灼熱の太陽
その日、久しぶりに、桜子がジャズ喫茶へやってきた。
自宅でくつろいでいたら、美代子が僕を呼びに来て、桜子が会いたがっていると伝えた。
僕は、寝転がっていたが、飛び起きて、洗面所の鏡の前に立ち、髪を整えた。
そして、部屋着から、私服に着替え、自宅を出ると、素早い身のこなしで地下のジャズ喫茶にすべりこむ。
僕が入り口の扉を開けて、中に入ると、桜子が軽く手を振ってきた。
僕は気取ったように頷いて、桜子が座る二人掛けのテーブルの向かいにすっと座る。
「どうしたの?」
と僕は、喜び、躍り上がりたい気持ちを抑え、クール・ジャズのトランペットみたいな声音で、そう訊いた。
「あのね、実は……」
桜子は、ばつが悪そうな顔をして、アイスコーヒーをストローでかき混ぜている。
もしかしたら、やっぱり僕と付き合いたいとでもいうのではないかと根拠もなく期待しつつ、桜子の次の言葉を待つ。
「翔太のことなんだけど」
「あいつがどうしたの?」
翔太ときいて、僕はガクッとなりそうになったが、何とかもちこたえて、そう訊き返した。
「翔太は、かなりデリケートな問題を抱えているらしいの」
僕は、首をかしげる。
はっとした。
「もしかして、翔太のお母さんのこと?」
桜子はぴくっと片方の眉を上げて、
「そう、翔太のお母さんって、少し、その……」
「ああ、心療内科にかかってるって言うよね。僕も、翔太からむかし、ぽろっときいたよ」
「うん、そのお母さんの体調が、あまりよくないみたいなのよ。不安定って言ってた」
桜子は、深刻げな顔をした。
僕は、どう言っていいか考えた。
桜子が速射砲のような早口でしゃべる。
「翔太は、夏が終わったら上京して、本格的にプロを目指すっていうのよね。でも、もともと、母子家庭で、事実上、翔太が、不安定なお母さんの面倒をずっと見てきたらしいのよ。翔太は、自分が上京したら、お母さんを一人取り残してしまうから、それが、一番心配なことだって言うの。でも、夢を捨てることはできないって頭を抱えたわ。私、翔太のために何かできないかなって、ずっと考えてるんだけど、そうそう、この間、翔太と会った時も、お母さんの体調がよくないんだって言って、俺にひどくあたってくるんだよって、すごく暗い顔をしてたわ。死にたくなるんだよなんてことまで言うのよ。ねえ、健、翔太のために何かできないかな? 私、翔太が苦しんでいる姿を見ると、いてもたってもいられないのよ」
しかし、僕は黙ったままでいた。
翔太がうらやましい。
僕は、いらいらしたけど、気を取り直して、水を一口飲んでから、桜子にこうアドバイスをしてやった。
「ただ一緒にいるだけでいいと思うよ。それだけで、翔太も勇気が出るはずだから」
「本当に? それでいいの?」
「うん、自信をもってね。君のことを翔太は最高の女の子って言ってたよ」
僕は、複雑な思いをぐっと抑えて笑顔を作った。本当は、翔太のことを悪く言ってやりたいっていう気持ちがあった。でも、フェアプレイだって約束したし、僕は翔太を親友だと思っているから、きっと翔太も、僕をそう思っているだろうし、とにかく、卑怯な真似は、したくなかったのだ。
桜子が、白い歯を見せて、えへへと笑った。
「ありがとう、健。君は、いい人よね」
「はは、そうでもないよ」
本当に、翔太は、僕の前にいて、いつもいいおもいばかりするんだ。
桜子の笑った唇に目がいく。
厚めの唇には、薄くピンクの口紅が塗ってある。
「翔太のそばにいる。もう、東京に帰らなくてもいいかも」
「僕も勉強が忙しいから、そろそろ行って、いい?」
僕は、桜子の返事を待たず、席を立った。
僕自身が、いたたまれないじゃないか。いい人なんて言われて、間抜けすぎやしないか!
ジャス喫茶を出ると、大きなため息を吐いた。
でもきっと、桜子の笑顔を自分だけに向けさせる。きっと、きっと、きっと!
体中を、熱い血が駆けまわり、心臓に戻ると、さかんにノックしてきて、いまにもぶち破ろうとするから、階段をいっきに三段跳びだ。
一騎打ちになる。
僕のテナーサックスと、あいつのギター。
自室に帰ると、窓を全開にした。
暑い。汗が全身から、いっきに吹き出す。
焼け焦げてしまうな。いや、焼け焦げてしまえば、むしろ、気持ちがいいだろ?
桜子の唇が、灼熱の太陽に重なった。
僕はテナーサックスを引っ張り出し、無我夢中で吹き鳴らしていた。
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