竜宮城でDIVA

真栄田ウメ

第1話

海とは不思議なもので、心持ち一つで見せる色が変わる。

私が落ち込んでいようといなかろうと、太陽はお構いなしにぎらぎらしてるし、天気は勝手に変わる。バスや電車も、いつだって時刻表通りに走ろうと必死だ。私の感情に寄り添ってくれるわけもなく、平気で置いてきぼりにする。

本当は海だって、ただ月の満ち欠けに合わせて波を揺らしてるだけに過ぎないってことぐらい、分かってる。けど、なぜだろう。その色が明らかに違って見えるのは。

この3年間で、海の色はまるっきり変わってしまった。あの頃……まだ私にも友達がいて、夢があって、毎日がそれなりに楽しいと感じていた15の頃と、今この瞬間、眼下に広がっている海とが、同じロケーション下にあるものとは到底思えない。

今が深夜だから? まだ、夜間は肌寒い時期だから? そんな理由で青を失ったわけじゃないってことは、私自身が一番よく分かっている。

水の底に都があると思わせてくれていた関門の海が、たった一晩で青から黒に変わった。琵琶法師が『平家物語』に残してくれた最後の希望ですら、全否定したくなるほどの変色具合だ。

実際に色が変わったわけじゃない。私の目が勝手に、海をグレーの水溜まりに置き換えるようになってしまっただけだ。

わずか8歳の安徳天皇は「水の底にも、都がありますよ」と説き伏せられて入水自殺することになったらしいけど、そのとき関門の海はどんな色に見えていたんだろう? 青く見えていたらいいな。今の私みたいに、鈍色にしか見えずにいたんだとしたら可哀相だ。水底の都に希望を馳せた、前向きな最期だったらいい。


竜宮城みたいな水天門と、関門の海に挟まれた国道9号線を横切って、海岸線のフェンス沿いに海を見下ろしながら歩く。昼間はひっきりなしに車を通している道路だけど、今の時間帯は静まり返っている。時折、大型のトラックが思い出したように走っていくだけで、人はおろか車の姿もない。これなら、安徳天皇と同様の最期を遂げようとしても、邪魔は入らないだろう。

今からここで、私は儚くなる。そのために家を抜け出してきた。遺書も残してきたんだ、もう戻れない。けど大丈夫、まだ誰にも見咎められてないから決行可能だ。

1.5メートルほどしかない、低いフェンスから身を乗り出して潮を確認する。引き潮のときにはある砂浜が、今夜は鳴りを潜めていた。砂浜へ続く階段も、普段より数段少なく見える。下段のほうが満ちた海に飲まれているからだろう。完璧な満ち潮だ。このままフェンスを飛び超えれば、海の藻屑になれるに違いない。

友達も、家での居場所も、夢もなくなった。この状況下で生き抜く理由なんてある? ないでしょ、だから死ぬの。

心残りは、もう歌えなくなることだけど。そんな思いもきっと、肉体と一緒に泡となって消えてしまうだろう。針の筵みたいな毎日を耐え忍んで生きるより、そのほうがずっとラクでいい。家族だってきっと、それを望んでいるだろうから。前向きな最期ということにして、この生涯を終わらせるの。

ぐるぐる、私を照らしては逃げていく灯台のサーチライトが眩しい。九州から緊急アラートを知らせているみたい。これが舞台照明だったらいいのに。スポットライトだったら、こうして歌うのに。


戦うのさベイビー、命果てるまで。声を上げて立ち向かう気力の限り。


灯台のライトが止まったり、警察や海上保安官が来たりする気配はない。お前のことなんか照らしてねーよ、と灯台にからかわれている気がして泣けてきた。そんなこと分かってる、どうせ誰も私の話なんか聞いてくれない。歌だって聴いてくれるわけがない。嫌というほど分かってる。だから死ぬんだもん。

でもいいじゃない、最期だから。冥途の土産とやらに、少し歌わせてよ。

野次を飛ばしてくるサーチライトに、心の中で一人、懇願する。死への恐怖がまだ多少あるせいか、思ったようには声が出ない。それはそれで、ラストコンサートも満足にできない度胸なしだとライトに笑われる一因になっている気がして、一層泣けてきた。別に誰がいるわけでもないし、涙も鼻水も垂れ流しだっていいよね。ただ繰り返し、同じフレーズを口ずさむ。だって、これしか出てこないし。極限状態ってやつなのかな。

この曲好きだったんだよな。『田舎のJCが歌ってみた』シリーズでUPした動画の中でも、この曲が一番、再生回数多かったし。評判も良かったから、やっぱりコレが私にとって、一番の得意曲だったんだと思う。きっと最期を飾るのにも相応しい曲だろう。

今日、これを最後に、もう二度と歌えなくなるのか。そう実感すると、心臓がぎゅうっと痛くなってきた。わざわざ海に飛び込まなくても、弁慶みたいにこのままフェンス上で立ち往生できる気がする。

