第2話 魔女

 凛音が目を開けると、辺りが真っ暗になっていた。カーテンの隙間から漏れていたはずの陽光は消え去っている。

 大泣きした後特有の、目の奥が熱っぽい感じがした。泣き疲れて寝落ちしていたらしい。

「どんだけ寝てたんだ……?」

 寝起きでふらつく体で立ち上がり、凛音はそっとカーテンを開けた。外は完全に夜になっており、周囲の建物にはぽつぽつと明かりが灯っている。

 いつもと変わらない夜景。今朝の事件が嘘だったかのようだと凛音は思った。陽の光を浴びたら激痛に襲われたこと、鏡に映らなくなったこと、そして——親友の和音に襲い掛かり血を呑んだこと。それらが全て、たちの悪い夢だったのだと思えてくる。無意識のうちにそう思いたがっているのかもしれない。

 テーブルに目をやると、モーニングセットのコーヒーとホットサンドが置いてあった。側にはくしゃくしゃに丸められた包装紙のゴミも落ちていた。

 思考が現実に引き戻される。

「何がどうなってんだよ……」

 答えのない問いかけが口からこぼれる。

 和音に連絡しようかと思ったが、今朝の出来事が脳裏によぎる。今まで一度も向けられたことのない和音の拒絶。実際にそれだけのことを凛音はしてしまったのだ。

 困惑と不安の波が押し寄せてくる。もう二度と陽の光を浴びることができないのか、もう二度と和音に会うこともできないのか——。

 またも涙がこぼれそうになったその時、凛音の胃腸がきゅうと可愛らしい音を立てた。思えば、朝にホットサンドを一つ食べたきりだった。こんな異常事態でもいつもと変わらず空腹を訴える自分の体に、思わず苦笑いを浮かべる。和音の血を飲んでしまったことはあえて考えなかった。

 寝起きでぼやけた頭を夜風で冷やすのも悪くないかもしれない。

 顔を洗おうと洗面所に行ったところで、自分の姿が鏡に映らなくなってしまったことを思い出した。これから先ずっとこのままだったらとても不便だな、となぜか冷静にそんなことを考えながら顔を洗って洗面所を出た。

 着ていく服を選ぼうとしたが、自身が映らない鏡の前であれこれ考えるのが何だか空しいような気がして、箪笥を開けようとした手を引っ込める。

「ま、最寄りのコンビニ行くだけだし」

 結局、部屋着の上にジャージを羽織っただけのラフな格好で、凛音は外に出た。

 歩き始めてすぐに、いやに視界がはっきりしていることに気がついた。とっくに日が暮れているのにもかかわらず、街灯の光も当たらない建物の細部まで、昼間と同じようにしっかりと視認できる。陽の光を見れなくなった分、夜目が効くようになったのかもしれない。


 歩いていると、不思議と頭が勝手に色々なことを考え始める。

 この体は果たして元に戻るのだろうか。戻らなかったとしたら、日常にかなりの支障がある。昼間外に出られなくなれば、働いている職場を辞めなければならない。そうなれば生活だって怪しくなる。

 それだけではない。和音に襲い掛かった今朝の自分は何かがおかしかった。やってはいけないと頭では分かっていても、まるで体が言うことを聞かなかった。自分で自分を制御できないのは気味が悪いし、何よりも危険だ。

 また今朝のような衝動に駆られた時、凛音は自分を制御できる自信がなかった。

 血の海の中に横たわる和音と、そこに馬乗りになっている自分の姿を想像して、凛音は身震いした。

「明日、病院行こうかな」

 本当は今すぐにでも行くべきなのだろうが、明日になれば今日のことが嘘だったみたいに体が元に戻っているかもしれない、なんて都合のいい希望にすがりたいという気持ちがどこかにあった。

「病院へは行かない方がいい」

「えっ?」

 突然聞こえた低い女の声。思わず肩が跳ねる。

 声は前の方から聞こえてきた。そのはずなのに、前方には左右を塀で挟まれた細い路地が伸びているだけ。声の主と思しき人影はない。

 今の凛音の目は、頼りない街灯の明かりしかない夜道でも、ブロック塀のでこぼこまではっきりと捉えられる。人間の影を見落とすとは思えなかった。

 薄ら寒い心地になったが、どうせ空耳だろうと思い直し、歩こうとした瞬間、目の前に女が現れた。何もない空中から、音もなく、まるで墨が染み出してくるように出現した黒ずくめの女は、質量がないかのような軽やかさで、地面に降り立った。

 今日一日だけで、ありえない現象にいくつも遭遇してきた凛音でも、これには悲鳴を上げた。

「————‼︎」

 真っ黒な女は一瞬驚いたようにたじろいだが、おもむろに凛音へと手を伸ばしてきた。

 凛音の内にある、危機意識のようなものを司る部分がはたらいて、後ろへ飛びずさる。——正確には飛びずさろうとした。しかし動揺していたからか、足がもつれて尻もちをつくはめに。

