第4話

言うと、皇女様はようやく顔を上げて微笑まれた。私の膝は今度こそ力を失い、結果こちらが床に座り込む格好になった。

「おっと。大丈夫?」

「大事ないかぁ?」

左右から腕を支えられ、背中を擦られる。巡らせていた想像と違い過ぎて、脳みそが洗濯機状態だ。

「ミキト、ヒサト。後は任せましたぞ」

「御意」

「では、ヒサトと共に歌御前を離れへ案内して参ります。そのまま持ち場に戻ります故、これにて失礼させていただきます」

と頭を下げたのはお兄さんのほう。だらっとしない喋り方できるんだ、びっくり。

兄はミキト、弟はヒサトっていうのね。そういや私も、今初めて2人の名前を知ったわ。

「はい。歌御前をお頼み申し上げまする」

「はっ」

「承知いたしました」

畏まったやり取り。肩が凝りそうな緊張感が走っている。私も何か言ったほうがいいのかなと思ったけど、

「行こうか」

と弟さんが耳元で囁いてきたせいでゾクッとして言えなかった。

お貴族様の前から立ち去る際のお作法って? 二礼、二拍手、一礼とか、表彰状をもらうときの動作くらいしか分からない。立って、一礼? あってんの? ご無礼じゃない? かなり不安なんだけど。

ひとまず背筋を伸ばして、卒業証書をもらった後の要領でピシッと回れ右をキメる。と、真っ直ぐ目線の先にお兄さん……ミキトさんの姿があった。もう入り口にいるの? 置いて行く気?!

「行くよ」

「ひゃっ」

ヒサトさんの囁きリターンズ。置いて行かれるよりはいいけど、心臓に悪いからやめて。

隣りの長い脚にどうにかこうにか合わせて歩く。私たちの到着を待って、ミキトさんが

「それでは失礼いたします」

と戸を引き始めた。

広間を一歩出たところで、弟さんが振り返った。気になって一緒に後ろを向く。皇女様はまたしても三つ指を付いていた。庶民の私にそんな真似していいんですか? 逆に心配なんですけど、その腰の低さ。

左右から戸が迫ってきて、皇女様の姿が見えなくなる。肩から一気に力が抜けた。おかげで、またしてもその場に座り込んでしまった。

「おぉ、大丈夫かぁ?」

掌が上から振ってくる。掴まれ、ってことらしい。お気持ちに甘えて手を取ったら、ぶるっと全身が震え上がった。学ばないな、私。さっきも冷たい手でびっくりしたはずなのにもう忘れてた。

「にしても君、全然聞いてなかったでしょ。医務室から移動するとき、色々ちゃんと説明したのに!」

「あ……すみません」

本当にすみません、ちっとも記憶にありません。

「まったく。もう一度説明するから、今度はちゃんと聞いててね?」

大丈夫、今度は聞けると思います。


***


「まず知っておいて欲しいのは、ここは水の都と書いてスイトという国だということ。君たちから見て海の底の裏側にある国だということ。ここで暮らす俺たちは水都人であり、君たちは、外の海の人と書いてトカイビトと呼ばれる存在だということ。これをまず理解して欲しい」

長い廊下を歩きながら、ヒサトさんが話し始めた。数学の前提条件を聞かされてるみたいで、これから眠くならないか自分が不安だ。

「水都人は、地表……つまり、君たちの暮らす場所では生きていけない。逆もまた然りで、基本、外海人も水都では生きていけない。地表から水都へは深海や海底を経由するから、その段階でお互い、水圧に肺をやられてしまうんだ」

分かるような分からないような。じゃ、どうして私の肺は潰れてないの?

