第2話

アニサマ、オキソウダヨ。ゲニ?


暗号めいた言葉が聞こえる。誰の声だろう。声はするけど、顔は見えない。そうか、目を瞑っているからか。起きなきゃ。

ぼうっとする頭で瞼を開けると、高い天井……よりも低い位置に、白い顔が2つ見えた。

「あ、起きた」

「いやぁ驚いた。大丈夫なヒトだったんだねぇ、お主」

「え……?」

「げに。どんな確率だろうな。あそこにヒトがいて、歌ってて、しかもそれが大丈夫なヒトでした、なんてさ」

「分かんないけどすごいよねぇ。僥倖なことだぁ」

声は知らないけど、顔は知っている。あの口パクコンビだ。あのときはあんなに、頑ななまでに沈黙していたのに今は普通に喋っている。夜だったからかな? あれ、というか、今、何時? いやその前にここはどこ?!

少しでも状況を整理したくて辺りを見回してみる。天井の高い和室だ。畳の上に置かれたベッドで、横になっている……みたい? 右サイドには和服姿の美形が2人、胡坐を掻いている。謎シチュエーション下でニコニコ見守られるのは、逆に怖い。

2人を見るまで海に飛び込んだことすら忘れていた。光を追って入水したんだよな。それで……どうしてこうなったんだっけ?

あのとき、この2人は確か真っ黒なジャージ姿だった。でも今はひな人形とか神主さんみたいな着物姿になっている。

着替えているということは、あれからある程度の時間が経ったに違いない。どれくらい? 今は何月何日、何時?

「あの……」

「いやぁ、おはよう」

「あ、はい、おはようございます……?」

「といっても、もう昼時だけどねぇ。とんだお寝坊さんさぁ」

「はぁ、すみません……?」

言いながら思う。何で謝っているんだろう、って。

「何か食べる? それとも、水とか飲み物のほうがいいかな?」

「え? じゃあ、お水……?」

「了解。兄様、俺が取ってくるからよろしく頼むよ」

「うん、任されよう」

ひらりと掌を揺らして、前髪の長いほうの彼が遠ざかっていった。見送ったほうがいいのかなと、上体を起こす。アニサマ、ってどういう意味なんだろう。アニメ? サマー? いや、そうか。お兄さんか。2人は兄弟だから似てるのか。今ここに残っている、前髪ぱっつんの彼がお兄さんね、把握した。

合点がいったところで、背を起こしたついでに少しだけ布団をめくってみる。誰かに脱がされたり、着替えさせられたりした痕跡はなさそうだ。よかった。

でも変だ。洋服はおろか、髪の毛の一束すら濡れてない。海に飛び込んだはずなのに、潮でがしがし軋む感じも一切ない。もう乾いたとか? 窓の位置が高くて外の様子は分からないけど、さっき昼って言ってたし、あれから半日くらい経ったってこと?

分からないことだらけだけど、布団がふかふかで心地いいことは間違いない。上質なお布団はQOLを高めるって親が言ってたっけ。その通りだな。

天井も壁も布団も白いせいか、兄弟の青黒い髪や着物がよく映える。白と黒の世界に迷い込んだみたい。畳は緑だけど。

ここはどこなんだろう? あんまり生活感がしない。日頃使われてない空き部屋みたいだ。どうしてこんなところに? というか、私、生きてるの? もし生きてるなら、彼らに助けられたってこと? お礼言うべき? ハテナが増殖し続けて埒が明かない。とりあえずお礼を言ってみよう。

「あの、何か、すみません。ありがとうございます」

「何がぁ?」

へらっとした口調。やけに語尾が長い。ちょっと困惑する話し方だ。

「あー、布団とか。あと、水とか、その……」

「あぁ。大したことではないねぇ、そんなの」

右脚の上で頬杖をつくお兄さんは、営業スマイルみたいな笑顔をくれた。面長気味の輪郭も含め、水を取りに行った弟さんと本当によく似ている。明るい中で改めて見てもそう思うんだから、兄弟で間違いなさそうだ。

