第3話 追憶と展望

 太陽はとうに昇りきっており、閉め切ったカーテンの隙間からわずかに部屋の中を照らしている。

 耳元にあてたスマートフォンから鳴るコール音を聞きながら、凛音は手元にある紙切れに視線を落とす。朝日奈と名乗る魔女から受け取った名刺だ。

 朝日奈アリス、本業は大学教授らしい。高卒で楽器店に就職した凛音からすれば、大学なんて縁遠い場所であるが、それでも名前は聞いたことがある、都内の名門大学だ。

 心のどこかで朝日奈を信用していいのか迷っている部分もあったが、もう今まで通りの生活を送れないことは紛れもない事実であることだけは確かだ。今朝だって、駄目もとでカーテンを開け放ち、直射日光に身を焼かれたばかり。このまま部屋に閉じこもっていてもどうせすぐに限界が来る。それなら少しでもマシになる可能性が高い方を選択するべきだというのが、凛音の出した結論だった。

 それに、もう一つ。朝日奈の話を聞いていて、やりたいことができた。それはあまり前向きなものではないが、達成したいと思える目標がないよりはマシな気がする。これを達成するためには少しでも朝日奈に近い場所で生活する方が都合がいいはず。

 朝日奈と出会った次の日、ここまで丸一日かけて考えた上で、凛音は朝日奈に電話をかけていた。

「出ない……」

 コール音を聞き始めてもう一分以上経つ。好きな時にかけてくれて構わないと言われてはいたが、大学教授は忙しいのだろうか。

 ――やはり騙されているのか。

「いやいや、それは考えたところでしかたないでしょ」

 首をもたげてきた疑念を振り払う。今起こっていること全てが夢みたいなものなのだから、いちいち疑っていたら何もできない。

「かけ直すか……」

 耳元からスマホを離そうとした瞬間、コール音が途切れた。

「はい、朝日奈です」

 聞き覚えのある、やや低い女の声。

「朝日奈さんですね。あの、黒川凛音です。先日お世話になった――」

 凛音が名乗ると同時に、朝日奈の声が明るいものに変わる。

「ああ、黒川さん。今ちょうど授業が終わったところだ。どうしたのかな」

「シェアハウスの件で、相談したいことが」

「そうか。ええと、今日は夕方まで講義が入っているから、日没後——十九時に大学の最寄り駅で落ち合おうか」

「分かりました」

 待ち合わせの約束をして二、三言葉を交わしてから通話が終了した。

 スマホを置いて一息つく。時刻はまだ昼前で、待ち合わせの時間までかなりある。

 太陽がギラギラと輝く外になんて出ようものなら文字通り死にかけることになるだろう。当然、仕事も休んでいる。

 ――やることがない。

 こんなに暇だと感じるのはいつ振りだろう。平日は仕事があったし、休日も和音と遊ぶかギターを弾いてばかりいた。

 手持ち無沙汰になった凛音はスマホのLINEアプリを開いて和音とのトーク画面を表示したが、そこで指が止まる。トークを遡れば本当にどうでもいいような馬鹿げたやり取りも残っているのに、今は何を書けばいいのか分からない。

 最新のやり取りは、最後に会った日の前夜に送った「おやすみ」のスタンプ。ほんの二日前の出来事が、途方もなく遠い昔のことのように思えた。

 もうここに文字を打つことはないのだろうか。

 手にしたスマホが、虚しさの塊みたいな気がして、布団の上に放り投げた。

 ごろりと寝転がると、ちょうど視線の先が部屋の隅に置いてあるギターケースにぶつかる。

 中学時代に何となく始めた趣味のアコースティックギターの弾き語り。自他共に認める飽きっぽい性格である凛音だが、ギターだけは不思議と成人を迎えてからも毎日のように練習していた。

 中学の時に知り合った和音もきっかけはギターだったし、就職した楽器店も趣味が高じた結果だ。

 ここ数日ギターに触っていなかったことを思い出した凛音は、起き上がってケースからギターを出して抱える。

 触れたところから馴染みのある硬い感触が伝わってくる。

 高校生の頃、放課後空き教室を和音と二人で占領して、陽が落ちるまで弾き語りをしたことを思い出した。

 高校卒業後、凛音と違い和音は大学へ進学したが、時間を見つけてはお互いの家を行き来して、時にはスタジオなんかを借りたりして練習していた。

 二人で路上ライブをやってみようかと駅前まで行ってみたはいいものの、結局人混みに気圧されて逃げ帰ったこともあった。

 会話をしている時よりも、ギターを弾いている時の方が、和音のことが分かる気がした。きっとそれは和音も同じだったと思う。

 このギターには和音との思い出が、数えきれないほどに刻まれている。それはスマホのトーク履歴なんかよりもずっと明確で鮮やかなものに違いない。

「だから、大丈夫だよね」

 思い出をゆっくりと辿るように、凛音は一つずつ確かめるように音を奏でた。

 このギターがあれば、和音と一緒なら、きっと大丈夫だと、そんなふうに思えてくる。

 陽が落ちるまで、自分の指が動くままに凛音はギターを弾き続けた。


 太陽が地平の向こうへ沈んだ後、凛音は待ち合わせ場所である朝日奈の大学の最寄り駅へ向かった。凛音の最寄りからほんの数駅。向かうことは苦になりもしない。

 道中、大学終わりの和音と遭遇するのではないかという期待とも不安とも言えない感情が湧いた。もちろんそんなことはあるはずもなく、疲れた顔をした仕事帰りと思しき人々や、友達グループの集団なんかに囲まれながら電車に乗った。