「私や貴方達は……」

「俺たちや君は、数少ない例外だ。言っておくけど、これ、まだ前提段階の話だからね。付いてきてる? 聞きたいことがあったら遠慮なく言ってよ?」

優しさゆえの発言なのは分かる、分かるけど。どうしてだろう。馬鹿にされている気がしてならない。

「大丈夫です、今のところは」

「ならよかった」

と言ってヒサトさんが頷くので、私も首を縦に振った。

「水都は、地表との交流を求めていない。ここの文化や暮らしが壊れることを、望んでいないからだ。水都の存在が明るみになれば、外海人の中にはきっと、ここの資源や土地を狙う輩が出てくるだろう? そうならないよう、俺たちは何百年もの間、静かに穏やかに暮らしてきた」

「水都はいい国でねぇ。花や緑は年中、絶えないし、水や資源も消費しきれないほど豊富にある。おかげで、お主たちの言葉で言う科学技術ってやつも進んでる。まず間違いなく、地表よりもずっと、ね」

「そう。たとえば、君が俺たちを追い掛けて通ってきたあの、光の道。あれも水都の技術で完成させたものだよ。地表のことはよく知らないけど、地表の技術や理論じゃまだ、あれは完成できないと思う」

なるほど。文系だし科学技術とか理系の話はさっぱり分かんないけど、水の中を濡れずに瞬間移動? する装置なんて、確かに聞いたことがない。多分、仰る通りで地表ではまだできないんだろうな。

「そのうち、日ノ本を案内してやるさぁ。お主もきっと気に入る」

「はあ……」

「さて、ここからが本題なんだけど。俺たちは基本的に、地表へ出て行ったりしない。それはヌルも同じだ」

「ヌル……」

二度と聞きたくなかった名前。胸の内側に憎悪と絶望がじわじわ広がっていく。黒い波が砂浜を飲み込んでいく、夜の関門海峡みたいに。

「君が地表で見た、あの黒い生き物だよ。奴に流れると書く。俺たち水都人の、大切な家畜だ」

妖怪ならよかったのに、大切な家畜? 魔物だから退治してくれと言われたほうがまだマシだ。

「奴流は食べても美味しいし、毛も採れるし荷物も運んでくれる。穏やかで利口で有益な家畜だ。でも、たまに暴走してしまうことがあるんだ。そういうときは、勝手に水都の外まで出てしまう。それこそ、昨晩のように海の上まで」

ざわり、肩から背中にかけて嫌な記憶が走った。昨晩のものだけじゃない。神経回路の至るところに張り付いて消えない、3年前の夜の記憶も、だ。

「奴流は行こうと思えば簡単に地表へ出ることができる。けどいったん地表に出たら、気圧の関係で呼吸器が膨張してしまって適切な大きさに戻らなくなるんだ。だからもし地表に出たら、葬ってやるしかない。でも地表に奴流が出れば、あっちは大騒ぎになるだろう? そこから芋づる式に水都の存在が明るみになってしまう可能性もある。だから隠密に処理するのが基本だ。とはいえ、君も知っての通り、奴流は真っ黒で匂いもない。加えて、暴走中はとにかく素早いから取り押さえるのは至難の業なんだ。暴走中の奴流を、君も見ただろう?」

「……」

辛うじて首を縦に振ることはできたけど、喋ることは難しい。何かを言えば、一緒に涙が出てくる気がしてならない。知らず知らずのうちに組んでいた腕に力を込める。二の腕に爪を立てた。その痛みで感情の波を押し黙らせる。

「あれを上手く仕留めるには、“歌”が不可欠だ。そこで、君に歌ってもらいたい」

「それが君の仕事さぁ」

「奴流は歌を好む。良い歌が聴こえると毛を逆立てて、動きを止めたり落ち着いたりと理性を取り戻す、そういう習性の生き物なんだよ。地表でも、生き物を歌で誘導することがあるんだろう? それと一緒さ」

「……奴流を、あの化け物を統制するために、私に歌えと?」

「そういうことぉ」

ミキトさんが人差し指を立てた。ヒサトさんは、「化け物はひどいな」と小さく呟いて眉間にしわを寄せた。

「暴走した奴流が地表で発見されるような事態になるのは、困るんだ。もし水都の存在が暴かれて、新しい移住先だ、話題性の高い観光地だ、ショーバイ先だみたいな感じで目を付けられたら? 冗談じゃない。俺たちはただ、水都での暮らしと、俺たちの文化を守りたい。それだけだよ。だから君のように、たとえ誤って来訪したのであったとしても、外海人を地表へ帰してあげることはできない」

それは私も求めてない。よかった、その利害関係だけは一致しているらしい。

「万に一つでも水都のことを他言されるようなことがあったら終わりだからねぇ」

「代わりに、衣食住の不自由はさせないから、水都で働いて欲しいんだ。君には奴流の統制のため、歌を歌って欲しいと思っているよ。こちらの要望は以上だ。お分かりいただけたかい?」

