青木コルトレーンのジャズ
僕が心変わりをして、音大を受けたいと言い出したのは、翔太と桜子の影響だった。
翔太と桜子は、ライブを見て日以来、親密になってしまった。
どうやら、付き合うとまではいかないまでも、はたから見れば、ほとんどそれに近い状態だった。
やはり翔太なのだ。
いつも、僕の先にいて、いいおもいをするのは。
桜子も桜子だ。
あんなに気のあるようなそぶりを見せたのに、翔太の方へとあっさり鞍替えしてしまうんだから。
僕は夕飯を終えたら、居間にいる花江に相談を持ち掛けた。
「何を言ってるのよ、健ちゃん」
と花江は驚いたように言って、「でも、どうして急に?」と訊いてきた。
僕は本当のことは打ち明けず、
「僕は、音楽で食っていきたい。もう決めたんだ」
と言った。
「厳しい世界よ。相当の覚悟がないと、無理だと思う」
「いや、何があっても、音楽で食ってくんだ」
僕の決意は固かった。
始まりなんて、不純な動機だろ。
やっているうちに、本気になってくる。そういうものだとは、よく言うじゃないか。
花江は、困ったように目をつぶり、軽く薄目を開けると、僕の表情をうかがった。
「しょうがないわね。それなら、私が先生を紹介してあげるわよ。K音楽大学で、教授をやっている人よ。じゃあ、ちょっと待っててね。連絡してみるから」
そう言って花江は掛け時計を一瞬見てから、席を立ち、しばらくすると、戻ってきた。
「彼はいい人だから、すぐ了承してくれたわよ。三日後の午前中は都合がいいっていうから、伺ってみなさい。彼の名は赤川修。別名ソニー赤川。昔、私とおじいちゃんとジャズバンドを組んでた元メンバーよ」
そして、三日後、電車に乗って東京にあるK音大へと足を運んだ。
受付で、アポを取っていると伝えると、受付の女性はにこやかに、ソニー赤川のいるところまで、案内してくれた。
ソニー赤川は僕を見るなり、
「やあ、まるで青木コルトレーンの生き写しじゃないか」
と言ってから豪快に笑った。
ソニー赤川は、口の周りに、立派な白いひげを生やし、黒縁の眼鏡をしていて、頭髪は真っ白だ。何か、映画監督みたいな雰囲気だ。
「じゃあ、早速、聴かせてもらおうか」
とソニー赤川が促してきたので、僕は、テナーサックスを取り出すと、
「ん、年季の入ったサックスだな。まさか、それは青木コルトレーンのテナーサックスじゃないか!」
「はい。僕がもらったんです」
「おもしろい。よし、じゃあ、何でもいいから適当に吹いてみなさい」
僕は有名なジャズのスタンダードナンバーを吹いた。
ソニー赤川は、全く表情を変えず、厳しい目で、僕を査定した。
吹き終えると、ソニー赤川は、軽く拍手をして、
「かなりいい線はいっている。しかし、まだまだ粗削りだな」
そういうとソニー赤川は自身のテナーサックスを持ち出して、吹き始めた。
ソニー赤川の吹くテナーサックスは、僕とは対極だった。
野太くて、豪快。
僕の理詰めの演奏とは違って、直感的で、なおかつどっしりとしている。
僕には、無い要素だ。僕が手に入れたい「重厚さ」があった。
それから、ソニー赤川から、短時間の指導を受けて、それだけで、僕の演奏は劇的に変わった。
「君には柔軟性があるね。頭もいい。それに君には芯のようなものがある。しかし、まだまだ独りよがりなのはいなめないな」
「僕も、青木コルトレーンのようになれますか?」
僕は、愚問をしたことに気がつき「すいません」と言った。
「もし、君がこの大学に来たら、私がみっちりとしごいてやる。覚悟しておくように」
ソニー赤川は、インスタントコーヒーを作り、砂糖は入れず、僕にすすめた。
「青木コルトレーンの淹れるコーヒーを一度くらいは飲みたかったな」
「赤川先生は、祖父と同じジャズバンドにいたんですよね」
「そうだよ。もっとも、青木コルトレーンとは、仲たがいをして、解散後は一度もあってないけどね」
「少し、話を聞かせてくれませんか? 祖父とのことを」
僕がそう言うと、ソニー赤川は一度眼鏡を取って、眼鏡拭きで眼鏡を拭くと、掛け直し、「いいだろう。しかし、よくある話だよ」と語りだした。
ソニー赤川と青木コルトレーン、それにアリスは、音大で出会って、在学中にジャズバンドを結成した。在学中から、バンドは有名になり、卒業後にはすぐプロデビューをした。
しかし、よくある話で、デビューはしたものの、売れることはなかった。三年間活動し、解散までに、一枚のアルバムを出しただけで、メンバーは別の道に進んだ。
ソニー赤川は、音楽業界にとどまり、プロのミュージシャンを続けた。アイドルや歌手の後ろで演奏するのが主な仕事になった。
青木コルトレーンはアリスを故郷に連れて行き、そこでジャズ喫茶を経営した。
ソニー赤川は、今では笑い話になるが、アリスをめぐって、青木コルトレーンと恋のライバルになり、それも、解散の一因だったと言った。
「青木コルトレーンは、不器用だが、芯があった。私は世の中とうまいことやれるタイプだったのだが、青木コルトレーンは根っからの芸術家肌で、きっとアリスはそういう所も含めて、好きになったのかな」
そして、ソニー赤川は、遠い目をして、「今では良い思い出だ」とつぶやき、おもむろに、立ち上がると、レコードの入った棚から、一枚のアルバムを取り出した。
アートワークは前衛的なものだった。
青と赤の絵の具がせめぎ合っているように表現されている。そして、青と赤を背景にして、若かりし頃の祖父とソニー赤川がテナーサックスを構えている姿の絵が真ん中に凛々しく描かれてある。
「すごく、カッコいいアートワークですね。祖父も祖母も、見せてはくれなかった。初めて、見られて感動します」
ソニー赤川が、部屋にあるレコードプレーヤーでそのアルバムをかけた。
個性の強い祖父のテナーサックスが聞こえてくる。僕は自分のテナーサックスを無意識に撫でていた。受け継いだこのテナーサックスが畏れおおく感じ、愛しかった。
「アートワークは有名な画家なんですか?」
「ああ、そうだ。今では高名な画家になっている十和田京子画伯だ」
それを聞いて、僕はドキッとした。
桜子のおばあちゃんとはそういうつながりだったのかと。
そして、僕はソニー赤川と固い握手を交わしK音大を後にして、帰路についた。
別れ際にソニー赤川がこう言った。
「健君、君は、なれるかもしれない。青木コルトレーンみたくね」
僕は、決意があらたまった。
きっと、やってやるさ。
音楽の世界に本当に足を踏み入れるんだ!
と。
しかし、すぐに不安がよぎった。
父親を説得しなくてはならないのだ。
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