 駅に着くと、おそらく大学生だろう、華やかな雰囲気の同年代の人々がかなり多かった。

 友人と楽しそうに喋りながら改札を通る彼らを見ているうちに、何となく自分が場違いな存在のように感じてくる。凛音は逃げるように改札を後にし、駅の出入り口を出てすぐの広場の隅っこに隠れるように立った。


 しばらく目の前を行き来する群衆を眺めていると、ふと人の波間からちらっと見えた一つの人影が目に止まった。

 黒いシャツに黒いスラックス。前に会った時と同じく真っ黒に身を包んだ朝日奈は、凛音と目が合うと真っ直ぐ向かってきた。

「すまない。遅れてしまった」

「いえ、大丈夫です」

 夜空で染め上げたような朝日奈の格好は、真夏のコンクリートジャングルを歩くのには少々暑そうに見える。

「それじゃあ行こうか。詳しい話もそこで」

 凛音が頷くと、朝日奈は駅へと向かう人混みに逆らって歩き始めた。


 朝日奈と凛音は、駅近くのファミレスに来た。

 ファミレスの中でも比較的高価格帯にあるこの店に入り、メニューを見た凛音は一瞬顔を引きつらせた。

 朝日奈が笑って「私が奢ろう」と提案したが、凛音だってヴァンパイアといえども一社会人。丁重にお断りした。

 結局朝日奈はステーキを、凛音は比較的安価だったナポリタンを注文した。

 朝日奈の大学の話を聞いたり、凛音の趣味のギターの話をしているうちに、料理が運ばれてきた。

 ナポリタンを口に運びながら、凛音はシェアハウスの話を受けようと考えていること、正式にシェアハウスを始める前に一度この目で見てみたいと思っていることを告げた。

 シェアハウスの話を肯定的に受け取った様子の凛音を見て、朝日奈は満足げに頷く。

「みんないい子たちだから、きっとすぐ馴染むさ。黒川さんと同い年の大学生もいるからいい相談相手にもなれるかもしれない」

 はっきりと表情には出ていないものの、朝日奈が喜んでいることは分かった。何の縁もゆかりもない凛音に対して、おそらくは善意で接してくれているのだろう。

「あの、もしシェアハウスが決まった時に、一つやりたいことがあって……」

 この先を話すことを凛音は躊躇っていた。あまり前向きではない、凛音が立てた目的。

 朝日奈は先を促すように黙っている。

「朝日奈さん、言ってましたよね。私がこうなってしまったのは、どこかでヴァンパイアに噛まれたせいだって」

「ああ、そうだね」

「シェアハウスに住むことになったら、私を噛んだヴァンパイアを探したいんです」

 朝日奈の表情にほんの少しだけ陰が差す。

「探して、どうするのかな?」

「……分かりません。ただ、文句の一つでも言ってやらないと私の気が済みません」

 本当は、文句の一つで収まるのか自信はない。凛音の生活をひっくり返したような奴だ。いざ目の前にした時に自分の感情を抑えられるのか。

 これが、凛音の考えた「あまり前向きではない目標」。

 朝日奈は何も言わずに黙っている。

 怒っているのかもしれないと凛音は思った。

 朝日奈からのシェアハウスの提案が彼女の善意から来るものであれば、凛音がしようとしていることは、朝日奈の善意を踏み台にした復讐とも取れる。

 これはとても不誠実なことのように、凛音には思われた。

 朝日奈は少し考えるような素振りを見せた後、口を開いた。

「つまり、黒川さんはそのヴァンパイア探しを私にも手伝って欲しいということかな。シェアハウスに加われば私とも連絡が取りやすくなる」

 全て見透かされた。凛音はただ頷くことしかできない。

 気まずくて顔を上げられず、視線はあまり減っていないナポリタンから外すことができない。

「別に怒っているわけじゃない。ただ、新生活を復讐のために過ごすのはいかがなものかと思っただけだ。——まあ、他の人と接しているうちに変わることもあるだろうし、黒川さんだって子供じゃないから色々考えた上でのことだろう。他の住人に迷惑をかけることがなければ構わないよ」

「そうですか……。ありがとうございます」

 朝日奈は小さく頷くと、ステーキを口に運び始めた。冷めてしまった肉を嚥下してから「これ温め直そうかな」などと呟いている。続けてもごもごと口を動かしてフォークの先でステーキをつつくと、たちまちステーキから湯気が立ち上り始めた。

 魔法は便利だな、なんて考えながらぽかんとその様子を眺めていると、朝日奈が「そっちもやってやろうか」という目で見てきたので、凛音はゆっくりと首を横に振った。

 優雅な手つきでステーキを切り分ける朝日奈を横目に、凛音は冷めかけたナポリタンを食べた。


 食事を終えてレストランから出たところで、凛音は朝日奈に頭を下げた。

「今日はありがとうございました」

「いや、こちらこそ。話せてよかったよ。それじゃあいよいよだね、行こうか」

「どこに?」

「シェアハウスだけど。来ないの?」

 さも当然のように言う朝日奈。

「見学したいってついさっき言ったばかりですけど、大丈夫なんですか?」

「まあ週に何度か顔も出してるし、そこに客が一人増えたってだけだから」

「はあ……」

 凛音は間の抜けた返事をするしかなかった。そういうものなのだろうか。余所者である自分が急に行っても大丈夫なのだろうか。

 うろたえる凛音に、朝日奈は少し茶目っ気を含ませた声で言った。

「それに、見学するならありのままを見た方がいいだろう?」

 

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人外少女シェアハウス! 庵間阿古也 @akoya-ioma

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