人外少女シェアハウス!

庵間阿古也

第1話 モーニングセット


 その日、黒川凛音くろかわりおんの目覚めは最悪だった。普段から朝に強いわけではなかったが、いつにも増して、体を起こすのが苦痛だった。

 耳元でけたたましく鳴るスマホのアラームを、手探りで止め、ようやっと顔だけ布団の外へ出す。

 閉め切ったカーテンの隙間から差し込む光が、妙にまぶしく感じる。もう一度、布団の暗がりへと潜り込みたいという誘惑に駆られるも、今日の予定を思い出した。

和音かずねのとこ……行かないと……」

 自分でも驚くほどに低い声が出た。

 今日は、午前中から親友と会う約束をしているのだ。

 凛音の寝起きの悪さを知っている彼女は、午後からにしないかと提案してくれていたのだが、その時は何を考えていたのやら、凛音は午前からで構わないと豪語してしまっていた。当時の自分を恨みながら、凛音は死にかけのイモムシのような動きで布団から這い出す。

 依然として起床を拒否しているらしい体は、鉛のように重い。

 朝日を浴びれば、このだるさも少しはマシになるだろうと、眠い目を擦りながらカーテンを開ける。

 青空でさんさんと輝く太陽の日差しが、凛音の体に注がれた、その時。

「ぎゃっ!」

 眼球を針で刺し貫かれたような痛みと、皮膚があぶられたような熱が、凛音を襲った。

 乱暴にカーテンを閉め、窓から逃げるように布団の中へと飛び込む。

「今の、何……?」

 今まで生きてきて、こんなこと一度も体験したことがなかった。目の奥に残る、痛みの余韻のようなじんじんとした感覚が収まるのを待ってから、今度は恐る恐る、窓の方を横目で見てみる。

 さっきのような鋭い痛みに襲われることはなかった。しかし、カーテンの隙間から漏れている陽光が、いつもよりまぶしく感じていることに気が付いた。

 これまでの人生の中で、こんなことは一度もなかった。体は明らかに変調をきたしているが、原因として思い当たることはない。

 布団からそっと出て、洗面所へ向かう。目に何か異常が出ているかもしれないと思ったからだ。ついでに顔を洗ってさっぱりしようと決めた。和音には悪いが、今日の予定はキャンセルしよう。眼科にでも電話すれば何とかなるだろう、そう思い直した。

 いつもの習慣で洗面所の明かりを点けてしまった瞬間、またあの痛みに襲われるかもしれないと身を固くしたが、特にそんなことはなく、LEDの機械的な明かりはいつもと何も変わらない。

 ほっと安堵の息をついて、洗面台の鏡を見る。そこに映し出されていたのは、いつも部屋着として身に着けている少々くたびれたスウェット、のみ。

 自分の顔が映っておらず、これでは目がどうなっているのかも確認できないではないか。困ったなあ、と呑気に思考したあたりで、凛音はぎょっと目を見開いた。

「な、なんで⁉ なんで……⁉」

 意味もなく目を擦り、袖で鏡を拭う。

 鏡の中にあるのは、まるで自分の意思をもって立っているかのような部屋着だけ。誰か――というか自分が着ているので当然ではあるのだが、人間の体のような膨らみはあっても、その中は空っぽだ。

 自身の存在がこの世から消えてしまったのではないか、という予感に襲われる。背筋がすっと冷えていくような感じがした。

 思わず頬を撫でようとして腕を動かすと、それに合わせるように鏡に映る服も形が変わる。しかし、やっぱり自分の体は影も形もない。この手が頬に触れることなく空を切ることになったら……、私はどうなってしまったことになるのだろう。もしも、誰の目にも見えない存在になってしまったのだとしたら……。

 現実感の伴わない恐怖に、息が詰まる。心臓の鼓動が異様に速くなっていく。

 小刻みに震える手が頬に触れると、当然のように、指先に肌の感触が伝わってくる。同時に体温と冷汗でじっとりとした湿り気も感じられた。見下ろすと、自分の体はしっかりと見えている。

 どうやら体がガラスのように透明になって消えてしまった、ということはないらしい。よくよく考えてみれば、目を擦ったり鏡に触れたりしたのだから、自分の体が実体を失った、なんてことはありえないことは明らかだった。あまりにも現実離れした現象を前にして、思考が止まってしまったらしい。

