本気のテナーサックス

 不意に、ノックの音がした。

「ほら、健ちゃん、お父さんが帰ってきたわよ」

 花江が僕の部屋のドア越しに呼んだ。

 僕は、返事をして、一階に降りていった。

 足取りは、重かった。

 父に会うのは、正月以来だ。

 できれば会いたくはなかった。

 父の誠治は、玄関で、僕の顔を見るなり、

「勉強はしてるか?」

 と訊いてきた。

 僕は努めて、真剣さを装い、

「うん、やってる」

 と答えた。

 父は、アメリカからの土産を僕に渡してきた。

 包みを開けると、小学生が喜びそうな、クッキーやキャンディがいっぱいに入ったお菓子の缶だった。子ども扱いするにも過ぎる。

 僕は、いやな気持がしたけど、顔には出さず、

「ありがとう」

 とだけ言った。

「兄さんは、元気にやってる?」

 と誠治は花江の方を向いた。

「ええ、今は下にいるわ。そのうち仕事を終えて、上がってくると思うけど」

「そう」

 誠治は、鼻を鳴らして、革靴を脱ぐと、家に上がった。

 誠治は仏壇に手を合わせる。

 仏壇には父親の新太郎と、妻の早紀の遺影が飾ってある。

 それがすむと、居間へ行き、ソファに深々と座って、一回、大きなあくびをすると、「疲れたな」とつぶやいて、花江に風呂を沸かしてくれるように言う。

 誠治が風呂に入っている間、僕は花江にどう誠治を説得すればいいか相談した。

「誠治は、決して、情に流されないのよ。あなたのお父さんは、すべてを仕事だと考えたがる。私たち青木家の人間との交流も、あなたへの愛情も、遺影に手を合わせる行為も、すべてを、義務だと考えたがる。言っている意味が分かる?」

「……」

「あなたは、自分の手で、誠治を説得するしかないのよ。わからないって顔ね。あなたにはテナーサックスがあるじゃないの。そういうことよ」

「でも……」

「大丈夫よ。誠治をジャズ喫茶に引きずっていくことくらいは、私たちにもできるから」

 しばらくすると、ジャズ喫茶から、雄一と美代子が上がってきた。

「誠治が帰ってきたらしいな」

 雄一がそう言うと、

「あんた、誠治さんと喧嘩なんてしないでよ」

 と美代子が雄一の肩を肘でこづく。

「俺たちも、もう子供じゃないからな」

「あんたは、子供よ。子供の部分が多すぎるのよ」

 雄一は僕を見ると、

「健、おばあちゃんから、話は聞いたよ」

 僕が緊張したようにうなずくと、

「大丈夫だ。俺が、説得してやるから」

「あんたが出てくると、ややこしくなるから、口を挟まないことよ」

 と美代子。

 そうこうしているうちに、誠治が、浴室から、戻ってきた。

「やあ、兄さん、元気だった?」

「おう、お前こそ」

「俺は元気だよ」

「ん、誠治よ。お前、少しやせたな」

「仕事が激務なんだよ。まあそれほど、ニューヨークから、求められてるってことさ」

「そうか。大変なんだな」

「ああ、でも、やりがいがある仕事だよ」

「この後、久しぶりに飲もうぜ」

 雄一が、手で酒を飲む真似をすると、

「いいね。兄さんの近況も聞かせてよ」 

 誠治はそう言うと、雄一の横をすっとすり抜けて、ソファに座った。


 誠治と雄一は、酒を酌み交わし、談笑した。

 僕は二人のそんな様子を、横目に見ながら、亮と将棋をさした。

 亮とはよく将棋をさす。

 僕が小学五年の頃にここへ引っ越してきてから、休みの日になると、夕食の後に、必ず。

 別に将棋が好きなわけではないけど、習慣になっているのだ。

「お前も苦労したからな」

「ああ、いろいろとね」

「父ちゃんも、悪気があったわけではないんだ」

「僕の大学時代のことか」

「そうだ。お前がテナーサックスをやめるきっかけになった」

「もう、忘れたよ」

 祖父の新太郎は、誠治が大学生の頃に、知り合いの保証人になって、大きな借金を背負ったらしい。そのせいで、誠治は、学費を稼ぐために、所属していたジャズサークルをやめ、テナーサックスもやめたらしい。

 雄一は、無遠慮に、話をする。

 酒が入ってくると、雄一は、しぶとくなる。

「早紀さんと出会ったのも、大学時代だったな」

「ああ、そうだ」

「早紀さんは、お前にはもったいないくらい良い女性だった」

「そうかな。俺は早紀は俺にふさわしい女だったと今でも思ってるけど」

「早紀さんはよく、俺に言ったものだ。テナーサックスをやっている誠治が好きだったってな」

「兄さん、もう、早紀の話はやめにしないか?」

「お前は、変わってしまった」

「俺は、もともと、こういう性格なんだよ。この家の人間とは違うんだ」

 誠治は、フンとたぶん無意識で、鼻で笑った。

「そうだよ、同じであるわけがない。あんな間抜けな父ちゃんとは、違うんだ」

「なに?」

「だから、父ちゃんは、間抜けだよ。死者を冒涜する気はないけど、そういう以外表現のしようがない」

「本気で言ってるのか?」

「ああ、今でも思い出すよ、父ちゃんが消費者金融の取り立てが来た時、背中を丸めて、謝っていたのを。僕はその情けない背中を見た時、テナーサックスをやめようって思ったんだ。音楽なんて、無力だって、感じたんだよ。実際、その通りだろ」

「父ちゃんは、不器用だが、まっすぐに生きたんだ」

「馬鹿言っちゃいけないよ、兄さん。本当に馬鹿言っちゃいけない」

 雄一はウィスキーの入ったグラスを勢いよくテーブルに置いた。

 僕と亮は、その音で、将棋から顔をあげて、雄一の方をうかがった。

 雄一は、いまにもつかみかからんという勢いで、誠治を睨みつけていた。

 美代子が、つまみを持ってきて、「ほら、やめなさい、雄一」となだめる。「誠治さんも、言い過ぎよ」と付け加える。

 誠治は黙り込んで、ウィスキーを一気に飲むと、僕の方を見た。

「ところで、どうだ健、第一志望には受かりそうなのか?」

「あ、いや、ええと……」

「その顔じゃ、まだまだ勉強が足りないな。お前は将来、一流の弁護士になるんだから、しっかり勉強に打ち込んで、受験を突破しろよ」

「あ、ううん……」

 花江が僕の横に来て、軽く背中を掌で叩いた。

 僕は意を決して言った。

「父さん、僕は将来プロのテナーサックスプレーヤーになりたいんだ」

 一瞬、その場がシーンっと静まり返った。

「だからだ、そういうことになるんだ……」

 とブツブツと何事かを言って、誠治は、口元をグイっとゆがめた。

「馬鹿を言うな。冗談にも、ほどがあるぞ」

 誠治の口元は、キュビスムの奇妙な絵画のように、ゆがんでいる。

「僕は、本気だよ」

 誠治は、一瞬視線を窓の外にそらし、次に僕を見たときは、汚いものを見るような眼をしていた。

「だから、早紀、だからだ……。この家に住まわせたら、そういうことになるんだ」

 と誠治はつぶやく。そして、

「論外だ」

 と冷たく言うと、誠治は席を立ち、そのまま居間を出ていった。

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