桜子とデート

 僕はその日、図書館の勉強室にいて、午前中で、受験勉強を切り上げると、図書館のロビーで桜子と待ち合わせをした。

 桜子は紺のジーンズに白いTシャツというラフないでたちで現れた。髪は下ろしていた。肩から小さめのショルダーバッグを掛けていた。僕を見つけると、嬉しそうに小さく手を振ってきた。僕は手を振り返した。桜子は僕のすぐ横に来ると、

「待った? 健」

 と息を弾ませながら言った。

 僕は首を左右に振った。

 桜子は、微笑んだ。

 まじかで笑顔を見て、僕は戸惑った。

 女性と、二人きりでデートするのは初めてだった。

 それに、年上のこんなきれいな人といれば、なおさら、気分が高揚した。

 桜子は僕の横にピッタリ、はりつくようにいて、僕と歩調すら合いそうだ。

 そのまま、歩き出した。

 エレベーターを使って三階の資料館へ行く。

 係の人が入り口に暇そうに立っていた。

 資料館は無料で、出入りも自由だ。

 係の人が軽く会釈をしてきたので、僕らは、軽く頭を下げ、中に入った。

 資料館にはこの町「清川町」の歴史や風物にまつわるものが、雑然と陳列してあった。

 たしか小学生高学年の頃、学校の社会科見学できて以来だなと僕は思い出した。

 古い資料が多いので、少しかび臭いようなにおいがした。

 桜子は真剣な様子で、資料をながめている。

 僕は途中から飽きてきて、そんな桜子の横顔を、ながめはじめた。

 桜子の瞳は、少し茶色っぽくて、睫毛がくるっと上を向いている。鼻筋がすっと通っていて、唇はあつい。時々、唇を、ンッという感じで軽くすぼめるのが癖のようで、妙に色っぽい。少し顔を前に持ってきて、軽くかがんで、資料に目を凝らし、頭を上げる時に、耳に髪を掛けるしぐさをすると、僕はドキドキしてしまった。耳たぶの赤いピアスが照明にキラッと反射すると、はっとして、視線を逸らした。

 桜子は、一つのコーナーで足を止めた。

 そして、ショルダーバッグから、メモ帳とペンを取り出すと、メモ書きを始めた。

 それは「星を見上げる人」についての資料だった。

 星を見上げる人こと、園田星太郎。

 高名な教育者で、戦後から私塾「星空塾」を経営し、多くの優秀な人物を輩出した。園田星太郎のもとで学ぶ生徒には、学費を払えない貧しい家の子や、戦争孤児が多くいた。園田が有名になったのは、いつも星を見上げていたから。園田は望遠鏡を使って、天体観測をするのが趣味だった。そして、園田は「新しい星」を発見して、一躍有名になった。

 新しい星の名前はこの町の名前にちなんで「キヨカワソノ星」と名付けられた。

 そう言えば、祖父の新太郎が園星先生の話をよくしていた。僕が祖父母たちと同居する前、僕が東京に住んでいた頃、たまに遊びに行った時には必ず。そうまだ、母が元気だったときのことだ。

 園星先生とは、星を見上げる人のことだったのかと、今知った。

 僕の父は、祖父が園星先生の話をすると、本当にうんざりした様子を隠さなかった。園星先生を毛嫌いしていた。父は園星先生が存命中に生まれていないが、よく「偽善者」と言っていた。幼かった僕は、偽善者という言葉の意味が分からなかったが、父が口をゆがめて、そう発音すると、きっと悪い人だったのだろうと信じてしまった。でも、母は、「そんなことないわよ」と返した。僕は、母がそう返す時、本当に不快そうな顔をしていたのを思い出す。

「だって、偽善者だよ。園星先生は資産家の次男で、好き勝手に生きたんだ。きっと、晩年に貧しい人たちを教えていたのも、内面に虚無があったんだ。あるいは、後世に名前を残したかったんだ。それだけのことだよ。銅像になりたかったってだけ」