 尻もちをついた凛音を追い詰めるように、女はさらに手を伸ばして歩み寄ってくる。

 自身の肩を抱いて、凛音は目をぎゅっと瞑った。

「あの、そんなにビビらないで欲しいんだけど……」

 凛音に降ってきたのは、困惑の声だった。

「はい……?」


 それから少しして、凛音と謎の女は近くの児童公園の一角にある東屋にいた。

「さっきはすまなかった。朝日奈アリスだ」

 丈の長いコートは黒く、インナーもズボンも黒い。全身を真っ黒に包まれた女は、名乗った後に握手の手を差し出した。

 その手をおずおずと握り返しながら、凛音は朝日奈を観察する。

 歳は三十を過ぎた辺りだろうか。同じ女性の凛音ですら照れ臭さを感じてしまうほどの容姿。切れ長の瞳は知的な光をたたえている。

 静謐な月を思わせるような女性だと思った。

「黒川凛音です」

 まるで知っていたかのように朝日奈はうなずく。

 それから、突然だけれど、と前置きしてから口を開いた。

「君の体には何かしらおかしなことが起こっているんじゃないか?」

 知っているかのように言い当てられて、凛音が固まる。彼女の問いは全くもってその通りなのだが、素性も知らない人間にどこまで話していいものなのか。

 凛音の沈黙を肯定と取ったのか、朝日奈は続けた。

「具体的には、そうだな……。太陽が見れなくなったとか、鏡に映らなくなったとか」

 この女は一体なんなのだろう。何をどこまで知っているのだろう。全てを見透かしているかのような瞳に少し気圧されながらも、凛音はうなずく。

 朝日奈はそうか、と呟くと何かを考え込む表情になった。

 そして、ゆっくりと噛み締めるように告げた。


「黒川凛音、君は、ヴァンパイアになってしまったんだ」


 そんな馬鹿なという否定と、そうだったのかという納得が、同時に湧き上がってきた。

 ヴァンパイアというものは凛音でも知っている。夜になると人を襲って血を吸い、太陽を浴びると絶命する、生き物。

「えっと、現実にいるものなんですか? ヴァンパイアって」

「いる。数はごくわずかだが、現実に存在している」

 朝日奈は大真面目に肯定する。真っ直ぐと見つめてくるその視線は、嘘を言っているようには見えない。

「当然、世間一般には認知されていない。そして一度なってしまえば人間に戻る方法はない。だからさっき病院へ行かない方がいいと言った」

「そんな……。どうして、私がヴァンパイアに……?」

「どこかで他のヴァンパイアに噛まれたんだ。普通に吸血するのとは違う、眷属にするためにね」

 ちょっと失礼するよ、と言って朝日奈はスマホのカメラで凛音の首の辺りを撮影した。

「鏡に映らないからなかなか気づきにくいんだけど——ほらここ」

 スマホに表示された首の写真。その一点を朝日奈が指し示す。頸動脈の辺りに、狭い間隔で2つの点のようなものがうっすらと付いている。

 その小さな痕が、自分がヴァンパイアになってしまったことを証明しているようで、嫌な気分になる。

「いつ、どこで……?」

「分からない。昨日一日、君が今朝起きるまでのどこかで、だろうね」

 凛音には心当たりがなかった。首を噛まれるなんて体験があれば忘れるはずはない。

 いつ? どこで? 誰が? 何のために?

「それじゃあ……」

 言いかけて、その先の言葉が出てこなかった。疑問と不安があふれて頭がパンクしそうになる。

「もう、普通には生きられない……?」

 果てしない絶望感が凛音を包む。

「難しいと思う」

 朝日奈の言葉が、死刑宣告のように聞こえた。

「ギターが、好きで。和音と——親友と時間を見つけては弾いたり、歌ったりしてました」

 口が勝手に動いていた。自分が何を言おうとしているのかもよく分からない。

「楽器店に就職して、好きなものに囲まれて働けて、今の仕事とっても気に入ってて」

 朝日奈は黙って聞いている。

「今朝起きたら、体がおかしくなってて、それで、和音が来てくれて——」

 視界がぼやけてきた。声が震える。

「心配してくれたのに、私は、和音に噛みついて、血を飲んで……それが、ありえないくらい美味しくて……」

 熱い雫が頬を伝う。

「なんで私なんだ。……なんでわたしが、こんなめにあわなきゃいけないんだ」

 朝日奈の腕がそっと凛音の肩を抱き、優しく引き寄せた。抱き寄せられるままに、凛音は朝日奈の肩に顔を埋めた。

 しゃくり上げる凛音の耳元で、朝日奈が優しく語りかける。

「あまりにも唐突で困惑しているだろう。前向きになれなんて言わない。恨むななんて言わない。ただ、私は君の味方だ。ヴァンパイアとして生きていくための手助けもできる。それだけは言わせてほしい」