それにしても肌がめちゃくちゃ白い。顔色悪いですよと言いたくなる。髪も肌もすべてが艶々で滑らかで、ニキビ? 乾燥? ナニソレオイシイノ? って平気で言い出しそうな見た目。唇の皮も剥けたことがなさそうな兄弟だ。親もきっと美肌なんだろうな。

高くて細い鼻も薄い唇もよく似てるけど、目はお兄さんのほうが釣り気味で、大きく見える。前髪の長さのせいかもしれないけど。

「どうしたぁ?」

しまった、じろじろ見過ぎたかも。

「あ……すみません、失礼しました」

怒られると焦って目を逸らしたら、逆にお兄さんからぐいと顔を寄せられて、覗き込まれた。

「気になることでもあるのぉ?」

よかった、語調に怒気は感じられない。

気になることだらけだし、聞きたいことなら山ほどある。ここは素直に頷いておこう。

「そりゃそうだよなぁ。何でも聞いて、お好きにどうぞぅ」

「あ、はい」

存外砕けた調子で促され、自然と安堵の溜め息が出る。緊張が緩んだせいか、何を聞こうと思ったのかがすっぽり飛んでしまった。

「あの、大前提なんですけど、私って今、生きてるんでしょうか?」

とりあえず、思い付いたことを言ってみる。

「おー、うん、生きてる生きてる。びっくりだぁ」

「……私もびっくりです……」

「そうだよねぇ、大概のヒトはダメになっちゃうからなぁ」

「大概、の、ひと?」

ダメになるって、すごい表現。死ぬってことよね?

「そそ。お主みたいに、追っかけてきたり一緒に落っこちてきたりするのが、いんだよねぇ、たまにぃ」

「す、すみません……?」

おっちょこちょいの招かれざる客だと言われているみたいで、恥ずかしいし決まりが悪い。わりと冗談抜きで、決死の覚悟で飛び込んだのに。あんまり付いてきて欲しくなかったと言われてるようで、肩身が狭い。

「でもそういうのはだいたい、着く前に死んじゃうんだよねぇ。肺臓をやられるから、そりゃ、仕方ないっちゃ仕方ないのさぁ」

「ハイゾウ?」

肺臓って、肺のこと? 肺をやられる? 煙でも出てくる道を通ったの?

「ん。ココはお主らから見たら、海の、底の、さらに奥だから。気圧が違うもんなぁ、それこそ天と地ほどに、ねぇ」

今、さらっと物凄い大事なこと言われた気がする。お兄さん、ちょっと待って。

「海の底の、さらに奥……?」

「そうさぁ。だから地表のヒトは普通、ココまで辿り着く前に肺臓が潰れるんだわぁ」

「あの、待ってください。ここどこですか? 日本ですよね? 本州? 九州? それとも船の上とか……?」

「ははは! 海の底の奥って言ったろぅ? ここはなぁ、そういう括りでは語れない場所だぁ」

お兄さんは心底おかしそうに笑って、胡坐の足をぱんぱん叩く。

本州でも九州でもない、海の底の奥? 関門海峡で流されて、どこかの病院とか施設に保護されてるわけじゃないの? 日本ですらないけど、日本語が通じる場所って何?

「ここはなぁ、日ノ本だぁ。お主らが海の底だと思ってる部分の、さらに奥さぁ。分かりやすく言うなら、ええと、ソッチにとっての海が、俺らにとっての空、みたいな感じかなぁ」

分かりやすくとは? ごめんなさい、サッパリ分かりません。

「すみません、全然分かりません……」

「あれ、そーお? じゃ、地図でも持ってくるかぁ。待っててぇ」

どっこいせ、と、おじさんみたいなセリフを吐いて立ち上がるから吹き出しそうになる。お兄さんが歩き出したのとほぼ同時に、

「ねー、君さー、お酒でもいいー? まだダメな子ー?」

と、開けっ放しの引き戸の向こうから弟さんの声がした。

「お前、シレモノかぁ? どう見たってまだお子様じゃねーかぁ」

なぜかお兄さんが返事をしている。これでも18だし、さすがにオコサマと呼ばれるのは釈然としないんだけど。でもまぁ、お酒は勘弁して欲しいから黙っておこう。なんて考えているうちに、殺風景な部屋に一人取り残されてしまった。

今このタイミングなら、ここから逃げ出せそうだな。スニーカーも、ベッドの脇に置いてあるし。ダッシュで部屋を脱出するのにお誂え向きのシチュエーションでしょ。でも逆に怪しいとも言える気がする。そもそも、逃げるって、どこに?

判断に迷っているうちに、お待たせーという呑気な声が聞こえてきた。

お兄さんが、紙と、木の枝みたいな鉛筆を。弟さんが、木製のトレーに乗った真っ白い湯呑を。それぞれ手にして戻ってきた。

「白湯にしといたんだけど、飲める?」

「あ、はい」

「そう、よかった」

ほわほわの湯気が心地いい。熱そうだなと思いながら差し出された湯吞を取ったけど、ちっとも熱くない。嫌がらせで液体ドライアイスでも持ってきたとか?!

「よく考えたらさぁ、地図見ても分かるわけないよなぁって。絵に描こうと思ったけど、俺ぇ、絵ぇ下手だから。簡単にさせてもらうなぁ」

こちらの混乱をよそに、お兄さんが空いたトレーを下敷き代わりにして鉛筆を走らせだした。

変な形の鉛筆が描き出したのは、どう見ても雲。と、太陽。子どもが描くみたいなやつ。

「これ。お主らの空な?」

「はい」

お主らの、って何?

「んでぇ、その下に地表ってやつがある。お主らが暮らしてる、大陸って場所さぁ」

「は、はぁ」

ぴいっと、紙の真ん中に横線が一本走る。その上に棒人間と、 “ちひゃう”という文字が書き足された。よ、じゃなくて、や、になってるのは、この際気にしないでおこう。

「その下には、お主らの言う地下ってやつがあったり、海があったりする」

「? はい」

「日ノ本はどこにあるかっていうとぉ、つまり、この、海のさらに下ってわけさぁ」

「海の下? ……え、マントルですか? ここ」

「まんとる? コウクツのことか?」

「こうくつ?」

「ハガネが取れるところだよぉ?」

「鋼? 鉱山の名前ですか?」

「コウザン? コウザンって……何だぁ? そこも、ハガネが採れるのか?」

「私もよく分かりませんけど、多分、鋼が採れるところだと思います」

「じゃ、それで合ってる。ハガネの採れるところ、それがコウクツ。鉱物の洞窟さぁ」

「は、はぁ……」

「うーん、兄様。代わるよ」

我々の会話を聞きながら弟さんは右に左にと何度も首を傾げ続けていたけれど、ついに堪りかねたらしい。お兄さんから筆記具を取り上げて紙を裏返した。

ぐるり、大きなマルを一つ。その中に十字を書き足して、右上の扇形部分以外を黒く塗り潰していく。

「この円を、地球だと思って?」

「はい」

「まず、地表という場所は、ここだよね?」

こちらの反応を伺いながら、白く残った扇の部分の円周を何度もなぞっていく。

「はい」

「君たちの暮らす場所がこの線上だとしたら、日ノ本はそのすぐ内側にある」

と言って、弟さんは扇形の部分に斜線を引き出した。

「内側?」

やっぱりマントルってこと?