こてんと首を傾げられたので、条件反射でハイと返した。どこぞのアイドルかよと言いたくなるほど顔のつくりがいい。うっかりときめきそうになったわ。

合点はいった。元の暮らしに戻りたくない、かといって痛め付けられるような毎日も嫌だと思っている私にとっては、わりと渡りに船というか。決して悪い話じゃない。それぐらいは理解できる。

でも、納得はできない。頭と心は違う、知性と感情は別だ。

歌うことで生きていけたら、なんて夢見てたこともある。でも、だからって 、よりにもよって“奴流のために”歌うなんて。ムリだよ。

「こちらの意見は、その……たとえば、やっぱり歌えないっていうのはダメなんですか?」

自分が思っていた以上に、強くて低い声が出た。途端、ミキトさんの大きな目がぴくっと跳ねた。逆鱗に触れたのだと直感する。

「それはぁ―― できない、ねぇ」

ヤバいと思うよりも早く、大きくて冷たい手指に首を掴まれる。白い親指に頸動脈を圧し上げられて息ができない。鼻からも口からも、充分な酸素が入ってこなくて頭の芯がきゅうと締め付けられる感覚に陥る。ヒサトさんは助けてなどくれない。兄弟に同調するように、

「皇女様に快い返答を差し上げておきながら、朝令暮改なんて。この国では許されざることこの上なしのお話、だよ。今ここで、俺たちのどちらかに息の根を止められるか。処刑台にでも上がってもらうか。選んでもらうけど?」

と言った。

親指がどんどん食い込んでくる。逃げようと身体は後方へ下がりたがってるのに、ちっともその通りにならない。いくら上背も筋肉もある相手とはいえ、こちらの動きを封じているのはたかだか片手だ。なのに、掴まれた手から離れることすらできないなんて。一歩後ずさることすらままならなず、ただ変な喘ぎ声が出た。

「……っ、ひっ、くぅ……」

恥ずかしいし苦しいし、いっそ殺して欲しいと思う反面、ここまで来てやっぱり死ぬはめになるなんて。尚更悔しくて死んでも死にきれない。

「あぁ、ごめんねぇ」

離れる手と入れ替わりに投げつけられた謝罪の言葉は、軽くてリズミカルで、それこそ歌のよう。その一言が、腹の立つほど涙腺を刺激した。結果、つるつるの床の上に崩れ落ちることになった。もう後は、泣くしかなかった。

「あれぇ、泣いてるぅ?」

「げに? わぁ、兄様が驚かすから……」

「俺かぁ?!」

「そりゃ、そうでしょ」

「だって……そんなつもり……」

2人もしゃがみ込んで

「ごめんねぇ、実際に手にかけるようなつもりは、ないよう」

「ちょっと怖がらせちゃったかな? ごめんね」

とかなんとか宥めてくれてはいるものの、今更何を繕われても怖いだけだ。でももう走って逃げるような気力も残ってない。いっそ今すぐ、一思いにやってくれればいいのに。

「殺すなら、殺してよ……」

「そんなこと言わないで」

「生きてたほうが、いいことあるさぁ」

殺そうとした口が何をほざくか。死んだら絶対、最初にこの男の枕元に化けて出てやる。

「痛くなくて、苦しくなくて、そういう方法で、一思いに……」

「無茶ぶりだぁ」

慌てた素振りは演技だったのかと疑いたくなる調子でミキトさんがケタケタ笑っている。ヒサトさんも苦笑いで腕を組み出した。みんな私の扱いに困ってんじゃん。そんなに迷惑な存在だったら、殺せばいいのに!

「んーとさ、君、歌うの、嫌い?」

隣りに座り込んで、ヒサトさんが聞いてくる。

「好き、だけど……」

「じゃ、いい話だと思わない? 歌って暮らせるんだよ?」

いや、詐欺みたいだと思う。でもそれは言わないでおこう。面倒くさい。

「でも、だって、あのときも、そもそもほんとは、死のうって……」

「あのとき?」

「地表で会ったときかなぁ?」

しゃくり上げながら喋るから、口調がどうしても遅くなる。答えは頷いたほうが早いだろうと、ゆっくり一度だけ、首を縦に動かした。

「あら。あのとき、自分で死のうとしてたってことぉ?」

「だからあんな真夜中に、あそこにいたのか」

「だから、むしろげに、俺らにサクッといっちゃって欲しいってこと?」

「うーん、あぁ言っといてなんだけど、正直なところ俺らもそれは困るんだ。皇女様の許可のない殺生は、禁止されてるから」

「じゃあ、あの人に、痛くも苦しくもない方法で、って頼んで……」

「落ち着けってぇ」

「何でそんなに死にたいの?」

「だって……!」

溜めてきたあれこれを吐き出すべきなのか考えていたら、自動で涙が溢れてきた。友達や家族に話すよりは、ずっとマシなのかもしれない。でも、この人たちに言うのも抵抗がある。この人たちに、何が分かるというのか。誰も解決してくれなかったのに、何の力になってくれるというの。

それに、こんなぐちゃぐちゃの頭で話すようなことじゃない。立つこともままならない状態で、思い出すのもつらい話をどうやってしろと? この気持ちを分かってくれる人なんて、たとえ世界が変わってもいやしないに決まってる。

話す代わりに泣き喚く。バカみたいにひたすら泣いて、泣いて、とにかく泣いた。

それでも2人は、この場を離れない。もう放っておいてと思う反面、それに安心できている部分があるのも事実だ。見放されないだけ有り難いはずなのに、感謝すべきなのに、まだ涙は止まらないし考えもまとまらない。

「……ふう、困ったね。ヤマトシのとこにでも行ってみようか」

どれくらい経ったのかは分からないけど、業を煮やしたようにヒサトさんがそう言って溜め息を吐いた。

「さすがだなぁヒサト。俺も、同じことを考えていたよ」

ミキトさんがぽんと手を打った。

「御前、ちょっと失礼するよ」

ヒサトさんに膝を掬い上げられる。当たり前のように抱きかかえられてしまった。面食らう私をよそに、兄弟そろってさくさく歩き出す。

嘘。重たいんじゃない? そういえば走りまくった後お風呂入ってない。髪とか臭くない? というか何でお姫様抱っこなの? ここではコレが普通なの? 意味分かんない。下ろして欲しいと訴えたかったのに、思いの外疲れてたらしく気力も体力も、腕の中で暴れる勇気も湧いて出てはこなかった。要するに、今の私には何もない。

そんなの本当は、死のうとする前から分かってた。改めて思い知らされた気がした。

涙も鼻水も性懲りもなく溢れてくる。ぐずぐずの目鼻を必死に抑え続けて、どれくらい経っただろう。ヒサトさんの足が急に止まった。すぐに、ミキトさんが

「おじゃまするよぉ」

と言った。戸をノックする音が聞こえる。どこか違う部屋へ入るらしい。がちゃんという、ロックの外れるような音がしてヒサトさんが失礼するよと言った。

「あぁ、来るかもなと思ってたよ。どうぞ。しかし、すごい眺めだね、ヒサト」

部屋の主らしき男性の声がした。私を抱えていることを言ってるに違いない。放っといてよ、貴方に関係ないでしょ。

「ひどく混乱してるみたいでさ。同じ境遇の、ヤマトシの力を借りたくて」

「喜んで。ちょうど煮詰まってたから、むしろ嬉しいよ。入って入って」

どうやら声と部屋の主は、ヤマトシという人物らしい。さっき、私と同じ境遇だと言っていた人だろう。兄弟の言葉を借りるなら、外海人仲間ということになるのかな。声だけ聞くと、彼らよりも幾分か、落ち着いたトーンに思える。

「ありがとう、おじゃまするよ。御前、立てるかい?」

「……はい」

促されるまま、曲がっていた膝を素直に伸ばして立つ。枯れ果てたのか涙は引っ込んだけど、手も服もびしょびしょだ。お風呂にもろくに入ってないぼさぼさ頭に、寝間着替わりのジャージ姿。こんな格好でヨソサマのお部屋に入るのは、どう考えても失礼では? 気になってヤマトシさんとやらをちらりと見たら、彼はもう見える位置にはいなかった。

既に居間へ戻っているらしく、奥から

「スリッパ、適当に使って。んで適当に座って」

という、雑な言葉が飛んできた。

雫のレンズが消えたおかげで、視界がクリアになってきた。それに比例して、最初に感じた違和感と懐かしさの正体が身体に染みてきた。

部屋だ。

間取りや造りが地表のアパートそのもので、それゆえに懐かしさと、「水都と呼ばれるこの土地には馴染んでいない」という違和感があったのだ。

地表での生活を思わせる空間のせいか、捨ててきたはずの思い出が蘇ってくる。枯れていた涙がまた堰を切って流れ出してきそう。苦し紛れに俯いた。目線の先には黒い毛並みのスリッパが何足も乱雑に置かれている。どれとどれがペアなのか見当も付かない。戸惑ってしかるべき有様なのに、兄弟は適当な一つひとつに足を突っ込んで、遠慮なく居間へと進んで行った。どうやらこの、散らかった状態がヤマトシさんの部屋のデフォルトらしい。

「……あの、ここは?」

一応、尋ねてみる。姿の見えないヤマトシさんが、

「俺の家。どうぞ。ええと、お名前は?」

と答えてくれた。

「歌御前だよ。よろしくね」

私よりも先にヒサトさんが答えた。そんな名前じゃないんだけどなという点は最早、どうでもよくなってきた。名前なんて所詮、記号の一つでしかないんだから。呼ぶ側と呼ばれる側、双方の共通認識さえ確立されていれば何でもいいのかもしれない。

「おーけー、よろしく、歌御前。俺のことはそこの2人みたいに、ヤマトシとでも呼んでくれ」

そう言ってこちらを振り返ったヤマトシさんは、分厚い眼鏡がよく似合う、いかにも賢そうな顔立ちの人だった。けど格好は、どこからどう見ても怠惰の化身としか思えない。額の真ん中で結われた前髪が、小さな噴水みたいにぴょこっと跳ねてるのがおかしくて吹き出しかけた。全体的に寝ぐせだらけで、もちろん服も、どこからどう見てもパジャマだろうという代物だ。とはいえ、やけに豪華なパジャマだ。光沢はたっぷりあるし、めちゃくちゃの手の込んだ刺繍が施されてる。菊と桜の花模様に、バーチャル歌姫の横顔みたいな、アーティスティックな図案。ヤンキーマンガでしか見たことなかったけど、本当にあるんだな、こんな刺繍。誰がしたんだろう。本人? まさかね。

ヒートアップしていた頭に、少し冷静さが戻ってきた。家主はリラックスを通り越して、だらけきった格好だから、昨日の夜から着たままのジャージでも恐縮する必要はなさそうだ。いいのか悪いのか分からないけど。

ヤマトシ宅は、広さも造りもインテリアも、いわゆる一般的なアパートの一室といった感じだ。狭い玄関と廊下に続いて、リビングダイニングが広がっている。そのど真ん中に背の高いテーブルが見えた。テーブルよりもさらに背の高い、特大サイズのグリーンのクッションが「私はソファです」とでも言わんがばかりの顔付きで脇に鎮座している。一カ所だけどっしりと窪んでいるから、おそらくこの部分に座って生活しているのだろう。

窓の大きな部屋だった。カーテンはなく、代わりにホログラムのようなものが映し出されている。プロジェクションマッピングみたいに、鳥が飛んだり木が揺れたりする影絵が不規則に映し出されて、その映像が居心地の良さを増幅させてくれていた。そういえば、微かに水の流れる音が聞こえる。これも天然モノではなく、スピーカーから流れているのかもしれない。

窓にくっ付けるようにして設置してあるパソコンデスクの前には、これまた巨大な緑のクッションがあった。形・サイズともに跳び箱みたいで、私がもう少し子どもだったらそこに埋もれようと勢いよく飛び込んでたかも。テーブルや机はあるのに、椅子は見当たらない。食事や作業が滞りそうな部屋だ。

「早速だけどヤマトシ。彼女は今、その……とても不安定みたいなんだ」

ヒサトさんがお手上げというように両手を上げた。ヤマトシさんはといえば、パソコン前の緑のもこもこ上で胡坐を搔いている。不安定そうなのに器用だな、バランス感覚どうなってんの。

