第50話 旅が終わったら

「お前……こんな夜更けにこんな所へ何しに来たんだよ?」


 右頬にある赤いモミジ型のタトゥー(ビンタの跡)を擦りながら、俺は背中合わせで湯船に浸かっているジャックに問い掛けた。


「シバケンこそ、なんでこんな時間にこんな所にいるのさ。……はっ! ま、まさか、ボクを待ち伏せしてたの!?」

「違うわっ! ただ一人で温泉に入ろうと思って来ただけだっての」

「え? シバケンも? う~、なんだよ。この時間なら、絶対誰もいないと思ったのになぁ……」


 不貞腐れるように言って、口元を湯船に沈めてブクブクやっているジャック。

 ははぁ、さてはこいつも、この温泉を独り占めしようと画策していたクチだな。


 しかし、これは少々厄介なことになったな。まさか風呂に入っていたら女の子がやってきて鉢合わせ、なんてラノベの中にしか無いようなシチュエーションをリアルに体験することになるとは。


 夢の無いことを言うようだが、この状況は実際ただただ気まずいだけだ。


「…………ねぇ、シバケン」


 どうしたものかな、と頭を悩ませていると、唐突にジャックが口を開いた。


「どうした?」

「シバケン、さ……リアちゃんの薬を完成させる為に、今回も何か、凄い事したんだって?」

「凄い事? ああ、なんだその事か。シビルから聞いたのか?」

「うん。この温泉のことを教えて貰った時に、一緒にね」

「別に、今回だってたいしたことはしてないよ。そりゃ、あれだけの古文書を解読するのはたしかに大変だったけど、それだってリアの助けがなきゃできなかったことだしな」


 実際、薬を作れるのはリアだけだし、今回のMVPは間違いなくあいつだろうな。


「そう? シバケンの言う『たいしたことない』って、いつも結構たいしたことあるような気がするんだけどなぁ? 本を何倍にも増やしたり、あっという間に演劇のお話作りをしちゃったりさ……はぁ~あ。本当に、なんでいつもはダメダメの癖に……ズルいなぁ」

「は? ズルいって、俺の何が――おぅ!?」


 溜息を吐いていたジャックが、唐突に俺の背中に寄りかかって来た。

 な、なにしてんだこいつ!?


「お、お前っ。そんなくっつくなって! もう少し離れろ!」


 慌てて押し返そうとするが、ジャックは全体重をかけているようでなかなか離れない。


「はぁ……あのねぇ、こんなことぐらいでなに焦ってるのさ? ボクたち今まで一緒に旅してきた相棒だろ? 散々同じ場所で寝たり着替えたりもしてるんだし、これくらいで慌てるなんて今更だよ」

