生を選んだN氏は、厳しい選抜テストを合格し、苦しい訓練の日々を過ごした。長い長い日々だったが、同僚たちと仲を深め、励ましあって訓練を乗り越えた。数年後に初めてパイロットに選ばれると、N氏は心の底から喜んだ。そして打ち上げの日、緊張と高揚を感じながら、N氏は宇宙へと飛び立った。宇宙空間での半年間は、激務に疲れ果てる日もあれば、憧れの宇宙にいるという幸福感に満たされる日もあった。任期を終え地球に戻ってくると、地上の同僚たちや家族が、N氏を迎えてくれた……。
気がつくと部屋の電気がついていた。N氏は数秒の間、自分がどこにいるのかわからなかった。だが従業員が入ってくると、今までのことは全て作られた記憶だということを思い出した。
「お疲れ様でした。いかがでしたか?」
「すごい体験でした。本当にリアルで、何年間もあの世界にいたような……あの、私はどのくらい体験していたんですか?」
「一分ほどですね。海馬に直接記憶を書き込むので、実際の時間とは大きくずれるんですよ」
N氏は帰宅する間も、頭がぼんやりしていた。夜の空を見上げ、自分はかつてあそこに行ったのだと、ノスタルジーすら感じた。
それからしばらくの間、N氏は宇宙飛行士の思い出に浸っていたが、やがて現実の自分を直視するようになった。そして、自分はなんと怠惰な人間であろうかと感じるようになった。
あの宇宙飛行士のように、何者かになった人間は、合格のために努力し、辛い訓練を耐え、激務をこなしている。一方、N氏は何もしていない。だから何者にもなれていない。
何者かになりたいと願いながら、N氏はたびたびサービスを訪れた。
あるときは学者となって新発見の喜びに打ち震え、またあるときはスラム街の子供となって飢えに苦しんだ。軍人となり冷静に人を殺したときもあれば、救急隊員となり無我夢中で人を救ったときもあった。
どの体験でも、N氏はまるで自らがその人物になったかのように錯覚した。その最大の要因は、感情の共有だ。元の人物の記憶をそのまま海馬に書き込むため、その人物がそのとき感じた感情もまた、海馬に書き込まれる。小説や映画のように「共感」するのではなく、全く同じ感情を「共有」する。だからこの体験は真に迫ってくるのだった。
N氏は今までに感じたことのない様々な感情を知ることになった。そして、他人の苦しみや喜びを理解できるようになった。結果として、家族や友人から、より愛される人間に変わっていった。
N氏は仕事ができるようになった。学者の記憶を書き込み、知識が増えたからだ。慈善活動にも協力するようになった。飢える苦しみを知ったからだ。
N氏は過酷とも思える決断を冷静にできるようになった。苦しんでいる人を放っておけず、無我夢中で助けるようにもなった。
何よりN氏は、努力するようになった。何者かになった者はみな、努力をしている。これまで自分は、彼らをどこかで妬んでいた。大した苦労もせずうまくやっているものだと思い込んでいた。だが違った。今のN氏は誰にも妬まず、研鑽を積むことができるようになった。
サービスを受けるごとに、N氏は変わっていった。
そんなある日、N氏に一通のメッセージが届いた。体験サービスの運営元からだった。そこには、N氏の記憶を購入したいと書かれていた。
N氏はメッセージに書かれていた場所へ出向いた。サービス会場の横にある大きな博物館だった。N氏はそこで初めて、大元の運営はその博物館であることを知った。
「お越しくださりありがとうございます」
博物館員が握手を求めた。
「私の記憶を買いたいとのことですが」
「はい。正確にはコピーさせてもらいたいのです」
博物館員の説明は、次の通りだった。
そもそも博物館とは、様々な資料の収集と保存が第一の目的である。もしできるならば、この世の全てを保存し、未来の人々に伝えたい。しかしそれは不可能なので、重要な資料を選び、保存している。
ところがこのたび、人々の記憶を読み取ることが可能になった。そこでこう考えた。多くの人々の記憶を読み取り、保存しておけば、この時代のこの国の姿を未来に残せるのではないか。
「あの体験サービスは、それに適した人物を探すためのものでした。提出いただいた個人情報をもとに皆さんのことを調査し、最も適した人物としてあなたを選んだのです」
「なぜ私なんですか?」
「あなたが最も平凡な人間だったからです。少なくとも、本サービスを受けるまでは。歴史に残るのは、名のある人物ばかりです。しかし世界は、名のある人物だけで構成されているわけではありません。無名な人物の方が多い。そしてあなたは、その中でも特に平凡で、何一つ大きな出来事に遭遇していない。この時代を最もフラットに未来に伝えられる人物だと考えたのです」
N氏は驚いていた。何者にもなれなかったこと、何も特筆できないこと。自分が抱いていた心の中のしこりが、役に立とうとしている。
「あなたの記憶は、我々が全力を持って未来に伝えます。そして数百年後、この時代に興味を持った学者が、あなたの記憶を参照するのです。そのときあなたは、この時代を未来に伝える人物として、歴史に名を残すことになるでしょう」
N氏は記憶のコピーを承諾した。
こうして、N氏の記憶は未来に残されることになった。だがそれは、両者の想像とは全く異なる形で受け継がれることになった。
記憶を読み書きする装置は、数年ほどで小型化、量産化された。
それはまず、警察が利用するようになった。容疑者全員の記憶を調べれば、冤罪を撲滅できる。その中に真犯人がいれば、確実に捕らえられる。犯罪は目に見えて減っていった。
やがて安価になると、一般の人々が手にするようになった。人々は恋人や家族と記憶を見せ合うようになった。感情を共有し合い、より深く愛し合うようになった。
世界中の学校が装置の導入を始めた。子供たちは勉強から解放された。学者の記憶を書き込むことが教育になった。大人もこぞって知識を書き込み、誰もが最先端の学問を知ることになった。
犯罪被害者や被差別者、貧困層の人々が、自分の記憶を配布し始めた。自分たちの苦しみを知ってほしかったからだ。多くの人々が彼らの感情を共有し、犯罪の恐怖、差別の理不尽、貧困のやるせなさを知った。犯罪は根絶し、差別と格差はなくなった。
人類はすべての記憶を共有すべきとの論調が強くなった。そう主張する人々が自身の記憶を配布すると、それを共有した者達がまた、同じ主張を始めた。全人類が同調するまで百年かからなかった。
人類は記憶を共有するようになった。人類は初めて、互いを理解し合えた。互いの感情を分かち合えた。不理解から来る諍いはなくなり、あらゆる喜びを共有した。人類はついに平和を手に入れた。
記憶は世代を超えて継承された。生まれたての赤ん坊に人類の持つすべての記憶が書き込まれた。一歳を超える頃にはあらゆる言語を話し、最先端の学問を得ていた。残りの寿命はすべて、自身の幸せと、人類の知識を増やすことに費やされた。
人類はもはや、一人になっていた。すべての記憶と感情をリアルタイムに共有し、全体で一つの生命体のように振る舞った。
博物資料の収集などというものは、ほとんど意味をなさなくなっていた。「自分」が生まれてから今日までのことを、すべて完全に記憶していたからだ。人類が見聞きしたあらゆることは、決して忘れられることはなかった。
そんな中でN氏の記憶は、「幼少期の思い出」として、時おりノスタルジーとともに思い返されるのだった。
了
平凡な記憶 黄黒真直 @kiguro
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