リメンバー・マザー
土曜日の昼下がり、いつものように、僕はリバーサイドブルーのステージに立っていた。
客は今日も満員で、美代子が面白いMCをして、どっと客たちを乗せる。
誠治は、一番遠い、部屋の片隅の席に居心地悪そうに座り、さっきから頻繁に水を飲み、大きく貧乏ゆすりさえしている。
僕はまるで授業参観みたいだななんてことを考える余裕さえあった。
《僕のテナーサックスは何の影響も受けない。明日世界が終わったとしても》
そう自負していた。
僕が、テナーサックスを始めたのは、母親の死を乗り越えるためだった。
でも、今は違う。
僕は、テナーサックスにすべて捧げなければならない。
そうだ、覚悟はできている。
演奏が始まった。
今日の一曲目は、速く、速く、どこまでも速かった。
まるで早撃ちのビリーザキッドみたく、とにかく、速い。
雄一が決めた曲は「ストロード・ロード」。
ソニーロリンズのレコード、サキソフォンコロッサスに入っている名曲だ。
この速いテンポの曲を、さらに速くやった。
あいさつ代わりの「ストロード・ロード」の後はミドルテンポのウエストコーストジャズ風のナンバーが続き、僕はまるでスタン・ゲッツになりきってクールに演奏した。
そして最後は僕の作ったオリジナルの曲。
「リメンバー・マザー」
と僕は発して、この曲を始めた。
「リメンバー・マザー」というこの曲は少しも悲しみをはらんでいない。
早紀に捧げるバラードだが、僕の中で、母の早紀は、太陽のようなイメージだった。だから、僕は、旋律を繊細にではなく、勢いで、エネルギッシュに吹いた。
早紀がいた頃、笑顔の絶えなかった、僕と誠治、三人の思い出。
この曲はさびしい夕日ではない。
燃えるような朝日なのだ。
始まりの朝に、窓辺から照りつける、祝福の光のように。
演奏が終わると、僕は、チラッと誠治の方を見た。しかし、そこに誠治はいなかった。
それから、ジャズ喫茶が閉店になって、僕は一人残って、当番の店内清掃をしていた。
誠治は、僕の演奏を最後まで聞いてはくれなかった。
気にくわなかったのかなと不安になると、急に尿意を催し、僕は急いで、店内奥のトイレに駆け込んだ。
小便をして、手を洗い、トイレを出ようとした。
ハンカチを後ろポケットから取り出し、手をふいている時、不意に楽器の音が聞こえた。
テナーサックスの音だ。
僕は、急いでトイレを出る。しかし、僕のテナーサックスを吹いている人を見て、さっとトイレのドアの陰に隠れた。
誠治だ。
誠治は、見たことのないような顔をしていた。
うっとりとした目で、少し口元が緩んでいて、僕のテナーサックスをなでている。
まるで子供のような顔をしていた。
そして、もう一度口に持っていき、音を鳴らす。
僕は思わず、トイレのドアをガタッと言わせた。
それで、誠治は、はたっと演奏をやめて、僕の方を見た。
誠治はテナーサックスを下ろすと、ばつが悪そうに、頭を掻いた。
僕と誠治は、カウンターに肩を並べるように座った。
「なあ、健よ」
「何、父さん」
「いや、あの、それだ」
「なんだよ、はっきりいってくれよ」
「お前、テナーサックス、すごいうまいな。驚いたぞ」
「そう、ありがとう」
「いつから、そんなにうまくなったんだ」
「父さんは、何も見えていないよ」
「ん?」
「父さんは、アメリカにいるから、僕の練習するところを見たこともない」
「おじいちゃんが、教えたのか?」
「うん、それに雄一おじさんが」
「そうか」
「父さんも、テナーサックス、好きなんだね。いまでも」
「恥ずかしいけど。悔しいくらいに好きなんだ」
「どうして、みんなの前では、あんなことを言うの?」
「俺は、許せなかったんだよ」
「だれを? もしかして、おじいちゃん?」
「違うよ。借金取りだ。俺は、おじいちゃんを苦しめた借金取りが許せなかった。真面目に生きている人たちを苦しめる悪い奴らが、許せなくて、怒りを感じて、殺してやりたくなるほどで、だから、弁護士になったんだ。社会的に弱い人たちを助けたくってな」
「みんなの前で、あまのじゃくなのが意味わからないよ」
「俺はね。おじいちゃんが借金を抱えなければ、プロのテナーサックス奏者にだってなりたいほど、テナーサックスが好きだった。だから、今でも、テナーサックスを徹底的に嫌わなければ、また弁護士をやめてでも、目指してしまいそうなんだ」
「父さんは、本当に、不器用だね。まるで青木コルトレーンじゃないか」
「そうか。だよな。俺は青木コルトレーンの息子だからな。そして、健よ。お前は、青木コルトレーンの孫だ」
「そうだよ。僕は誇りに思ってる。父さんみたく」
「やるからには、絶対に、最高のテナーサックスプレーヤーになれよ」
「それって」
「現役合格だ。それ以外の選択肢はない。もし、落ちたら、浪人して、法学部へ行け」
「うん。約束するよ」
僕が頷くと、誠治は席を立ち、「リメンバー・マザー」を口笛で吹きながら、、リバーサイドブルーを出ていった。
「ありがとう、父さん」
僕は、出口のドアを開けて、出ようとする父の背中にそうつぶやいた。
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