 と父は言った。

 あれは帰省した時のこと。僕が小学生の低学年だった。星を見上げる人の像がある星の丘公園からの帰り道だ。

 僕を挟んで父と母が会話をしていた。

 母は、父に言い返した。

「そんなことないわよ。園星先生は立派な方だったのよ。あなたのお父さんだって、本当に感謝してるじゃない」

「ふん、だからだよ。ぼくは、父親は園星先生にならっていたから、あんなふうに生きてしまったんだと思ってる」

「どうして、お父さんのことまで悪く言うの?」

「君が何でムキになるんだよ」

「違うわよ。あなたがそんなにお父さんを嫌いな理由がわからないの」

「理由なんてないよ。僕は上昇志向が強い性格なんだ。わかるだろ? あの家の連中とは違うんだよ」

 僕は父を尊敬していた。

 今思えば、父を尊敬していた理由は、父の「社会的地位」が高かったから、それだけのような気がしている。

 こうして横にいる桜子が真剣に「星を見上げる人」を調べているから、そう思うのか。

 母が「わかるだろ?」と父に言われて、悲しそうな眼をしたからか。いや、あれは「軽蔑」の眼だったのだろうと冷静に思い直している。

 でも、僕は、父と同じ道に進もうとしている。

 動機を探ることはなかった。それが、僕にとって当たり前の、最善の選択だと父は決めつけた。だから僕はそれが正しいと信じてきた。

「ねえ」

 と物思いにふけっている僕の肩を桜子がゆすった。

「ああ、ごめん。終わったの?」

「うん、これからどうする?」

 僕はそう訊かれ腕時計を見た。

「駅前で、遊ぶ?」

 と僕が言うと、桜子は頷く。

 それから僕たちは、カラオケへ行ってから、ボーリングをした。

 僕にとって、最高の息抜きになった。

 夕飯は、ファミレスに入った。

 僕と桜子は、向かい合って座った。 

僕は、ハンバーグステーキを注文し、桜子は大きなサラダとスパゲッティを注文した。

 料理が運ばれてくると、しばらく無言で食べ続けた。

 桜子が大きなサラダを食べ終わって、水を一口飲んだ。僕は、あっという間にハンバーグステーキを半分以上たいらげた。添えてあるフライドポテトをかじっていると、桜子が不意に、こう言った。

「ねえ、健は音大へ進むんでしょ?」

 僕は、フライドポテトをのどに詰まらせた。

 コップを急いでとると、一気に水を飲んだ。

 コップを、テーブルに戻し、僕はしげしげと、桜子の顔を覗き込んだ。

 桜子は、クリームスパゲッティをフォークで器用にまいて、口へ運ぶ。

「まさか、行くわけないよ」

 と僕は言う。

「どうして、行かないの?」

 と桜子が驚いたような声で言うので、

「まるで、僕が、音大へ進む以外ないっていう言い方だね」

「そりゃ、そうでしょ。あなたのサックスを聴けば誰だってそう思うわよ」

「ほめてくれて、うれしいけど、僕は、法学部へ行くつもりなんだ」

 桜子はそれを聞いて、水を飲んだ。

 僕の眼は桜子の白い喉にいく。

 桜子が水を一気に飲んで、ポットの取っ手を握って、コップに新しい水を注ぐ。

 僕は注がれる水に視線を移し、

「僕の父親がいけっていうからね」

 と言う。

 桜子は、二杯目の水も一気に飲んだ。

 喉を鳴らす音が聞こえてきそうなほど、勢いよく。

 そして、コップをバンッとテーブルに置く。

 大きな音がして、斜め横に座るカップルがこっちを向いた。

 僕は、何かまずいことを言ったのかと思って、ハンバーグステーキにナイフを入れようとしていたけど、その手を止めた。

「あなたは、法律を学んで、父親に言われた道へ進みたいのね」

 と桜子が言った。

「いや、僕だって、本当は、音楽の道に進みたい」

 僕は、そんなことを口走ってしまったことをすぐに後悔した。

 桜子の形の良い眉毛の間に鋭いしわが寄ったからだ。

「じゃあ、何で、法学部へ行くの?」

「だから、父親がいけって言ったから」

「でも、法律よりも、音楽が好きなんだよね?」

「あたりまえだろ。でも、世の中は厳しいじゃないか。音楽でご飯が食べれる人なんて、きっと少ししかいないよ」

「そうかもしれないけど、あなたが、音楽を本格的に習う前から、そんなことを言うのはおかしいわよ。音楽を本気でやっている人にも失礼だよね」

「……」

「何で黙るの? 説教されているとでも思ってるの?」

「ちがう、ちがうんだよ。桜子の言うとおりだなって思ってるんだよ。僕は法律よりも音楽をやりたい。そんなの決まってるじゃないか!」

 僕は声を荒げていた。

「じゃあ、お父さんとよく相談すればいいじゃない」

「父親は、そんな説得を聴くような人間じゃないんだよ」

「知らないわよ。そんなこと」

「……」

 僕はハンバーグステーキにナイフを入れて、フォークを差し、口へ運んだ。

 それから、ハンバーグの味がほとんどおいしいと感じなくなった。

 その時、僕のスマホが着信を知らせた。

 メッセージを見ると、翔太からだった。

 桜子と一緒に、来週の日曜日、ライブへ来てくれという旨が書かれてあった。

 僕は翔太のメッセージを、救いの神のように感じつつ、

「話は変わるけど、来週、翔太のライブを一緒に見に行かない?」

 桜子は、ぴくっと眉を上げて、僕は断られると思っていたが、

「いいわよ。前に行くって言っちゃったし」

 とそっけなく言って、それからは会話もなく、食事を終えると、そのままファミレスで別れた。

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