「そう。地球の深度でいえば、君たちのいうマントルと同じ辺りだ。もっとも、マントルと呼ばれる部分すべてが日ノ本ってわけじゃない。この国は1万平方里ほどの大きさしかないからね。つまり、君たちがマントルだと思っている場所の大部分は、本当にマントルだという認識で問題ないよ」

どうしよう。多分、お兄さんのターンよりはるかに分かりやすい説明だったはずなのに、マントルが渋滞していたことしか分からなかった。理解が追い付かない。

察してくれたのか否かは定かではないけど、弟さんは柔らかく眉尻を下げて笑っている。

「要するにまぁ、深海の底に君たちの国と似たような世界があって、君は今、生きてそこにいると。そう思えばいいよ」

分かった、海底都市ってことね? それなら納得。……とはならないよ、さすがに。

「水もマグマもないし、息もできるのに、ここが海の底……?」

「水の底にも都があるって、聞いたことない?」

「……平家物語ですか?」

「そう、それ。知ってる?」

「学校で習いました」

「あれ? 君、いくつ?」

「もうすぐ18です」

「わぁ、てことはやっぱり、お酒はまだダメだったんだね。危なかった!」

ありがとう兄様、あやうく罰せられるところだった、と笑う弟さんに対して、お兄さんはふん、と得意気に眉を上げ下げしてみせた。私よりずっと子どもみたいな人だな。

「あの、それより、平家物語が何か……?」

「あぁ、そうだった。つまりココは、その平家物語で言われてる水の底の都だよ、って言いたかったんだ」

弟さんはそれなら分かりやすいでしょと付け加えて小首を傾げた。口調も仕草も雰囲気も柔和で、何というのか取っつきやすい感じはある。けど、話の中身はとっつきにくさ満点だ。

「でもあんなの、どう考えたって嘘っていうか、伝説上のものとしか……」

「滅多なことを言うなぁ。どうして時子様が嘘を吐く必要がある」

お兄さんが笑った。【時子様】って、平家物語に出てくる二位尼の時子のことかな。確か、孫の安徳天皇と、三種の神器を抱いて壇ノ浦に入水したとされる女性だ。

「嘘というか、信じられなくて」

「そりゃそうだぁ。俺らだって、実際に行くまでは地表なんてとこが実在するのか、半信半疑だったからねぇ」

お互い様さぁと言われて、一瞬はそんなもんかとも思ったけど、鵜呑みにはできない。だって、もし万が一にでも後から全部嘘でしたって言われたら、どうしたらいいの? この話を信じる要素が、まだ全然足りてない。……何があれば充足できるのかと問われても、答えられないけど。

「本当にここは、海の底の都なんですか?」

「そう。俺たちの国・日ノ本さぁ」

「水もマグマもないのに?」

「その領域とはなぁ、一線を画している。だからこそ、この奇跡みたいに豊かな国があるんだよねぇ」

「でも、だって、お2人とも日本語じゃないですか。本当は日本なんじゃないんですか?」

「違うねぇ。色々あって、そちらの文化を踏襲した面は大いにあるさぁ。でも、まったく別の国だよぉ。干渉も一切、受けてない」

「本当のこと言ってください、今なら怒らないから」

「しふねいなぁ」

「げに」

よっぽど必死な顔をしてたんだろう、兄弟は2人そろって私をまじまじ見た後、困ったように眉尻を下げた。しふねいって何? 分かんないけど、あんまりいい意味じゃなさそう。

「ここは日本じゃなく日ノ本で、俺たちは日本人じゃなくスイトジンだ。安心してくれていいよ、何一つ嘘は言ってない」

「まぁ、スイトジンってとこだけは、ちょっと違うけどねぇ。コンケツだからぁ」

「すいとじん? こんけつ?」

いろんな情報が断片的に入ってくる。数学のテスト見てるときみたい、分からなさすぎて吐きそう。

「コンケツは混血さぁ、血が混ざるって意味。お主たちのように、地表に暮らすヒトとスイトジン、両方の血を引いてるって話だよぅ。俺らは、父方にトカイジンの血が入ってるからねぇ」