 凛音は洟をすすりながら顔を上げた。

「どうやって?」

 朝日奈は慈母のような微笑みで告げる。

「まだ言ってなかったな。私は魔女なんだよ」

「ま、魔女?」

「本業はまた別だけどね。君と似たような人と関わる機会が多いんだ」

 突飛な話だと思った。それと同時に、この黒い女のことを信じたいと思っている自分もいた。これは朝日奈の魔法なのだろうか。それとも、先が見えない中で頼れるものを求めているからなのだろうか。

「少しは落ち着いたか? それじゃ、詳しい話は夕飯を食べながらにしようか」

 凛音の肩を抱いたまま、朝日奈はすっと立ち上がる。

「それじゃ行こうか。私から離れるなよ」

 言うが早いか、凛音と朝日奈の周囲の景色がぐるぐると回転し始めた。高速の竜巻を中心で見ているような感じだ。

 回転はどんどん速くなり、ついには目で追えないほどの速さになり、それからゆっくりと減速を始めた。景色の回転が収まると、そこはもう公園の東屋ではなく、どこかの街中の路地だった。

「えっ?」

 事態が飲み込めずぽかんとする凛音に、朝日奈はさらりと告げる。

「転移魔法だよ。行きつけの居酒屋の裏路地に飛んできた。さあ、行こう」

「えっ?」

 そう言って、路地から出て行く朝日奈。

 困惑の極地に陥った凛音が、十秒かけてやっと捻り出した感想は「随分と俗っぽい魔女もいるんだな」だった。


「好きに話してくれて大丈夫だ。防音魔法をかけてあるから会話は聞かれない」

「は、はぁ……」

 目の前で焼き鳥をかじる魔女の言葉に気の抜けた返事をする。

 席に着くとすぐに、酒と適当な料理を注文した朝日奈に、凛音はただ見ていることしかできなかった。

 結局凛音は、あれよあれよと言う間に運ばれてきたレモンサワーをちびちびと飲んでいる。……おいしい。

 朝日奈はハイボールを一口飲んで口を湿して喋り始めた。

「えーと、どこまで話したんだったかな。……そうそう、私が君にしてあげられる手助けのことだった」

 朝日奈は少しだけ居住いを正した。

「単刀直入に言うと、君にシェアハウスの提案をしたい」

「シェアハウス?」

「私が運営しているシェアハウスがある。君と似た境遇の女性を集めて共同生活をしてもらってる」

「私以外にもヴァンパイアがいるんですか?」

 凛音は少し身を乗り出す。自分と同じヴァンパイアがいれば、悩みを共有したりできる仲間ができるかもしれない。

 しかし、朝日奈は首を横に振った。

「ヴァンパイアはいない。君のような亜人——正直この言い方好きじゃないんだけど——はヴァンパイアだけじゃないからね。今うちに住んでいるのは、狼女、ゾンビ、サキュバスの三人だ」

 狼女、ゾンビ、サキュバス——どれもこれも映画やおとぎ話に出てくるような存在ばかり。

「現実にいるんですね。そういうのって映画とかの中にしかいないのかと」

「一般的には認知されていないからね、人数も本当に少ないし。でも、現実として存在していて、普通の人と同じように生活している」

「どんな人たちなんですか?」

「言っただろう。普通の人と同じだし、みんないい子だ。それで、どうだろう。その子たちと共同生活をするというのは」

「そう、っすね……」

 凛音にはシェアハウスの経験がなかった。そもそもあまり人付き合いが得意な方ではないし、他人と同じ屋根の下で暮らして上手くやっていけるのかも自信がない。

 一方で、朝日奈の提案に魅力を感じている自分もいた。自分と同じように普通とは違う人たちがどのように生活しているのか興味があったし、似通った事情を持った人たちなら悩みを共有したり頼ったりすることができるのではないか。

 凛音が迷っているのを汲み取ったのか、朝日奈は軽い調子で言った。

「すぐに決めなくたっていい。じっくり考えてみてほしい。シェアハウスのことを断ったとしても、私はいつでも相談に乗るし、できる協力を惜しむつもりはない」

 朝日奈が懐から一枚の名刺を差し出してきた。

「何かあったらここへ連絡するといい」

 凛音は両手で名刺を受け取って、頭を下げた。

「ありがとうございます」

 少し考えてみよう、そう思った。


 結局、居酒屋を出たのは日付が変わって少ししてからだった。

 ヴァンパイアになって、親友を襲って、魔女と出会って、シェアハウスの話を持ちかけられた。凛音は、感情すら追いつけないほどに目まぐるしい一日を過ごす羽目になってしまった。

 朝日奈から転移魔法なるものでマンション前まで送ってもらった凛音は、部屋に戻るやいなやベッドに倒れ込んで半ば気絶するように眠った。

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