感心している私をよそに、兄弟もソファみたいなクッションに座って足を組み出した。無遠慮だなとも思ったけど、きっと彼らは常連客なのだ。場違いなのは私だけで、おそらくコレが、彼らの“普通”なんだろう。今しがたやってきたばかりの私がジャッジを下すほうが、多分失礼だ。

「来たばっかりだからだろう? 察して余りあるよ」

「おそらくね。仕事をお願いしたいと頼んだんだけど、何というか、身の置き方が決まらないみたいでさ。説得してもらえないかな」

「了解」

立ち尽くす私に、ヤマトシさんが薄く笑った。その揺れに合わせて、前髪の噴水がコミカルに動く。ちょっと可愛いと思っちゃうあたり、私、疲れてる。


「俺は、君と同じく地表で暮らしてた、ごく普通の日本人だよ。東京で生まれ育って、仕事もしてた。フリーランスだけどね、一応シャカイジン、ってやつだったよ。けどあるとき、旅行先で深夜の海を見てたら、とんでもなく輝く点みたいな光を海の中に見つけたんだ。疲れてたのと酔っ払ってたのと好奇心とで、光を目掛けて海に飛び込んだんだ。その後、気が付いたらここにいた。死んだのかと思ったけど、五感はすべてあるし、意識だってハッキリしてる。死んだことはないけど、コレを『死』と捉えることはどう考えたって違和感があったよ。あたふたしてたら引き眉で細面で美肌のにーちゃんねーちゃんがわらわら出てきて、ようこそ水都へって言うんだよ。スイトって、何ぞや? 夢でも見てんのか? って、長いこと勘ぐったよ。君も今、まさにそんな感じだろ?」

その通りですと激しく頷いた。ヤマトシさんも頷き返してくれた。噴水も元気に揺れるから、何だか嬉しくなってくる。

「俺も最初はめちゃくちゃパニックだったよ。ふざけんなよ帰らせろって思ってた時期もあったけど、いろんなことを知るにつれ、地表に戻りたいとは思わなくなった。今はもう、骨を埋める覚悟すらできてるよ。慣れてしまえば、ここは楽園だね。郷に入っては郷に従えだ、歌御前もそのうち、こうやって思えるんじゃないかな」

「……」

じゃあやっぱり、慣れるまではつらいんじゃないですか、私まだ慣れてないんですけど、と言い返したい。けど口を開くとまた涙が流れ出しそうな気もする。

「水都は海の底にある桃源郷みたいな国。竜宮城みたいだろ?」

「……そんないい国とは思えません」

言って下唇を噛んだ。少なくとも奴流がいる時点で、私にとっては良くない。涙腺の活動を止めるため、再び左右の二の腕に爪を立てる。いくら食い込もうとも、あの苦しみに比べれば痛くも何ともない。

「最初はそうかもしれないけど、ここには最高の国だよ? たとえば、仕事の別こそあれど大きな格差はないし。与えられた仕事を疎かにさえしなければ、衣食住の不安なく暮らせる」

それって、カイシャヅトメと何が違うんだろう。社会人経験とやらのない私には今一つピンとこないけど、ヤマトシさんは喋り続ける。

「だから略奪も皆無に等しい。リスクをとってまで愚を犯す輩がいないって、最高に幸せだよ。多分、みんな時間や生活に追われてないから、キモチにも余裕があるんだろうな」

「嬉しいお言葉だねぇ」

「お褒めに預かり光栄です」

兄弟は嬉しそうに茶化してるけど、私は笑う気にもなれない。

「医療も情報技術も地表よりずっと進んでるし、本当の意味で『健康で文化的な最低限度の生活』ってやつを送れるんだ。しかも、最高水準でね。そんなところで暮らせるなんて、ラッキーだと思わない?」

「でもここは、私のいるべき世界じゃないです」

「本当にいるべき世界じゃなかったら、もう死んでるよ」

論破したつもりなのか、ヤマトシさんはそう言って高らかに笑った。私は別に、論破されたとは思ってないけど。何が面白いんだろう。ちっとも分からない。

確かに、私はどうやら、死んでてもおかしくない道を通ってここまで来たらしいけど。でも、ここで生まれ育ったわけじゃない。好きで来たわけじゃない。望んだわけでもない。私の知る世界じゃないのに、ここを好きになれと? 最も憎むべき、あの生き物も存在する世界だというのに。

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