チカチカと、照らしては逃げるライトだけが、私の最後の声を聞くともなしに聞いてくれている。私がいなくなっても、私の歌は残るのかな。気まぐれでも何でも、あの動画をまた再生してくれる人は出てくるのかな。私が消えても、私が愛した歌は残るのかな。だといいな。

辞世の句ならぬ、辞世のコンサートも一区切りついたし、決心もついた。誰かが通りかかったり、気付かれたりする前に水の底の都へ行こう。

細いフェンスの上に立ち、目を閉じる。ここで歌えないなら、新しい世界で歌えばいい。大丈夫、もう、ここに未練はない。さん、に、いち―― 。

―― ゼロ、で飛び込もうとしたはずなのに、一呼吸先にフェンスの下からぐい、と腕を引かれた。驚くよりも一瞬早く、身体が斜めに傾いた。おかげであっさりとフェンスから落っこちた。ただし、海ではなく、陸地のほうへ。

奇跡的に足から着地できた……と思ったら、失敗して右足を捻った。結果、少し遅れて右半身をしたたかにアスファルトで打ち付けるはめになった。ジャージの上からとはいえ、小石がザリザリ、膝や太ももに突き刺さってくる。血が出るような鋭い感じのやつじゃなくて、鈍くて、地味で、不愉快なタイプの痛みだ。手のひらにも同じ鈍痛を感じて、それを確認しようとした分、起き上がるのが遅れた。目の前を何かが高速で通り過ぎた。何だろうと思うよりも先に、揺れるサーチライトが【何か】の正体を教えてくれた。

剣だ。

その手の武器の専門家じゃないから、これがはたして、本当に『剣』と呼ぶものなのかどうかは分からない。けど、包丁やノコギリとは明らかに違う、とてつもなく鋭利な刃を持った鋼の板であることは間違いなかった。

なるほど、私の腕を引っ張ったのは、変質者か猟奇的な殺人鬼か、どうやらその類の人物らしい。

ヤバい、怖い。

でも確実に死ねるなら、ちょうどいいのかもしれない。いっそ、ほとんど何も見えないこの暗がりの中でさっさと終わらせて欲しい。私が混乱しているうちに色々やってくれるなら、それでいいです。自殺者ではなく、不可解な事件の犠牲者として人生を終わらせるのもアリかもしれないし。

ただめちゃくちゃ怖いので、できたら一思いにお願いします、異常者さん。

大人しく仰向けになって目を閉じる。剣が振り上げられる気配がして、思わず瞼に力が入った。しゅん、とこちらに向かって空中を飛んでくるのが分かった。斬られるのか、そう思ったら喉がひり付いて息ができなくなった。1.5メートルくらいの高さからコンクリートに落ちただけでも痛いんだから、斬られるのはもっと痛いんだろうな。

……と、思ったのに。痛みはちっとも襲ってこない。バッサリいかれると、逆に大丈夫とか? にしても静かだ。もう私、本当は死んでる?

色々気になる。ので、恐る恐る強張りを解いて目を開けた。

例の剣がうっすら見えた。けど私を貫いてはいない。眼前に切っ先を向けられてはいるものの、そこで止まっている。いやちょっと、やめてよ、逆に怖いから。一気にスパっといっちゃって、ってお願いしたじゃん! などと言えるわけもなく、吹き出してきた冷や汗と早まる鼓動に眩暈がした。

途端、下腹部の上にどさっと何かが降ってきた。

違う。何かじゃない、【誰か】だ。誰かに跨られてる! どういうシチュエーションなの? これ。

下腹部の圧迫感と気持ち悪さのために、ぐえっとカエルみたいな情けない声が出た。一緒に胃酸が吐き出てきそう。もうダメだ、やっぱり怖い。SOSを叫んだほうがいいのかもしれない。

でももしここで大声を出して、他の誰かが来たとして。警察沙汰になったり、大騒ぎになったりしたら? ……そのほうがずっと恐ろしい気がする。想像しただけで冷や汗が増えてきた。そっちのほうがもっとウンザリだ。どうせ今宵捨てようと決めた命だ、このまま静かに、成り行きに任せよう。どうにでもなればいいと悟りの気分で【誰か】を見上げた。

こちらが顔を確認するよりも先に、【誰か】にジャージの襟を掴まれた。乱暴に引き寄せられて、首が後ろにぶんっと振られる。

「いたっ!」

整体みたいな音が鳴った。寝違えたときの、あの最悪なしつこい痛みが走って、つい声が出た。次は殴られるのかもしれない。少しでも痛みを軽くすべく、顔の筋肉に収縮命令をかけて再度目を閉じた。

ぐわんぐわんと、【誰か】は私の頭を揺さぶる。殴られはしなかったけど、首は前後にひたすら振られている。腹話術の人形みたいな扱いだな。訳が分からない。殴らないの? 斬らないの? と思ったら、横でごしゃんと大層な音がした。今度は何事よと目を開ければ、アスファルトの上に剣が転がされていた。

何もかもがさっぱり分からない。ちんぷんかんぷんだ。目線を、【誰か】の手から顔へと少しずつ進めていく。顎の辺りまで来たとき、ちょうどサーチライトが【誰か】の顔をさっと照らしてくれた。

初めて、【誰か】と目が合った。

思ってたんと違う! 何だこのミヤビな人は!