「セリフと行動を統一しろよ……さっき裸見られて平手打ちかましてきた奴がよく言うぜ」

「あ、あれは『裸を見られた』じゃなくて『胸を揉まれた』だし、シバケンが悪いんだから当然だろ!」


 うぐっ、それを言われると弱いんだよなぁ……。

 反論できずに黙ってしまう俺を愉快そうに笑って、それからジャックは少し拗ねたような口調で呟いた。


「それに……どうせシバケンは、ボクのことなんてあんまり女の子扱いしてないんでしょ?」


 う~む、たしかに普段のこいつは「女の子」と言うよりは、「気の合う友達」とか、「ペット」とか言った方が近い気がするのも事実だが……。


「い、いや。こんな状況だったら、さすがに女の子として意識するだろ、絶対」


 しかもあんな事があったんだからなおさらだ。

 俺が言うと、返事が帰って来るまでには短い間があった。


「……へ、へぇ~。そう、なんだ……た、例えば、どんな所?」

「はい?」

「だ、だからっ! 例えばボクのどんな所を、その、女の子として意識するのかなぁ?」


 ここで「おっぱいです」と即答できるほどの剛の者でもない俺は、のぼせている頭をフル回転させて、なんとかそれ以外の答えを探す。

 どうする、どうする、他には何が……。


「……そ、そういえばさ! お前、前に言ってたよな? 自分の本名がどうとかって」

「へっ? そ、そんなこと言ったっけ? あ、あは、あはは~、覚えてナイナァ!」


 よし、ジャックの気が逸れた。「話題をすり替えておいたのさっ!」作戦、大成功だ。

 たたみ掛けるように、俺は言った。


「お前、たしか本名は『自分には可愛らし過ぎるからあんまり言わない』って言ってたよな?」

「ぎ、ギクッ!?」

「はっはっは。なぁ、ジャック? 少しでも女の子っぽく見られたいって言うなら、その『可愛らしい本名』とやらを言えば良いじゃないか。そしたら俺も、お前をもう少し女の子扱いするかも知れないしさ?」

「ギクギクッ! で、でも、さすがにそれはちょっと恥ずかしいというか……」

「おいおいジャック、俺たち今まで一緒に旅してきた相棒じゃないか? 散々同じ場所で寝たり着替えたり、果てはこうして一緒に風呂に入るまでの仲なんだ。本名を教えるくらいで恥ずかしがるなんて今更だぜ」


 先刻の自分のセリフによって完全に墓穴を掘ったジャックは、しばらくの間、湯船のせいか羞恥のせいか耳まで赤く染めると、やがて小さい声でポツリと漏らした。


「…………笑わない?」

「笑わないよ」

「……わ、わかったよ。じゃあ、言うね? ボクの、本当の名前は――」


 ゆっくりと口許を俺の耳に近付けて、ジャックが囁きかけてきた。


「…………はははっ。なるほどな、そりゃたしかに可愛らしいや」

「あっ! わ、笑わないって言ったのに!」

「悪い、悪い。でも馬鹿にしてるわけじゃなくて、本当に可愛らしいなって思っただけだよ」

「う~……恥ずかし過ぎる…………」


 ぎゅっと膝を抱え込んでしまうジャック。こいつの恥ずかしさの基準はよくわからんな。


 ひとしきり笑ったあと、俺はふと、満天の星空を見上げた。

 手を伸ばせば掴み取れそうなほどの星々に改めて感嘆の息を漏らしていると、ジャックも背後で空を見上げる。


「星が、綺麗だね……」

「そうだな。俺の故郷じゃ、まず見られない光景だな」

「そうなの?」

「ああ。俺の故郷は、なんというか、夜でも明かりが多いせいで、星がこんなにはっきり見える所ってあんまり無いんだよな。ここじゃ、珍しい景色でも無いんだろうけど」

「ふ~ん。シバケンの故郷って、話を聞くだけでも随分と変わった場所みたいだね?」


 言って、それからジャックは何度か躊躇する素振りを見せてから、やがて思い切ったように口を開いた。


「ね、ねぇ、シバケン」

「なんだ?」

「シバケンはさ、その、紀行文ってやつが完成したら、どうするの?」

「どうするって……まぁ、帰るよ、故郷にさ。一応、本の完成を待ってる奴もいるしな」


 背中越しに、ジャックの肩が一瞬ピクッと揺れた。


「そ、そっか……」


 それからまた少し間を置いて、尋ねてくる。


「……じゃあ、帰って、その待ってる人に本を渡したら、その後はどうするの?」

「そりゃ勿論、また小説を書く日々に戻るよ。そもそも俺の本業はそっちだからな」


 いや、まぁ、本当は本業でもないんだけどね。まだ俺はただのワナビなんだけどね。


「旅は…………旅は、もうしないの?」

「旅? う~ん、そうだなぁ……」


 俺はしばらくの間考え込んで、それからひらひらと手を振った。


「わからん。まぁ、旅をすれば色々と小説のネタも集まるってことはよくわかったし、ネタに詰まったらまたするかもしれないけど、取り敢えずしばらくはしないだろうな」


「疲れるしな」と言って苦笑すると、ジャックはまた小さく、けれどさっきよりいくらか元気の無さそうな声で頷いた。


「…………そっか」

「ああ。でも、なんでそんなこと聞くんだ?」

「ううん。何でも……何でも、ないよ」


 最後に一言だけそう言って、ジャックはもう一度空を見上げると、それから夜空を彩る無数の光の粒をただただじっと、静かに眺め続けていた。

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