第46話 クマと目の充血はデフォルトです

「……う、ん…………はっ!」


 研究室の奥にあるベッドから、毛布が勢いよく跳ね除けられる音がした。

 続いて「え、あれ、リアは……」と困惑した声も聞こえてくる。


「おう、目が覚めたか」


 作業台の使われていないスペースを使って翻訳作業をしていた俺が振り返らずに声を掛けると、リアが柄にもなくオロオロした様子で問うてくる。


「シバ、ケン君……? り、リアは……リアは一体……?」

「慌てるなって、ただ眠っちまってただけだよ」

「眠って……そう、ですか。リアは、寝てしまったのですね……」


 途端にリアがしおらしく呟く。振り返らずとも、落ち込んだ表情をしているのは明白だ。


「お前、ここ数日まともに寝てなかったんだろ。そのツケがさっき一気に回ってきたんだろうな。やれやれ、医者の不養生とは感心しませんな」

「なっ……んで、わかるのですか?」

「顔見りゃわかるよ。お前、締め切り前の修羅場モードの俺と同じ顔してたぞ?」


 からかうようにそう言うと、リアは「意味が分からないのです」とぶすくれて、それから絞り出すように言葉を漏らした。


「寝れるわけ……ないじゃないですか。こうしてリアたちが手こずっている間にも、『寝たきり病』の人たちは苦しんでいるのです。リアは旅の《調合師》として、一刻も早くラサ・アプソ村を助けなければ……」

「アホ、それでお前がぶっ倒れちゃ、ますます村を救う日が遠ざかるだろ。今この村で特効薬を作れるのは、お前だけなんだから。いいから、お前は今は取り敢えず寝とけ」


 だが、リアは引き下がらない。まだ力の入らない体をどうにか動かしてベッドから這い出ると、おもむろに俺の背後まで歩み寄ってきた。


「そうはいかないのです。リアしかいないからこそ、リアが一番頑張らないとダメなのです」

「おいおい、育ち盛りが無理すんなって。ちゃんと寝ないと疲れもとれないし、何より大きくなれないぞ? 身長も、あと胸もな」

「……最低」


 うわっ、止めて。女子のマジトーンの一言って一番心にくるから止めて。

 おそらくはゴミを見る様な視線を俺に向けているだろうリアは、これ以上の問答は時間の無駄だと考えたのか、唐突に俺の肩に手を置いて力を込めた。


「もういいです。あなたと下らない言い合いをしている暇があったら、少しでも研究を進めます。さぁ、いい加減に机をリアに明け渡して――ひっ」


 そのまま無理矢理に俺を押しのけようとして振り返った俺の顔を見た瞬間、リアが今までで一番怯えた悲鳴を上げた。


「な、なな、なんなのですかその顔は……あなた、本当に死にそうな顔ですよ?」


 言われて、俺も作業台のガラス器具に映った自分の顔を確認する。

 そこに映っていたのは、なるほどたしかにひどい顔だった。くっきりとできた黒いくま、充血した白目、やつれた頬。


「うん、締め切り三日前でやっと推敲まで終わった時のいつもの俺だな。問題無い」

「問題大ありなのです! 他人のことを言えないじゃないですか……こんなになるまで、一体何をしていたのですか?」

「ん? ああ、ちょっと医療関係とは別の本の翻訳をな。いやぁ、この辺りの昔の交易についての本なら俺でも多少は解読できるかと思ったんだけど、やっぱりなかなか難しくてさ。全部洗うのに苦労したよ。さすがに目が痛くてしょうがないぜ」


 作業台前の椅子から立ち上がり、俺は机の上に山積みになった紙の束をリアに見せた。


「嘘……この量を、全て一人で? これまで二人で解読してきた分と同じか、それ以上はありますよ? それを、それをこの短時間で……」


 リアの言う通り、机の上にはこの一週間ほどに二人で片付けてきた量と同等の文書があった。

【念写】能力をフルに応用した結果、最終的に片手で約三十枚、つまり両手で約六十ページ分の高速翻訳を可能にしたことの賜物である。


 あとはひたすら解読だ。【速読】のお陰で得た超人的な読解スピードに物を言わせて、コピペした大量の文書を片っ端から読み進めていったのだ。俺がいかに古代文字を勉強する気が無いかが、この紙山から窺い知れることだろう。


 その代償とでもいうべきか。ほんの半日ほどの作業であったにも関わらず、俺のコンディションはそれこそ数日にわたって徹夜した時並みに芳しくなかった。


「どうだ? 魚の死体も、やる時はやるだろ?」


 少ししわがれた声で俺がニッと笑って見せると、リアは一瞬きゅっと口を引き結んでから、呆れたように、けれどどこか怒ったように言った。


「馬鹿……シバケン君のくせに生意気なのです。どうして、こんな無茶を……」

「物書きさん? 入るわよ」


 リアのセリフを遮って、コンコン、と研究室の扉がノックされ、押し開けられる。

 部屋に入ってきたのは、二人分のコップと水差しの載ったお盆を抱えた村長夫人だった。


「リアちゃんの様子はどう? 起きた時の為にお水を……あらリアちゃん、起きてたのねぇ? うんうん、さっきより大分顔色も良くなってるし、よく眠れたみたいで良かった」


 村長夫人は机の脇にお盆を置くと、安心したわと言って微笑んだ。


「おばさま……ごめんなさい。心配をお掛けしたみたいで、申し訳ないのです」

「あら、いいのよ。気にしないで。そこの物書きさんからリアちゃんが倒れちゃったって聞いた時は驚いたけど、ただの寝不足だったみたいでほっとしたわ」


 しゅんとした様子で謝るリアの頭を優しく撫でると、それから村長夫人は少しだけ悪戯っぽい笑みを浮かべて俺とリアを交互に見やった。


「それにしても……ふふふ。良かったわね、リアちゃん。こんな素敵なナイト様に助けて貰えて。ちゃんと感謝しなきゃダメよ? 彼、すっごく頑張っていたんだから」

「え……?」

「あ……」


 リアがきょとんとした顔を浮かべるのと、俺が眉間を指で押さえたのは、ほとんど同時のことだった。


 おばちゃん……ちょっと口が軽すぎませんかねぇ。

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