スターダストドリーマー
リバーサイドブルーは、文字通り土手の近くにあるということと、僕ら家族の苗字の一部ということ、それに昔のジャズレーベルをごったに合わせて名付けられた店名だ。あと肝心なことだが、祖父が憧れていた偉大なるジョン・コルトレーンのアルバム「ブルー・トレイン」に由来することも言っておく。
僕の父親の兄すなわち叔父が経営している。それで僕はこの店のステージに土曜の午後、いつも立っている。
僕の父親と叔父は仲が悪い。僕の父親は、いまアメリカの方で弁護士をやっていて、日本にはあまり帰って来ない。叔父は、僕の父親と違って、いい加減だった。子供のころから、僕の父親と叔父は、おやつの取り合いとか、おもちゃの取り合いとか、楽器の取り合いとか、ことあるごとに喧嘩してきたらしい。叔父は僕の父親に一度も喧嘩で負けたことはないと言っていた。しかし、成人を迎えて、僕の父親が、アメリカへ留学し、しばらく後に、国際弁護士の免許を取得したあたりから、負けっぱなしだという。収入とか、社会的地位とかのことを言っているのだけど、僕の父親に今でも負けないことと言えば、ジャズのレコードの枚数と、自由に使える時間だと胸を張って言う。
僕はそんな叔父が嫌いではない。
三年前に叔父は、祖父が他界したので祖父の経営していたジャズ喫茶を受け継いだのだ。
僕はアメリカへは行かず、日本のこの町で、祖父母夫婦、それに叔父家族に囲まれて育った。
ちなみに僕の母親は、僕が小学生高学年の頃に亡くなっている。
それで、いまアマチュアジャズバンド、「青木家族カルテット」の演奏が始まろうとしていた。
ピアノは、祖母の青木花江、七十歳。いつも、エプロン姿でピアノを弾く。一階の青木洋菓子店の店主だ。音大出身で、ピアノの腕は長けている。若いころは、アリスというあだ名だった。もちろん、偉大なるジャズ・テナー奏者ジョン・コルトレーンの奥さんでピアニストのアリス・コルトレーンに由来してだろう。ドラムは僕のいとこの青木亮、僕の二つ下で高一。最近はロックバンドを組んで、カルテットの参加には消極的な発言をするが、お小遣い欲しさに渋々参加している。ベースは叔父の青木雄一。タキシードをビシッと着て、後ろで長い髪を一本に結いている。雄一は基本的に楽器は何でもできる。そして僕が花形のテナーサックスだ。
今日はお客さんがほぼ満員。
ステージ上から、客席を見る。
翔太の奴が、もぐもぐと青木洋菓子店名物のマイルスチョコレートケーキをかじりながら、僕と目が合うと、手を振ってきた。翔太は、マイルスチョコレートケーキの特徴であるトランペット型の板チョコをカリっとかじった。翔太は、今日に限らず、頻繁にリバーサイド・ブルーにやってきては、僕ら青木家と交流している。
さらに客席を探す。
すると、入り口のドアが開き、桜子が姿を見せた。桜子は、きょろきょろと店内を見回して、僕らの方を向いた。そしてピースサインをしてきた。僕はうれしくなって頷く。
MCが始まる。
MCをするのは、叔母の青木美代子、三十九歳。とにかく、美代子のMCは面白い。内容は特に普通だけど、声がアニメのキャラみたいで、個性的なのだ。いつも、店にいるときは、黒いサテンのドレスを着ている。美代子は言われなければ二十代後半に見えるほど、見た目が若い。それに昔、声優を志した時代もあったと口癖みたく言う。
客は近所の知り合いがほとんどだった。老若男女いる。皆仲間だ。だから、桜子は目立った。それに桜子は、とびっきりかわいいから、さらに注目を浴びた。それを美代子がいじった。
「今日は、どこかの遠い場所からやってきた可憐な女の子がステージを見に来てくれました。楽しんでいってね、君、名前は? そうね、下の名前」
「桜子です!」
美代子の振りにも全く物おじせず、桜子は、大きな声で返事した。