 しかし、自分の体が鏡に映らなくなってしまったという事実は変わらない。

「何がどうなってるんだ?」

 呟いてみても、返事などあるはずもなく。

 言い様のない不安だけが、心の中に積もっていくばかりで、凛音は夢を見ているような心地で、洗面台の前にぼうっと立っていることしかできなかった。


 凛音が我に返ったのは、インターホンが鳴っているのに気が付いてからだった。今は人と顔を合わせるような気分ではなかったが、日ごろの習慣というやつか、足が勝手にモニターの前へと自身を運んできてしまった。

「和音……!」

 画面に映っていたのは、よく見慣れた親友の顔だった。約束のことが完全に頭からすっとんでしまっていたことに申し訳なさを感じたが、それよりも安堵の方がずっと大きかった。体の変調が治るわけではないが、凛音の心細さを和らげるのに、これ以上の存在はなかった。

 考えるよりも先に、指が通話ボタンを押していた。

「ほら、やっぱり無理だったじゃない」

「ご、ごめん……」

 普段なら反抗的な言葉の一つや二つ出てくるものだが、今日は素直に謝罪の言葉が口からこぼれる。

「どうせ朝も食べてないんでしょ。いつものお店でモーニングをテイクアウトしてきたから一緒に食べよ」

 画面の向こうの和音が、紙袋を提げた右手を軽く掲げて見せる。その紙袋のデザインから、二人でよく行く喫茶店のものだとすぐ分かった。

 それを見て、お腹がきゅうと鳴った。次いで猛烈な空腹感が凛音を襲う。こんなに何かを食べたいという欲求が強く感じられたのはいつぶりだろうと心の隅で思った。

「凛音?」

「ああ、ごめん。すぐ開けるから」

 通話を切って入口の開錠のボタンを押す。これで和音はエントランスからマンションの中へ入ってくることができる。

 ほどなくしてドアホンの音がした。今度はエントランスの所ではなく、部屋のドアについている方だ。早足でドアの前へ行き、鍵を開ける。

 ドアを開けた瞬間、日差しが凛音を直撃する。しまった、と思った時にはもう遅く、全身を炎に舐められているような痛みに包まれた。

「いったああああ‼」

 悲鳴を上げながら部屋の中へ飛びずさり、大人気もなく転げ回る。

「うわっ、ちょっとなに、どうしたの⁉」

 慌ただしく部屋に上がってきた和音が、そばのテーブルに持っていた紙袋を置き、床にうずくまる凛音のそばにしゃがみ込んで、心配そうに声をかけた。

 じりじりした痛みに震えながら凛音はやっと口を開く。

「起きてから、体がおかしい……」

「体調が悪いの?」

 凛音は黙って首を振る。

 どう話したらいいものか、分からなかった。そもそも話したところで信じてもらえるのか。和音の顔を見て落ち着き始めていた不安が再燃してくる。

 そんな凛音の心情を察したのか、和音はそっと凛音の頭を撫でた。

「凛音がこんなに取り乱すなんて珍しいね。よほどのことがあったんでしょ」

「…………」

「落ち着いてからでいいから話してみてよ。力になれるか分かんないけど、話すだけで楽になることもあるでしょ。やばそうな感じだったら一緒に病院行ったげるからさ」

 何も言わずに、凛音はちょっとだけ頷いた。

 ありがとう、と言おうとして顔を上げると、和音の首筋が目に留まった。夏真っ盛りのこの季節は、午前中でも気温が高い。当然肌も汗ばんでいる。血色の良い、健康的な肌色。

 うっすらと皮膚から透けてみえる血管が見えた瞬間、これ以上ないほどの強烈な空腹を自覚した。いや、空腹というにはあまりにも強い。胃のあたりが焼けるような錯覚があるほどの飢餓感。

 思わず生唾を飲み込む。頭の片隅でその異様さを理解しつつも、凛音は和音の首筋から目を離せない。

「ん、どしたの?」

 凛音に起きている異常事態など知る由もない和音は、呑気に顔を近づけてくる。

 ――まずい、本当にまずい。そんな美味しそうなものを私に近づけないでくれ。

 耐えがたいほどにまで膨れ上がった飢餓感を、わずかに残った理性で抑えつけるが、それもいつまでもつか分からない。

 ふと、和音は何かに気が付いたように声を上げた。

「首のところ、何か赤くなってない? 傷みたいな……」

「へ……?」

 和音の顔が、息がかかりそうなくらいにまで迫る。汗の匂いと温かい体温が、凛音の五感を刺激した。

 ――もう、無理だ。

 凛音の両手が、和音の両肩をがっしりと引っ掴んだ。ぎょっと目を見開いた和音が何か言うよりも早く、凛音は和音の首の付け根辺りに噛みついた。

 顎に力を入れるとぷつっと皮膚が避ける感触、続けて滲んできた生温い液体を舐め取る。

 バランスを崩した和音の体があおむけに倒れた。はずみでテーブルから紙袋が落ちたが、凛音は気づかなかった。凛音は和音の首元から口を離さず、なおも滲み続ける血を嚥下する。頭の横で和音が何か言っているような気がしたが、耳の奥に入ってこない。

 血の雫をちまちまと舐め取るのがじれったくなり、もっと思いっきり飲んでやりたいという暴力的な衝動が湧いてくる。さらに深く噛もうとした瞬間、言葉になっていない叫びと共に、凛音の体が押し退けられた。

 凛音の力が緩んだのと同時に、和音が凛音の体の下から這い出した。それを追いかけようとしたところで、和音と目が合った。凛音の動きが止まる。

 ぜえぜえと肩で息をしながら部屋の隅でがたがたと震えている和音は、おぞましい化物でも見るかのように凛音を見つめている。

 ようやく我に返った凛音は、自分がしでかしたことの重大さに気づいた。

 どうすればいいのかも分からないまま、凛音は口を開く。

「あの、和音――」

「ひっ……!」

 和音の肩が跳ねる。捕食者と相対する小動物のようだ。

「和音、今朝から体が変だって話をしたじゃん? 今のも、多分……」

「来ないでっ‼」

 放たれた拒絶の言葉。すがるように伸ばしていた凛音の腕がびくりと止まる。

 凛音は和音の顔を見ることができなかった。凛音自身にも何が起こっているのか分からなかったが、大好きな親友に拒絶されたこと――いや、拒絶されるようなことをしてしまったことだけは分かる。

 音で和音が立ち上がったのが分かった。凛音からできるだけ離れるように、壁に沿って歩きながら、部屋を出ていこうとしている。

 待って、と追いすがる言葉が喉まで出てきていたが、声にはならなかった。たったいま悲鳴交じりに投げつけられた拒絶の言葉が、凛音の頭の中で反響する。

 玄関の扉が閉まる音を凛音は背中で聞いた。

「あんな顔、するんだな……」

 最後に見た和音の顔は、恐怖に歪んでいた。いつも明るい笑顔を浮かべている彼女があんな表情を浮かべるところなんて、想像したこともなかった。そして、その原因が自分自身になるなんてことも、夢にも思っていなかった。

 ふと凛音が横を見ると、和音が持ってきていた紙袋が倒れていた。行きつけの喫茶店からモーニングセットをテイクアウトしてきたと言っていたことを思い出す。中を見ると、包装紙にくるまれたホットサンドと紙コップのコーヒーが二つずつ。紙コップは蓋が外れて袋の中がコーヒーびたしになっている。

 凛音はそっと袋の中身を全て取り出し、テーブルに並べた。コーヒーは、一つは中身もすべてこぼれてダメになっていた。もう一つもこぼれていたが、中身は半分ほど残っている。ホットサンドは、どっちもコーヒーでびっしょりになっている。

 凛音は、中身が半分ほど残ったコップと、二つのホットサンドのうち比較的マシな方をわきにどけて、コーヒーが浸み込んだホットサンドにかぶりついた。いつも食べているもののはずなのに、なんだか味がよく分からない。

 味のしない朝食をかじりながら、テーブルに置かれたモーニングセットに目をやる。あのホットサンドとコーヒーは誰にも食べられることなく終わるだろう。

 そして、和音と一緒にこれを食べることも、もうないのだろう。

 凛音は泣きながら、ひどい味のするホットサンドを口の中に押し込んだ。

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