第3話 謝罪
嫁入り道具として持ってきた母の箪笥は、私が生まれる前から、座敷横の陰気くさい納戸に大人しく置かれている。
母は怒りのボリュームを自動的にあげ、疲れ切った父を相手に、また何十回目かの箪笥事件の語りを始めた。私はその隙に、納戸スペースに静かに向かった。
今から二〇年以上も前、あの大雪の日。私は祖母とこの納戸に来たのだろうか。果たして祖母は、母の箪笥を開けたのだろうか。ワインレッドの箪笥が怪しく光り出す。まるで水に落とした水中花のように、縮んでいた時間が開くような感触を覚えた。
「お婆ちゃん、ママの箪笥の場所はかくれんぼするのに、いいんよ。」
「楓ちゃん、ここの納戸は寒いから、向こうでこたつに入って、テレビ見ましょう。」
「お婆ちゃん、ほら、こうやって、ママの箪笥の中にも隠れられるんよ。」
「楓ちゃん、ママの大事なもんが入っているから、勝手に開けたらいかんよ、あっちでテレビ見ましょう。そろそろアニメが始まる時間だよ。」
祖母は嘘を言っていない。三歳の私自ら、母の箪笥を開けて中に入ろうとしている。それをお婆ちゃんが、止めようと私の体に触れ、リビングに連れて行こうとしている。
今から二十二年前、私は確実に嘘を付いたのだ。母に構って欲しかったからか、その場の乗りか、今やもう分からないが、きっと前者だと思う。妹が生まれて間もない頃だ。自分が独占してきた親の愛情が、私に無許可にそして無条件に妹に流れていく状況が許せなかったのかもしれない。
祖母は箪笥事件を忘れていなかった。ただ、ずっと記憶の片隅に押しやっていただけだ。この季節を迎えて、急に思い出したのか。何かきっかけがあったのだろうか。
「だから医者の弟も、アルツハイマーの気があるんじゃないかって言うとったって、言うとるやろ。今度、病院に連れて行くって、何べん説明したら、分かるんや。いい加減、昔のことを蒸し返して、いつまでもいつまでも喋り続けるのん、やめま!」
リビングから父の雷鳴のような叱責の声が飛んでくる。その声にかぶさるように、母の異常にヒートアップした濁声がリビング中にこだましている。
「何回も言わんと、あんた分からんげん。あんたのおっかさん、おかしいんや!」
「人の親を悪く言うなま!」
私を取り巻く全ての音にシャッターを下ろし、座敷に戻った。母と床を共有している座敷には、既に布団が敷かれていた。私は毛布に包まり座敷の隅に目をやった。疲れ切って小さく頭を垂れている、祖母の姿が瞼に浮かんできた。
私に絡む噂も祖母の狂言であったと父が親戚中に連絡し、ようやく騒動が収まったのは三月下旬。同じころ、教育事務所からの電話連絡があったものの、内容は、赴任校が決まらなかったというものであった。
「すみませんね。いろいろ当たってみたんだけど、まずあなたね、正式な第一種の免許は社会だけでしょ。他の教科の免許もないし。なかなか社会は空きがなくてね。やっぱり慣れている人しか充てられないって言う事情も正直あるんだけどね。中学校も今年は空きがなかったんだわ。で、小学校とか特別支援は希望していなかったでしょ。とりあえず四月からの赴任校はなかったけど、今の時代ね、病休も多いし、突然の退職もあるし、もちろん育休もあるから、このまま臨時的任用採用の希望登録は継続にしますから、携帯電話の番号はなるべく変えないで下さいね。変更の際はご一報をお願いしますね。」
ここで、よろしくお願い致します、と言わないと、次の仕事案内電話がかかってこないのが、講師の世界である。私は必死に頭を下げ続けるしかなかった。
祖母の狂言が、今回の見送りに繋がったわけではないということは頭では承知していた。しかし四月からの職を失い、時給千円ちょっとの派遣業務に着地した私は、無機質で単調な仕事によってストレスが発生すると、日に日に祖母に対する怒りを明確にしていった。そして退屈な日々を重ねていくうちに、このような日常になったことを、祖母のせいにしないと気が済まなくなっていた。
東京でも確実に講師依頼が来ていた私。東京よりもライバルが少ない、地元で依頼がないなんて。
あの日を境に、自分を取り巻く色が変わったのだ。
私は空いた時間を見つけては、自分のストレス解消のために、押し入れの奥底に長年冬眠させていた玩具を、少しずつヤフーオークションで次々に売り始めた。それは昔、祖母にねだって買ってもらっていたものだった。
詰まっていた玩具がなくなり、押し入れが寂しげな表情をのぞかせたのは翌年の三月下旬だった。派遣先の仕事をしながら、今年こそ赴任先がありますようにと、祈るように教育事務所からの電話連絡を待っていた私に届いたのは、妹からの連絡だった。それは祖母の最後を知らせるものだった。すぐさま上司に事情を伝え、休みの申請をして仮通夜の場に急いだ。
駆けつけた時には、既に多くの親族が勢ぞろいしていた。私の姿を見つけた父が
「いろいろあったけど、お前の婆ちゃんや、最後にちゃんと挨拶せいや。」
と私を祖母のそばに呼んだ。口半開きの状態で大人しく寝かされている祖母は、まだ何か言いたそうに見えた。
私はその時、祖母の口許を見ながら、はっとした。
私は自分が幼い頃についた嘘に対して、祖母に一度も謝罪していなかった。それ以前に、騒動後、一度も顔を見せることさえもしなかった。むしろ後のごたごたを前面に出し、恨んだ日々さえあった。
目の奥がゆっくりと痛み出した。蒼い時代の嘘とはいえ、その後、祖母が壊れ始めたからとはいえ、自分のしたことに対しては、やはりきちんと謝るべきではなかったのか。
私は祖母の右手に触れた。私がよく触れた右手。冷たく硬くなっている手に、私は熱を送り続けた。
「あの時、嘘を付いてすみませんでした。」
悔悟の念が含まれた雫が、祖母の手に落ち続ける。
私は祖母の顔を見つめ、新しく泣き始めていた。
蒼いウソ ラビットリップ @yamahakirai
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