「桜子ちゃん、いい返事ね。今日、君には、ジャズの魔法がかかるわ。もしかしたら、人生が、変わってしまうような初体験になるかもよ。それほど衝撃的だから」
「初体験ね! たのしみ!」
と桜子が、照れたように、両手で頬を包んだ。
「奪われる覚悟はできてる? 世界の向こうに行く覚悟は? もし、躊躇うのなら、今すぐ引き返して、店を出るという選択肢もあるわ」
「奪って下さい! 世界の向こう側まで行きたい」
客の一部が、いいぞという感じで指笛で冷やかすと、
「ノリのいい子ね! さあ、じゃあ、行こうかしら!」
そう美代子が言うと、客席から、一斉に拍手と歓声が巻き起こる。
演奏は三曲やった。
どれもジャズのスタンダードナンバーで、僕には耳慣れた曲。
演奏は毎回やるごとに、全く違うものになる。
僕のアドリブは、数理的とよく言われる。隙間なく音で埋めていく。聴く方は、はじめのうちは多少緊張を強いられるが、慣れてくると心地よくなって、終わりのころには目を細めて肩を横に揺らす。
僕はこの日も乗ってくるとガンガン吹きまくった。
早打ちのガンマンのようにホーンから音が撃たれ、頭の中は禅僧のように無心。混沌としたステップを踏んで、踊るように、激しく音がうねる。僕は、ひきつける。目まぐるしく速くなってきて、不協和音一歩手前にまで到達した。そろそろ光が見えてくる。大気圏に突入した高速の彗星にでも乗るイメージ。ある重さを持った一定の秩序から脱して、自由。スピリチュアル。もう、誰もいかなるものも気にしない。僕は、大きな宇宙みたいなものとつながった。いつも、ここまで来ると、先が見えなくなる。真空で一人ぼっちになったみたいだ。
最後は、ボンッというような爆発。
ビッグバンを起こして、思わず心臓がはじけ飛ぶように。
もちろん、頭の中のイメージでだけど、僕は一曲ごとに絶命するんだ。
まるで、大いなるものに捧げられた供物みたいに。
そして一曲終われば、どこをどう吹いていたのか思い出せない。
ただ、客の拍手喝さいを受けて、心から嬉しくなって、にやりとする。
僕のテナーサックスは祖父譲りだ。プロのサックスプレーヤーだった祖父は、スピリチュアルジャズに行く前の、ジョン・コルトレーンと似ている吹き方をした。僕は、小学五年の頃からテナーサックスを始めた。母親が病気で死んで、そんな現実から逃れるように始めたテナーサックスだ。こうやってステージに立っているときが、月並みな言い方だけど、最高に幸せだ。
テナーサックスに息を吹き込み、乾いた音が店内に響き渡って、全身で音に浸って、まるで夢の中にいるような感覚になり、気持ちよくなって、鳥肌が立ちっぱなしだ。
アンコールを受けた。
僕は、この日、生まれて初めて、オリジナルの曲をやった。
「スターダスト・ドリーマー」
と僕は曲名を告げる。
情熱的なバラードだ。
リズム隊が控えめに後ろで演奏しつつ、僕は酔いしれるように、吹きまくる。
額から汗が噴き出て、頬を伝い、床に落ちる。
途中から、桜子の目を見た。
そして、彼女を口説いているような音を出した。
大胆に、いざなうように。
しかし僕は、彼女を見ていなかったのかもしれない。
ただ、象徴的に、彼女に音を捧げていた。
まるで、宗教のように。
祈り、歌い、法悦し、解脱する。
僕は感情をこめすぎて、吹きながら、涙が込み上げてくる。
それが泣いているように、音をこまかく震わせた。
一瞬、ステージの空気が変化したように感じた。
むせかえるような花の香りがしてくるような。
甘く、メロディに酔いしれて、終わりの方で一気に吹き降ろす。
一瞬、天井の方までテナーサックスを持ち上げて、長く長く、まっすぐに音を伸ばす。
息が続くだけ、命を込めるように吹ききったら、静かに曲が終わった。
大きな喝采を受けて、この日のステージが終わる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます