第2話 リンとどこからか鈴の音が聞こえた。
自室としてあてがわれた最初に目を覚ました部屋で、畳の上に
まず初めに僕は記憶喪失である。
といっても、名前等のパーソナルな記憶や日常生活を送る上での知識的な記憶はあるし、幼少期から今日までの一般的に覚えていられるだろう範囲の記憶も普通に存在している。ないと明らかに分かっているのは、この村に関する記憶とこの村に来た経緯、そしてこの村までどうやって来たのか。そう考えると、失った記憶は全てこの村に関係するものばかり。やはり、この村に何かがあるのか。
次にこの村について分かった事。
この村は田舎だ。僕の住んでいた所が都会とは到底思えないが、少なくともここと比べたら十分都会だ。テレビはなく、電灯もない。ビルなんてものがあるはずもなく、至る所に田畑が点在している。お店はコンビニやスーパーといった
他に分かった事といえば、村全体は木々に囲まれており、外に繋がる道はあの一本しかないという事だ。しかもその先は、昨夜降った大雨の影響で、通る事はおろか近付く事すら出来ないらしい。つまり、僕はこの村に――
「閉じ込められた……」
口に出し、改めて認識する。この村の異質さを。
村人は皆一様に優しくていい人ばかりだが、どこか嘘くささというか、偽物くさいものを感じる。最初は気のせいだと思おうとも考えたが、村の出入り口付近で会ったあの男性、あれは明らかにあの近辺を見張っていた。もっと言えば、村から出ようとする人間を見張っていた。
そう考えると、一刻も早くこの村を出たいが……。
廊下の軋む音が聞こえ、誰かが近付いてくる。
程なくして姿を現したのは、パジャマ姿の紅羽さんだった。
女性のこういう姿は普通に生活しているだけでは見られないため、なんだか特別感があっていい。後、パジャマ姿も普通に可愛い。
「着替え、持ってきました。父のお古で申し訳ないですが」
「いえ、ありがとうございます」
立ち上がり、こちらに近寄ってきた紅羽さんから
「村の中、散策してみてどうでした?」
「あー。そうですね。……いい所ですよね。緑は多いし、のどかだし、空気は美味しいし、いい人ばかりだし」
「素直に言ってもらっていいんですよ。何もないって」
「いえ、そんな事……」
全く思わなかったと言うと嘘になるが、村の雰囲気自体は嫌いじゃない。ずっと暮らしていたらまた違う感想を抱くのだろうけど、真新しさも手伝って少なくとも数日・数週間過ごす程度ならいい所だろう。まぁそれも、普通に旅行で来ていたらという話だが。
「橋はどうです? 直りそうですか?」
「ごめんなさい。まだ橋まで辿り着けていないようで、何せそこまでの道が色々な物で
「手伝いましょうか?」
それで作業が早く進むなら、こちらとしても助かるわけだし。
「いえ、こういうのは経験がない人がやると危ないので……。それより、もう少ししたらお祭りがあるんです」
「お祭り、ですか?」
「えぇ。私も神社の境内で演舞をするんです。良かったら見に来てくださいね」
「へー。それは……」
神社で演舞といえば、やはり
「必ず見にいきます」
「はい。
紅羽さんと話をしていると、心が穏やかになるから不思議だ。彼女の人柄のなせる技なのか、あるいは……。
それから三日が過ぎた。
橋の修復の
いつになったらこの村から出られるのか。そもそもこの村から出る事は可能なのか。
……正直に言おう。出られなくてもいいのではないかと僕は思い始めていた。
この村は居心地がいい。衣食住は確保出来、村人は皆一様にいい人ばかり、村の雰囲気も田舎的でとてもいい。
衣食住?
なぜかそこに疑問を覚えた。
僕のこの村に来て一度でも食事を取ったか? 僕はこの村に来て一度でもお風呂に入ったか? 僕はこの村に来て一度でも睡眠を取ったか?
何より恐ろしいのは、その事を今の今まで全く疑問に思わなかった事だ。
慌てて神社を後にする。
「蒼太さん、お出掛けですか?」
境内に出ると、
その格好は、仕事中という事で巫女服だった。
この姿を見るのももう何度目かだが、普段日常生活ではなかなかお目に掛からない格好という事もあり、まだ慣れない。
決して露出が高い服装ではないのに、ドキマギしてしまうのは何故だろう?
――と、そんな場合ではなかった。
「あ、はい。ちょっとそこまで……」
一分一秒でも早くこの場を後にしたかった。けど、不信感を与えてはいけない。この村に味方は一人もいないのかもしれない。ならば、勘付かれてはいけない。僕が気付いた事に。逃げようとしている事に。
紅羽さんが次の言葉を発すまでの時間が、十分にも一時間にも思えた。それは僕の明らかな思い違いなのだが、本当にそう思えた。
「気を付けてくださいね。森には熊も出ますので」
熊。本当に?
紅羽さんの言葉を全くもって信じられていない自分に、嫌気を覚える。
こんなに良くしてくれたのに。こんなに優しく美しい人なのに。
「……はい。行ってきます」
ふり絞るようにそう言い、僕は神社に背を向けた。
決して早足にならないように。
その間も何人もの人に声を掛けられた。
もちろん、全ての人にいつものように返事をした。
誰にも気取られてはいけない。
勘付かれたらどうなるのか? 僕はどうなってしまうのか?
想像するだけで体が震える思いだった。
心臓の音がやけにうるさい。周りに聞こえてしまうのではないかと思う程に。
それでもなんとか、村の出入り口が見える所までやってくる。
後数百メートルも行けば、ここを出られる。
走りたい気持ちだった。だけど、その気持ちを必死に抑える。
一歩二歩。歩く度にゴールが近付く。もう少し、後少し。走れば一分程の道を、ゆっくりと確実に進んでいく。
「おい」
背後から声が飛んできた。低い、男性の声だ。
振り返るとそこには、猟銃を持った中年の男性が。数日前にこの場所で会ったのと同じ人物だった。
「そこから先は危険だと言ったはずだぞ」
男性の表情は険しいまま、今回はそれが崩れる事はなかった。
おそらくこの人は、村から出ようとする者を止める役なのだろう。
役。初日にも思った違和感。ここには、本当の意味での人間は一人もいないのかもしれない。皆が自分に与えられた役を演じる人形、あるいはプログラムのような存在。一番人間らしく感じられた彼女もきっと……。
「その銃で僕を撃ちますか?」
「何?」
「それもあなたに与えられた役の内なんですか?」
「お前は何を言って……」
「あ、熊」
「――!」
男性が猟銃を構え、背後を振り返る。
僕はその
生身で猟銃を持った人間に勝てるはずがない。だったら、立ち向かうよりこうした方がまだ可能性がある。撃たれたらその時はその時。ここで
その決心とは裏腹に、銃声はいつまで
彼に、そこまでの役割は求められていなかったらしい。
走る。走る。走る。
よし。ここまで来れば――
「痛っ」
何かにぶつかる。透明な壁? これじゃまるで、ゲームの表示限界。これ以上先は存在しない、作られていないような……。
リンっとどこからか鈴の音が聞こえてきた。場所は分からない。後ろのような、前のような、左のような、右のような、上のような、下のような。あるいはその全部のような。
「あれ?」
急に意識が――
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