また知らない単語が出てきた! 説明してくれてたんだろうけど、何ならむしろハテナが増えた。この人、今何て言ったっけ。聞き取れないというより覚えられない。それより、間近で見るとお兄さんの肌艶の良さが輪をかけてヤバい。兄弟そろって、髭の跡すら見えないほどの美肌だ。毛穴ないのかな? この2人。くらくらする。

「あぁごめん、分かりにくかったよね」

黙って頭痛を堪えてたせいか、弟さんが気を遣ってくれたけど、頭を抱えた理由はそっちじゃない。でも詳しい説明は欲しいからお願いしよう。

「スイトジンっていうのは、日ノ本のヒトのこと。水の都の人って書いてスイトジンね。君たちから見れば外国人みたいなもんだと捉えておけばいいよ。ヤマトシもそう言ってたし」

「ヤマトシ?」

「君みたいに、地表から来た人物の名前さ」

「他にもいるんですか?!」

「もちろん。会いたい?」

「え、いや……やっぱりいいです。遠慮しときます」

「そう?」

私の知る世界にいた人と、普通の人と会いたいっていう気持ちは、そりゃもちろんあるけども。でも今は、疲れのほうが圧倒的に勝っているので辞退させていただこう。

だいたいこの人たちの話が本当かどうかすら分かってないのに、また新たな誰かと会うのはリスクでしかない気もするし。

「ちなみに、君やヤマトシみたいに、地表から来たヒトのことはトカイビトって呼んでるよ。外の海の人って書いて、トカイビトね。俺たちの曽祖父はトカイビト……つまり、君たちと同じ地表で暮らしていたヒトだったんだ。だから、普通の水都人より少しばかり、君に近い存在だよ。そんなに緊張しないで、よろしく」

「はぁ……」

よろしくされても、『うちの祖先は君と同じ、人間なんだよ』と言われても、そりゃそうだろうとしか思えないというか、安心感などないのだが。

しかも言うに事欠いて、生粋の田舎モンである私のことをトカイビト、だって。生まれも育ちもずうっと田舎で、旅行以外で県外に出たことはほとんどないような小娘を、トカイビトだなんて! 一周回って馬鹿にされてる? 別にケンカを売るつもりはないけど、何一つ素直に受け取れない。なのに、弟さんは

「おおよそのことは分かったかな?」

とドヤ顔で聞いてくる。そりゃ、お兄さんの話よりは多少分かりやすかったと思うけど。でも、やっぱり、どう考えても結局、何も分からない。

「あ、白湯、美味しい?」

「あ、ええと、はい」

何にハイと言ったのか、正直、自分でもよく分からない。口が勝手に動いただけだ。それでも弟さんが

「よかった」

と満足気な笑顔を見せてくれたから、もうそれでいいや。

長い前髪を流すついでに、黒い艶々した袖を豪快に捲る。その下に隠れていた青白い腕が伸びてきて、ちょんちょんっと湯吞みをつつかれた。

「下げるね」

と優しく言われて湯呑を返したけど、そういえば飲んでない。

「あんまり減ってないね。いらなかったかな? 余計なお世話だったらごめんね、またいるときは遠慮なく言って」

今更、一度も口をつけてないとは言えない。ごめんなさい、わざとじゃないんで許してください。

「ところで、身体はどう? 動ける?」

まるで海外ドラマの登場人物みたいな入り方で、弟さんが尋ねてくる。そうだった、言われるまでまた忘れてたけど、そこもナゾなんだった。

布団をぐるっと剥ぎ取って自分の身体をじっくり見てみても、衣服の乱れはないし痛いところも異変もない。足の指をぐーぱーと動かしてみたり、膝を曲げたり伸ばしたりしてみても、飛び込む前と変わった感じはなさそうに思う。

「大丈夫そう?」

念を押すように聞かれたので、素直に首を縦に振った。不服申し立てするような要素は見当たらない。

「じゃ、行くかぁ」

お兄さんが胡坐の足を伸ばした。恐ろしく足が長い。化け物と戦ってたときから背が高いなとは思ってたけど、頭身が冗談みたいなつくりだ。追って立ち上がった弟さんも同様で最早、怖い。スイトジンとやらは、みんなそうなの? だとしたら私、相当場違いなんだけど。

「行くって、あの、どこへ?」

「あれ、言ってなかったの? 兄様」

「げに? あれぇ、そうだっけぇ? それはすまんねぇ」

「もう。……あのね、ミコサマのところだよ」

「巫女?」

「この国を統べるお方だよ。帝のご息女さ」

とんでもない補足説明がきた。ミコってあれか、神社じゃなくて皇室のお子様のほうか! わぁお、そんな人の御前に立つ日が来るなんて。想像したこともない。

「ここは宮中の医務室なんだけど、君が意識を取り戻したら奥の間へお連れするようにと言われてる」

なんてこった、ここは貴族の屋敷だったのか。広いしキレイだし言われてみれば納得だけど、でもそれにしては随分と質素だな。そんなものなのかな。

「どーうしてもぉ、お主に頼みたい仕事があるんだよねぇ」

と、ニコニコ顔のお兄さんに言われて、一気に怖くなってきた。不穏な気配ってやつだ、これ絶対。

異端の者が迷い込んできたとして、奴隷にでもされるのかな。拒否したら処刑とか? もしくは、元居た場所へ強制送還? どれだろうと最悪だ。

もしかしたらここは地獄では? 自殺なんてしようとしたから、閻魔様……じゃなかった、ミコサマの裁きを受けることになったとか。拷問でもされるのかな。でも今、仕事をしてもらうって言ったよね。いわゆる肉体労働をしろってこと? 分からないけど、殺されるわけじゃないなら、偉い人の奴隷として身体が朽ち果てるまでこき使われるに違いない。

わりとつらいことの多い人生だったと思ってたけど、死して尚、そんな地獄に突き落とされるなんて。追い打ちをかけるにも程があるでしょ。

「立てる? ちょっと失礼するよぉ」

こちらの困惑をよそに、お兄さんは私が布団から出やすいよう屈んで手を差し伸ばしてくれた。その手を取って立て、ということなのだろう。分かるけど、だからと言ってそうそうすぐに決心はつかない。

弟さんはいつの間にやら、引き戸に手を掛けていた。西洋の執事みたいに腰を折って、笑みを湛えてこちらを見ている。さぁどうぞ、この奥へお進みくださいと掌で道を示唆しているようだ。

奴隷予備軍のはずなのに、どこぞのお姫様みたいな扱いで余計に気味が悪い。この後労役に就くんだから、今ぐらいは甘えさせてやろうという配慮なのかな。もしくはそれを隠して、後から一気に絶望に叩き落そうという意図があるとか?

動悸が激しくなってきた。震えが止まらないけど、どうにかこうにか布団から足を出す。逃げるにしても、大人しく付いて行くにしても、ここで立たなきゃ道はない。

脇に置かれたスニーカー、あれ、履くべきなのかな。2人の足元はどちらも足袋姿だ。靴は履いていない。室内だし、そりゃそうかもな。というか、この人たちはジャージで戦ってたあのときも、草履とか足袋だったのかな。ちょっと気になる。もっとちゃんと見とけばよかった。

靴を取ってと言う勇気もなく、足袋姿の2人に倣って靴下のまま畳を踏む。

想像よりもベッドの背が低い。よく見たらベッドじゃなく、小上がりのスペースに布団が敷かれていただけらしい。こういう和室、友達の家にもあったな。見たことある。

差し出されていたお兄さんの手を取った。ひゃっと声が出るほどの冷たさに細胞が縮み上がる。さっきまで氷水でも触ってたの? やっぱり死んでるんじゃないの? このヒトたち。きっと、私もじきに温度を失うのだ。なんて思ったら、

「やぁ、外海人は体温が高いなぁ。存外気持ちがいい」

と無邪気に言われて、妙に恥ずかしくなった。羞恥責め? これも地獄の始まり?

これから奴隷のように拘束……されるんだろうけど、なぜだかお姫様みたいに、美形2人にエスコートされながら部屋を出る。茶色とも黒とも言えない色の細長い廊下が、左右に伸びていた。真ん中には、畳の縁のような装飾のある線。床もその飾り線も、ニス塗りすぎじゃない? とツッコミたくなるほど艶やかで、埃一つ見当たらない。そのうち、つるんと滑って頭でも打って、今度こそ終わりにできるのでは……と思うぐらいにテカテカだ。

実際に歩き出すと、心地良いほどのブレーキが効いていた。シミもキズもない白い壁を含め、完璧に掃除が施されているだけのようだ。

すごいな、広さといい清潔さといい、確かに王宮とか御殿って感じだ。金、銀、財宝的な、煌びやかな宝飾品は見当たらないけど、イイトコのお屋敷なのは間違いなさそう。こんな長い廊下、お寺とかホテルでも見たことないや。

左はお兄さん、右は弟さんに挟まれて長い一本道を歩く。頭の上で会話のラリーが繰り広げられてるけど、何を話しているのかはちっとも理解できない。多分、頭が処理を拒んでるんだ。処刑台に上っていく人って、こういう気持ちなのかな。マリー・アントワネットに今もし会えたら、めっちゃ共感しますって言いたい。フランス語は分からないけど友達になれる気がする。

どうしよう。死のうと思ってたはずなのに、また急に怖くなってきた。あの生活から抜け出せるならそれでいいって思ってたはずなのに、やっぱりダメだ。もっと恐ろしい毎日が始まるとしたら? そんなの絶対無理、嫌に決まってる!

死ぬまで労役? じゃ、もし今既に死んでるとしたら、永遠に労役? 冗談じゃない。

泣きたい気持ちのせいで足取りが遅くなってきた。両サイドの2人と、少しずつ進む距離にズレが生じてきた。……逃げられるかもしれない。どの道辛い目に合うなら、できる限り抵抗するべきだよね? でも2人とも身体能力高そうだし、すぐ捕まってもっと酷い目に合うかも。いやでも着物姿だし、遅れてる私に気付いてないし、上手くすれば撒けるかもしれない。後方も長い廊下だったけど、行き止まりではなかった気がする。回れ右してみたら、案の定、遥か彼方に丁字路が見えた。逃げるなら今が最後のチャンスかも。GOだ、頑張れ、私の足。

「あ!」

後ろでどっちかが叫んだ。

「あ?」

ちょっと間延びした声が続く。弟・兄の順番だな、きっと。

「あー、げに? そういうことするのぉ?」

「ちょっと、ね、ちょっと待って!」

どすどすと雅やかさのない足音が追いかけて来る。ピッカピカの廊下を靴下で走るの、怖い。でも捕まるのはもっと怖い。

「どこ行くのぉ?!」

お兄さんの声だ。

「分かりません!」

私はいったい、何を答えているのか。

「だろうねぇ!」

何のこっちゃだ。

「だったら、止まってよぅ!」

ごもっともですが、すみません、止まれません。足が嫌がってるんで。

突き当たりが近い。右へ行くか左へ行くか、多分向こうは二手に分かれるだろうから決めとこう。左!

……って、あれ。もしかして、どっちに行っても同じ?!

踏み出した左の道は、階下へ繋がる螺旋階段。ちらっと右の道を確認したら、まったく同じような階下へ向かう螺旋階段があった。おまけに、行きつく先も同じホール状の場所。なんてこった。どういう造りよ、これ。無駄すぎるでしょ!

訳の分からない階段をひたすら下る。一段ごとの段差がとても小さい。着物の人でも走りやすそう。まずいなぁ、追い付かれちゃう。10段抜かしぐらいで行けないかなと、試しに飛んでみたら意外とキレイに踊り場へ着地できた。

側壁に肖像画が飾られている。これまでの殺風景さが嘘みたいな量。どれも平安時代のお姫様っぽい女性だけど、若いものから貫禄ある妙齢のものまでさまざまだ。

「まな、まなまな!」

「出ないでよ、絶対!」

後ろの声と足音が騒がしい。まなって誰よ。出るって、どこに? ドアでもあるの? 駆け下りながら階下の様子を伺う。

あった。何となく外に出られそうな雰囲気を醸し出している、観音開きの戸が見える。

中央には2つ、金色の、猫の手みたいな形のレリーフ。あれが取っ手かな? そうこうしてる間に階段を降り切ってしまった。足を止める時間がないのと同じで、考えている暇もなさそうだから開けてしまおう。追手さんが出るなというなら、出るのがベストな気もするし。

「後生だから、ねぇ、待って!」

そう言われると申し訳なさに襲われるから言い方ってすごい。でも恐怖はもっとものすごい。ほとんど無意識で猫の手の取っ手を握り、押した。漏れてきた光の強さに、本当に今は昼間なんだと実感した。

昼間は昼間だけど、それよりおかしい。眩しい、暑い、どう考えても今の時期の―― 3月の気温じゃない。太陽もやけに赤いし、何だか変だ。でも、それ以外はごく普通の「外」に思える。花も草木も、空気だってもちろんあるし、鳥居みたいな巨大な朱色の建造物も見える。何となくだけど、あの神社にある『水天門』とよく似てる。

ここが海の底だって? そんな馬鹿な! 私の生まれ育った町ではなさそうだけど、でもただの日本でしょ?!

行く宛はないけど、とりあえず出るしかないということだけは分かっている。また何か言われた気もするけど、もう戻れないよここまで来たら。

一歩踏み出した「外」は、真夏みたいに思えた。かと思えば、すぐ右手に広がっている花壇では菊が元気に開花している。季節感がバグってる。

鳥居らしき建物に向かって走ろうと思ったまではよかった。けど、ダメだった。へろへろのふらふらで、身体が拒否したのだ。休憩しないと動けそうにない。

止まると胃が痛んだ。そういえば何も食べてないし、喉も渇いている。最悪だ、こんなに根性ないなら、逃げるべきじゃなかったかも。

自分にがっかりしながら一つ、溜め息を吐いた。ら、どこかから歌が聴こえてきた。優しくて柔らかい、女の人の声。しかも有名なボカロ曲! ……てことは、やっぱりここは日本のどこか?!

謎と恐怖も増したけど、現状打破への希望も出てきた。会いたい。話したい。どこにいるんだろう? 菊の香りと一緒に流れてくる気がするから、そっちに歩けばいいのかな。

花壇というより畑みたいなサイズの菊の群れを横目に進めば、宮殿の角に合わせるように花が途切れた。道がカーブしている。この先にいる? 角を曲がったら

「ひゃっ!」

と叫ばれた。女性がいる、とこちらが認識するよりも先に、歌が途切れて悲鳴が響いた。途端、思いっきり水が飛んできた。

「わっ?!」

「わ、わー! すみません、すみません!」

どんっと、女性の足元にシャワーヘッドが落ちた。水やり中だったのね、こちらこそ驚かせてごめんなさい。

「いえ……大丈夫、です」

むしろ少し冷えて気持ちいい。濡らしてくれてありがとうと言いたいくらいなんだけど、申し訳ないことにそこまで言えるほどの体力は残ってない。

「すぐ、拭くものお持ちしますね」

「あ……」

そんなのいいです、それより聞いてくださいと言いたかった。けど息が整わないせいで言えずじまいになり、女性はどこかへ消えてしまった。

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