紫の朱を奪う

 温くなった缶コーラのへばりつくような甘さが喉を通る。ちょうどそれを飲み干す頃に、蝉の声に紛れて聞こえていた鈍い打撃音が消えた。

「……あんまり遅いから、飲み終わっちまった」

 路地裏から出てきた染谷天音に空き缶を投げつけるが、天音は事も無げにそれをキャッチしてゴミ箱に放り込む。

「ごめんね、葉月。新しいの買うよ。何がいい?」

 天音は口調は穏やかだが、ハンカチでローファーに着いた血を拭う姿は全く穏やかじゃない。

「いらない。ていうか最近は無かったな。こういうの」

 話しつつ天音が出てきた路地裏の方を覗き込むと、数滴の血が道の向こうに続いていた。どうやら自力で逃げられたらしい。

「うーん、中学の頃の友達の仕返しだっていうのがほとんどだったから、多分その辺の人が大体終わったんだと思うよ」

「……袖、返り血付いてるぞ」

 ワイシャツの袖を引っ張って指摘すると、天音はしまったという顔をしてカバンからカーディガンを取りだした。

「ほんとだ。また七瀬さんに怒られちゃうな……」

 ふと気になり天音の制服のスカートをめくると、天音は顔を赤くして後ずさった。その反応とさっきまで天音がしていたことのギャップがありすぎて軽く引いてしまう。

「な、なに!?」

「いや、蹴りでケンカしてたら見えてんじゃないかと思って」

 天音に絡んでくるのは男がほとんどなので、その対策はしてるかと思ったが特にそういうことはしていないらしい。

「考えたことも無かった。けど二度と関わりたくないと思わせるようにしてるから、あいつらがパンツ見るのトラウマになってたら面白いかも」

「確かに。下着売り場の前で震えてる奴がいたらそういうことだな」

 想像するとおかしくて、二人揃って吹き出してしまう。

 高校二年生の夏。私たちは無性に楽しくて仕方がなかった。

――――――

「あ、二人ともやっと来た」

 子どもたちに勉強を教えていた宮下桜綾が、薄い茶色の髪の向こうから大きな瞳で私を見た。

「悪い、天音が……」

 言いかけたところで後ろから天音に口を塞がれた。さっきまで七瀬さんに怒られていたのに、素早い奴だ。

 ここは天音とその妹の風花が育った施設で、七瀬さんは施設の責任者であり、皆の母親のような立場の人だ。

「わ、私がちょっと先生に聞きたいことがあって……ね! 葉月?」

「ああ、そうだな。下着で怖がられない方法を聞きたくてな」

「……? 天音、どういうこと?」

「ちょっと葉月……! さ、桜綾、違うよ。なんでもない」

 慌てる天音を笑っていると、まだ顔をしかめている七瀬さんが見えた。

「大丈夫ですよ。天音からケンカ売ったりはしてないですし。ただ……」

 こっそりと先程の下着の件を耳打ちすると、七瀬さんの目が丸くなった。

「全くあの子は……。何か下に履くものあったかな」

 ブツブツ言いながら七瀬さんは小走りで行ってしまった。

 天音が十三歳の頃、風花が生まれその後すぐ両親は事故で亡くなった。幼い天音はその現実を受け入れられずかなり荒れていたらしく、誰彼構わずケンカを売っていたらしい。しかし中学で桜綾に出会い、色々あってケンカはやめた……が、未だに当時の因縁で絡まれることがあり、その露払いはしている。それは桜綾には内緒で。

 桜綾は生まれたときから両親が居らず、別の施設で暮らしていた。そこの施設は桜綾が高校に上がるタイミングで無くなってしまい、桜綾は今一人暮らしだ。その生活費などを稼ぐため、桜綾はたまにこうして子どもたちに勉強を教えている。

「天音、カーディガン着てて暑くないの?」

「う、うん。暑いから着替えてくる」

 私、永野葉月は小さい頃に母親を亡くし、父の元で育った。というより、お手伝いの金田さんの元で育った。あの父親から学んだことは何も無い。強いて言えば、家庭を顧みず仕事ばかりするとこんな反抗的な子どもが育つということだろうか。

 こんなひねくれた性格の私が何故、桜綾のような純粋な人間と仲良くなったのかというと、桜綾にしつこく絡まれたからだ。そう言うと聞こえが悪いが、実際しつこかった。私は高校で友達を作る気は無かったのに桜綾の押しに負けたのだから。

「葉月は宿題やらないの?」

「学校に置きっぱなしだ」

「また? もう……二年生になってからはちゃんと学校来るようになったのに、宿題は全然やらないね」

 学校に行くようになったのは、桜綾がいるからだ。宿題をやったって桜綾には近づけない。そんなこと、言えるはずもないが。

「おねえちゃん、まだー?」

 黙々と宿題を進めて遊んでくれない天音に風花が痺れを切らしてきた。

「もうちょっとだから、待っててね」

「お姉ちゃんまだー?」

 私もふざけて天音の脇をつつくと冷めた目が帰ってきた。

「怖。風花、あっちで私と遊んでよう」

 風花としばらく遊んでいると、桜綾が時計を気にしながらそわそわし始めた。もうそんな時間かと、少し憂鬱になってしまう。

 私の携帯が鳴り、メールの知らせが届く。黙っていればまだここに居ることもできるが、そうはしない。

「じゃあ、帰るか」

 私がそう言うと、桜綾はバッと立ち上がり手鏡で身なりを整えた。天音と風花にあいさつをして施設を出ると、外で自転車に乗った雪翔が待っていた。

「桜綾、葉月。お待たせ」

「別に待ってねえよ」

「雪翔さん、大学お疲れ様です」

 雪翔が桜綾からカバンを預かり自転車の荷台に乗せ、二人は並んで歩く。私はそこから少し離れてついていった。

 雪翔が大学に入るタイミングで、二人は付き合い始めた。高一の頃、桜綾は私にしつこく付きまとっていたので必然的に雪翔と会うことも多く、勉強が好きな桜綾が頭の良い雪翔に教えを乞うのも当たり前だった。

 雪翔は昔からモテてた、と思う。クラスの女子から雪翔の事を聞かれることは多かったし、直接聞いたことは無いが雪翔が告白されたという噂も何度か聞いた。けれど誰か特定の人間と付き合ったりはしていなかった。なのに桜綾を選んだのはやはり血は争えないというやつなのだろうか。

 桜綾と出会ったのは私のほうが先だ。桜綾は私と仲良くなろうとしてくれた。私のことを見捨てないでいてくれた。永野家の娘としてじゃなく、一人の永野葉月として見てくれた。

 もし私が、男だったら……

「葉月、なんでそんな離れて歩いてるの?」

 桜綾の声が聞こえ、意識が引き戻される。

「いや、邪魔しちゃ悪いかと思って」

 心にも無いことをスラスラと喋る自分が嫌になる。本当は、邪魔してやりたい。

「私は葉月とも喋りたいよ」

 そう言って桜綾は私の手を握ってくる。この距離に置いてくれるのは、私だからだ。けど、私と雪翔じゃ意味が全く違う。

「じゃあ、先行くか」

「わ、葉月!?」

 桜綾の手を握り返し、走る。追い抜きざまに雪翔に舌を出して、更に走る。

 このまま、どこかに逃げられたらいいのに。

――――――

「ごめん、葉月。お待たせ」

 桜綾に用事があるからと言われ大学の中庭で待っていると、小走りで桜綾がやってきた。

「大丈夫。というか、今日はサークル休みだよな?」

「そうなんだけど、脚本のことで相談したいって言われて」

 桜綾は大学で演劇のサークルに入った。高校では子どもたちに勉強を教える時間を削りたくないからと部活には所属せず、大学でもそのつもりだったみたいだが人数が少ない中で頑張っている先輩の姿を見て放っておけなくなったらしい。

「あんまり無理して、体調崩すなよ」

「大丈夫だよ。もうここ数年は倒れたりしてないもん」

 大学は桜綾と同じところを選んだ。父は私の学力を見限ったのか雪翔と同じ大学に行けとは言ってこなかったのが助かった。

 天音は医者になるため医大に入った。現役で合格したのは凄いと思うが、やはりついて行くのに苦労しているらしく、たまに会うと魂の抜けた顔をしている。

 施設に着くと、風花が隅の方で丸くなっていた。いつもは私たちが来ると嬉しそうに駆け寄ってくるのに。

「風花、どうかしたんですか?」

 不思議に思い、七瀬さんに聞いてみた。

「風花ちゃん、来年から小学校でしょ? それでランドセルがお下がりなのが嫌みたいで……」

 部屋の奥を見ると、風花がいじけた様子で何か絵を描いているのが見えた。何と声をかけたものかと考えていると、桜綾のほうが先に風花のもとに向かっていた。

「風花ちゃん、何書いてるの?」

「……しょうがくせいの、わたし」

 見ると、風花はランドセルを背負った自分の絵を描いていた。

「お姉ちゃんのランドセル使うのは、嫌?」

 桜綾の質問に、風花は顔を伏せてしまった。それを見て桜綾は少し困ったような笑顔を浮かべ、風花の頭を撫でた。

 違うんだよな。同情なんかしてほしいわけじゃない。

「……選択肢が無いのが、嫌なんだよな」

 私が近づいてそう言うと、風花も桜綾も驚いた様子で私を見上げた。

「初めからそれ一択で、大人たちが勝手に話を進めてることにムカつくんだよな。わかるよ」

 風花に伝わってるかはわからなかったが、これ以外に言葉が見つからなかった。

「おねえちゃん……」

 風花が私の後ろを見てそう言ったので振り向くと、天音が帰ってきていた。どこから話を聞いていたのか、呆然と立っている。

「ごめん、風花……。ちゃんと話、聞いてあげられなくて」

「わたしも、ごめんなさい。おねえちゃんのランドセルがいやなんじゃないの」

 これで解決、としてもいいんだろうが、私は先程少し細工しておいたランドセルを風花に渡した。

「はづきちゃん、これ……」

 ランドセルには花の刺繍を入れた。簡素でそこまで手の込んだものでも無いが、風花は気に入ってくれたようだ。

「もし付けてほしいのがあったら言ってくれ。いつでもやってやるから」

「……ありがとう!はづきちゃん!」

 風花の頭を撫でてやると嬉しそうに笑っていたが、私はこんなことしかしてやれない自分に不甲斐なさを感じていた。

――――――

「……葉月も、選べなかったことがあるの?」

 帰り道、ふと沈黙が流れた後に桜綾が少し俯きながら私に尋ねた。先程風花に話したことが気になったのだろうが、私が答えに迷っていると桜綾は慌てて言葉を付け足した。

「いや、その……葉月に、無理して付き合わせちゃってたりするのかな、とか思ったりして……」

「私が? 何を?」

「大学の、こと……。高三のときに私、入院したでしょ。そのとき葉月が、私のこと、近くで見てるからって言ってくれて……」

 桜綾の話しながら少しずつ潤んでいく目を見て、私はぼんやりと綺麗だな、などと思っていた。

「大学、ほんとは別のとこが良かったのに無理して私と同じとこにしたのかな、って思って……」

 突然、桜綾の少し茶色がかった髪が鼻先をくすぐった。いや、私が桜綾に飛び付いていた。

「違う。私は本心で、本気で、一生、桜綾の隣にいたかった」

 勢い任せに喋ってしまって、後から脳みそが追いついて焦って桜綾から離れる。

「ま、まあとにかく私は無理してるとかじゃないから……」

 桜綾は私の言葉に小さく「ありがとう」とだけ返して会話は終わった。顔が見れなくて桜綾がどういう感情だったのか読み取れなかったが、どうか上手く誤魔化せていてくれと願うしかない。

 それから少し無言の時間が続いた後、桜綾がぽつりと話しはじめた。

「……私はね、自分の身体のことで色んなこと我慢してた」

 さっきの話の続きだろうか、私が返答に迷っているうちに桜綾はまた話しだす。辺りはいつの間にか街灯の灯りだけになっていて、桜綾の表情は読み取れない。

「小学生の頃はほとんど入院してて、寂しかったけど看護師さんたちに迷惑かけたくないから元気なふりしてた。中学生になったら少し学校に行けるようになったけど……ちょっと走るだけで息切れしちゃって、それで友達と思いっきり遊べないのが嫌だった」

 私は高校生になってからの桜綾しか知らないが、天音から聞いた話だと桜綾は生まれつき身体が悪く、何度も入院していたらしい。高三の頃に桜綾が入院したときに天音が話してくれた。

「けど、本当に嫌だったのは……周りの人たちが『可哀想な子』っていう目で見てくること。その目で見られる度に、私は恵まれてないんだって思い知らされてるみたいで、辛かった」

「桜綾……」

 辛そうに話す桜綾の顔を見てられなくて、私は無意識に名前を呼んでいた。そんな私の様子を見てか、桜綾は慌てて笑顔を作る。

「ごめんね、話しすぎちゃった。今は全然そんなこと思ってないよ。逆の立場だったら私も同じ扱いしちゃうし。風花ちゃんみたいに」

「……桜綾の考え方も分かるし、悪いことじゃない」

 私も、家のことで散々色眼鏡で見られてきた。それに反抗して道を選んだこともある。

「高校、本当は雪翔と同じところは嫌だったんだ。私は雪翔みたいに出来が良いわけじゃないから。そんな無理やり行かされた学校に通うのが嫌で、私は逃げようとした。……今思えば、そんなことしても意味なかったけど。それでも、後悔はしてない」

 私が墓場まで持って行くつもりだった話の端が零れる。天音にも、もちろん雪翔にだって話したことはない。

「逃げ続けた先で、桜綾に会えたから。私は後悔してないし、これで良かったと思ってる」

 これ以上話すとボロが出そうで、私は桜綾を置いて歩き出した。

 すぐに後ろから桜綾が追いついてきて、私に体当たりしながら手を握ってきた。

「ふふ。私も葉月に会えて良かった」

 私は無自覚に握られた手のひらから、気持ちが伝わらないようにするので精一杯だった。

「私ね、夢があるの」

「夢?」

「まあ、夢っていうか、理想っていうか……。居場所を作りたいと思ってて」

「居場所、か」

 言葉の意図が見えずオウム返しばかりになってしまっていた。桜綾も話すつもりが無かった話をしているようで言葉を探しながら続けた。

「私とか、風花ちゃんとか……他にも色んな事情で居場所が無い人っていると思うの。そんな人たちが集まれる場所があればなって、思うの」

「……民泊みたいな?」

「いや、そんな具体的には考えてないよ。ごめんね。ずっとぼんやり考えてたことだから……。本当はそういう人みんなを助けたいけど、それは無理だから、手の届く範囲で」

 このときはまだ、私は桜綾の言っていることをあまり理解していなかった。

――――――

「あ、葉月さん。おかえりなさい」

 インターホンを押すと、当たり前のように風花がドアを開けた。

 リビングに行くとソファで天音が赤ん坊を抱いてうとうとしている。

「ほらお姉ちゃん、ご飯できたから桜来ちゃん連れてきて」

「んん、ああ……」

 テーブルの上には風花が作ったハンバーグとサラダに白ご飯、そして離乳食も用意してある。

「風花、かなり料理できるようになったな」

「えへへ。ありがとうございます」

「これ、桜綾の分だろ? 持ってくよ」

「はい。お願いします」

 料理が乗せられたトレーを持ち、寝室に入る。中では桜綾がベッドに座り本を読んでいた。

「起きてたのか」

「うん。そっち行きたかったんだけど……あんまり動くと風花ちゃんに心配させちゃうから」

 ここは桜綾と雪翔の家。なのだが、桜綾の出産を終えてからの体調が良くないので私たちが半ば住み込みで面倒を見ている。

「風花ちゃんの料理、どんどん上手になってる。いいお嫁さんになるね」

「あいつは姉のせいもあって面倒見が良すぎるからな……。ダメ男に捕まらないといいが」

 他愛のない話をしているようで、私は桜綾の容態が気になっていた。ご飯を食べる手もさっきからあまり進んでいない。

「雪翔には、会えてるのか?」

「一昨日、かな。明け方に少し……。出勤するところだったから挨拶しただけ」

 俯いた桜綾の顔から、更に生気が抜けた雰囲気がした。が、すぐ慌てて笑顔を作る。

「全然、寂しくないよ。皆がいてくれるし……」

 桜綾の強がる癖は一向に治らない。人の弱さには寛容なのに、自分の弱さは見せたがらない。けど、そういうところが、私は……

「……な、なに?」

 無言で桜綾の頭を撫でると、桜綾は複雑そうな顔をした。

「いや、別に」

「もう……。葉月、ちょっとこっち来て」

 桜綾は椅子に座っていた私を手招きして、ベッドに座らせた。そして一瞬目が合ったと思うと同時に、私の脇に手を入れ抱きついてきた。

「……どうした?」

「いーや、別に?」

 悪戯っぽく笑う桜綾に釣られて笑い、私も桜綾の背中に手を回す。背中を軽く叩くと、桜綾が小さく呟いた。

「……ありがとう、葉月」


 桜綾が寝たのを見届け、リビングに戻ると天音がパソコンで何か作業をしていた。天音は大学を卒業した後に産婦人科の研修をしており、桜綾の出産にも立ち会った。

「……桜綾の容態は、どうなんだ」

 天音は何か言おうと口を少し開いたが、迷うような素振りの後に目を逸らしてパソコンを閉じた。

「葉月には言わないでって、言われてる」

「は? 誰から?」

「桜綾から。雪翔さんにもおじさんにも黙っててって」

 私だけじゃなく、雪翔も父も桜綾の容態を知らせてない? だとしたら今の桜綾の健康状態を知ってる家族は、誰もいないじゃないか。

「何で……」

「私だって、分かんないよ……」

 天音の苦しそうな表情を見て、ある程度は察してしまった。天音に当たっても仕方がない。私は唇を噛み締め、桜綾の家を出た。

 帰り道を歩きながら雪翔に電話をかける。もう終電も近い時間なのに帰ってきていなかったからだ。

 しばらくコール音が鳴り続け、出なさそうだなと思っていると声が聞こえた。

「……葉月か」

 電話の向こうから聞こえた声は雪翔のものではなく、父の声だった。

「雪翔は?」

 苛立ちを声色に隠さず尋ねると、父は相変わらず抑揚のない声で答えた。

「あいつならさっき急ぎの案件で会社に向かった。それで携帯は忘れていったようだ」

 話を聞きながら更に怒りが湧いてきてしまう。この時間に会社に行ったのならもう帰ってこられないだろうし、そもそも携帯を忘れたということは仕事の後に実家に寄っていたということだ。

「……何で、まっすぐ帰らせないんだよ」

「今は会社にとって大事な時期だ。あいつの頑張り次第で、この会社は更に成長する」

「家族のことだって大事な時期だろうが!」

 耐えきれず声を荒らげてしまい、そのまま感情が零れてしまう。

「そうか。あんたは家族より仕事のほうが大事なんだもんな。だから母さんのことも……」

「違う。私はお前たちのためを思って……」

「うるさい。もう、いいよ」

 こいつと話しても埒が明かない。父はまだ何か言っていたが無視して電話を切った。

 このままじゃ良くない結果を招くことになる。しかし、原因を探っていくのは怖くてただ前に進むことしか出来なかった。

――――――

「葉月……! 桜綾は、どこにいる?」

 久しぶりに見た雪翔の顔はやつれて目の下のクマも酷かった。それでも髪や髭の手入れだけはされているのは雪翔らしいなと思った。

「……………………」

 私が無言で桜綾の骨壷を指し示すと、雪翔はふらふらとそれに歩み寄り呻き声を上げて泣いた。

 私にはもう、何の感情も残っていなかった。

 結局私は何も出来ないまま、桜綾はこの世を去った。天音も泣きながら私に謝罪をしていたが、何と言えばいいか分からなかった。

 帰りの車の中で雪翔が何か言っていた気がするが、あまり覚えていない。

 数日後、仕事終わりに携帯を見ると父からメールが来ていた。

『最近、雪翔が仕事を増やしている。桜綾さんのこともあるから、休めと言っているのだが聞く耳を持たない。葉月からも休むように伝えてほしい』

「……今更、どうしようもないだろ」

 私がどんな顔して雪翔に会えばいいんだ。桜来の面倒も、ずっと天音たちに任せている。

――――――

 父は雪翔の死因は過労死だと言っていたが、雪翔の同僚たちが自殺だと言ってきた。それを話す雪翔の同僚たちの顔は一見心配してるように見えるが、その奥には家族内のゴシップを聞き出そうという好奇心が光っていた。

 家に帰りポストを見ると、一通の手紙が入っていた。雪翔からの、遺書だった。

『まずは、こんなことになって本当にごめん。結局、俺は何も出来なかった。だから葉月と桜来は、もう何も背負わないで自由に生きてくれ。桜来の姓は宮下にしてあるからもう永野の家とは関係なく生きていけるはずだ。絶対に、生きててくれ』

 封筒には遺書とは別にどこかの土地の権利書も入っていた。どんな手を使ったのか、私の名前で。

 桜綾からも雪翔からも、桜来のことを任せると言われた。けど、それは私には出来ない。父の会社が大きくなってきた現在、後継者の最有力候補だった雪翔がいなくなった。すると今度は私に社内の権力者たちの目が向く。いくら桜来の名字が宮下だと言ったところですぐに桜来も永野家の人間だとバレるだろう。私がそばにいれば。



「本当に、これでいいの?」

 天音がもう何度目かという質問をしてくるので、私も再度同じ答えを返す。

「いつか、迎えに来る。必ず」

 ここは天音と風花が育った施設。そこに桜来を預けることにした。色々考えた結果、こうするしか無かった。

 幼い桜来は何も理解しておらず、施設の布団の上でぐっすりと眠っている。まだ二歳の子どもだ。今別れれば、私たちのことなど忘れて育つだろう。

「七瀬さん、勝手なことばかり言って申し訳ないんですが、桜来には私たちのことは黙っていてください」

「……分かったわ。私からは言わない。けど、必ず伝えて。桜来ちゃんはご両親にも、あなた達にも、愛されて生まれてきたってこと」

 七瀬さんは渋々といった様子ではあったが私たちの勝手な願いを了承してくれた。

――――――

「葉月は、これからどうするの?」

「とりあえずは雪翔から貰った家があるし、家賃収入で不労所得だな……。一部屋貸してやろうか?」

 冗談半分でそう言うと、天音は少し考えてから答えた。

「そうしようかな。風花が高校卒業するまで」

「……あ、ああ。そうか」

 断られるか、笑って流されると思っていたので少し驚いた。本当は、一人になると嫌なことを考えてしまうので誰かにいてほしかった。天音もそうだったのかもしれない。

「あー、葉月。あとさ……」

「どうした?」

「……いや、ごめん。なんでもない」

 天音が何を言おうとしてたのか。このときは全く分からなかったが、二年後にそれは分かることになる。

――――――

「桜綾と雪翔さんの凍結受精卵があるんだけど」

「……は?」

 ある休日の午後、梅雨の雨が窓を打ち付ける午後に、天音が突然そんなことを言い出した。

 私の理解が追いついてないのも気にせず、天音は話を続ける。

「私がバレないうちに病院から持ち出すから。葉月、産まない?」

「……いや、は? ちょっと待ってくれ。お前……何言ってんだ?」

 この二年の間に私たちの心の傷も多少は癒えてきた。それでも桜綾の話題はお互いに避けていたはずだ。天音がどうかは知らないが、私は少なくとも避けていた。毎月桜来の養育費を七瀬さんに渡すときに聞く桜来の成長の話が私の生きる糧になっていた。そんなときに、こいつは何を言っている?

「桜来を産んでから、桜綾の体調が悪くなったでしょ? けど桜綾はもう一人子どもが欲しかったから、体外受精を試してたの」

「だからって……桜綾は産める状態じゃなかっただろ」

「産めるように回復する予定だったんだよ。桜綾の中では」

 その言い方で、桜綾自身も自分の命のリミットのことを知らなかったのだと気づいた。

「日本では代理出産は認められてないんだけど……そこは上手くやる」

「上手くやるって、お前……」

 正直、まだ全然理解できていない。産まれてくる子どもの健康状態に影響は無いのかとか、戸籍はどうなるんだとか、それ以前にそんなことしていいのか。

「……ずっと、迷ってたんだ。私産休なんて取ったら職場の人に疑われるから、頼めるのは葉月しかいない。けどこんなこと頼んでいいのかなって……。でも、桜綾と雪翔さんの遺した命を、繋いであげたい。桜来にも、家族がいてほしい。そう、思って……」

 天音の言うことは分かる。とても、分かる。確かに私しかいない。

「……そんなの、私たちのエゴじゃないか。その子には何の関係もない。しかもその子は生まれたときから両親がいないってことだ。私たちが勝手に、もう死んだ人間の意思を継いでると思い込んで、背負わせるのか? 産まれてくる命は平等なはずだ。罪なんてないし、希望だってない」

 なのに、どうしてだろうか。ずっと探していたものが、やっと見つかったような気がしてしまう。

「……やっぱり、ダメ、だよね」

「いや……やろう」

――――――

「まさか、私が母子手帳なんか持つことになるとはな」

 色々と上手くやる、という天音の言葉の通り、私は複雑な事情を抱えたシングルマザーという体で縁もゆかりも無い産婦人科に通うことになった。

 出産は本当に、本当に辛かったが、私が選んだことであると同時に、桜綾のことを想いなんとか乗り切った。というか、ここまで来たら乗り切るしか無かった。

 そしてまた七瀬さんに頭を下げ、子どもを預けた。

「あなた達は……本当にバカね」

「……はい。すみません」

「それで、この子の名前は?」

「永愛です。……永野、永愛です」

 桜綾と雪翔の、二人目の子どもで、桜来の妹。だが、戸籍上は私の子どもという事になっている。

――――――

 それから数年後、桜来と永愛を迎えに行くと二人が本当に姉妹のように寄り添っていた。二人は自分たちが姉妹だということは知らないはずなのに。それを見て、私は桜綾と雪翔の意思が確かにここにあることを感じてしまった。それは限りない祝福のようであり、果てしない呪いのようでもあった。

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朱に交われば夏になる 空き箱 @aki_bako

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