夜目にも分かるほど色の白い、儚い感じの男の人。短く真っ直ぐ切り揃えられた前髪は失敗しているように見えるけど、もしかしたらオシャレなのかな。

しかしよく見れば服装はジャージだ。何だか似合ってない。肩で息をしている姿も、物騒な武器もミスマッチだ。こんな荒々しいことをする人には見えない。平安貴族とか、公家とか。よく分からないけどとにかくそういう、どこぞの高貴な御方みたいな顔立ちなのに。

変なの、こんなキレイな人に殺されるなんて。でも考えようによっては、ちょっとラッキーかも?

前向きな最期を目指す身らしく、馬鹿なことを思いながらもう一度目を閉じる。と、またしても思いっきり前後左右に揺さぶられた。揺れ幅が大きすぎて、後頭部がアスファルトにぶつかった。

「――っ!」

さすがにイラっときた。睨み付けてやろうと目を開ける。飛び込んできた光景は猟奇的な笑顔……でも、突き立てられる剣の先端……でもなく。何かを必死に訴えて口パクしている美形の顔という、シュール過ぎるものだった。

どこからどう見ても絶叫してそうな表情なのに、声が一切聞こえてこない。私の耳がおかしくなったとか? でも波の音は分かるし、トラックの走行音も背後から聞こええてくる。風の音もするけど、この人の声は聞こえない。そういえば、息遣いも明らかに荒いのに、ぜえはあいう音も聞こえない気がする。

薄気味悪さから黙っていたら、ばちんと両頬を叩かれた。痛いし怖いし訳わかんない。オニーサン、何なの? ちゃんと大人しくしてるから、誰にも言わないから、何でもいいから静かにやっちゃってよ。

目尻が湿り気を帯びてくるのに比例して、美しい顔が近付いてくる。キスでもされるのかと身構えたけど、そうじゃなかった。口パクが始まっただけだった。口をとん、とん、とん、と3回動かし、噤む。少しインターバルを置いて、再び3回、口が動いて止まる。他に何をされるわけでもなく、3文字分だけ唇が動いては、一文字に結ばれる。これを繰り返すばかりだ。そしてどうやら、口の動きはさっきからずっと同じらしい。

「……う?」

一文字目の唇の形をなぞるようにして、聞いてみた。すると、彼はほっとした様子で素早く何度か頷いた。やった、当たった! ちょっと嬉しい。彼も微かに喜色を見せて、また口を大きく開け直した。

「えっと……か?」

残念、ノーのサインを寄越された。

「じゃ、た?」

首の振り方が縦に変わった。そして、いったんきゅっと閉じた口を、今度は少し縦長に開いた。

「え、ですか?」

ふるふるぶるぶる、激しく頷く。首が取れるんじゃないかと心配になるほどの勢いで頷く。さっきから所作と見た目がどうにも一致しない。ルックスと中身がバグった人だな。

「う、た、え……って、言ってます?」

3文字分を続けて、聞いてみた。ようやくビンゴしたらしい。彼は、頷いたり拍手したり、手指でマルを作ったりと、全身全霊でイエスの意思表示をしてきた。通じたことで満足したのか何なのか、彼は私の上から退くと、落ちていた剣を握った。切っ先からどろり、何かが流れ落ちた。咄嗟に血かと思ったけども、サーチライトが照らしたその色は青い絵の具のようだった。見覚えのある色、既視感のある夜。この時間に出歩くのは、やっぱり良くないのかもしれない。

何が何やらさっぱり分からないものの、とりあえず歌えと。そう言われたらしい。

といっても、何を歌えばいいのか分からない。この状況下でそんなポンポン、いろんな曲を思い浮かべられるほど、私、適応能力高くない。今しがた歌っていた、アレでいいのかな。


「た、たかう、のさべいびー、いの、ち、はてる、まで……?」


小さめの声で、試しに歌ってみせる。彼は顎を引いて、サーチライトが彼を照らすタイミングに合わせて目くばせらしきものをくれた。いや、いきなりそんなことをされましても。どういう意味ですか、この曲でOKってことですか? 全然分かりませんけど?!

こちらの戸惑いなどどこ吹く風で、彼は闇に向かって大きく剣を振った。直後、【何か】が動いたのが分かった。人間じゃないことだけは分かる。でも犬なのか猫なのか、何なのかは分からない。サーチライトもここぞとばかりに意地悪く、それを避けるようにしか動いてくれない。私のためにサーチする気は毛頭ないらしい。うん、知ってた。

人間ではない【何か】と、青い絵の具にたっぷり水を垂らした後できる、海よりずっと薄い「水色」。忘れようにも忘れられない記憶が、関門海峡の潮流みたいな激しさで押し寄せてくる。もう嫌なのに、すべて消してしまいたかったのに。そのために死のうと遺書まで書いて家を出て来たのに。どうしてまた、思い出すような場面に出くわしてしまったんだろう?

悔しさと忌々しさに戦慄く身体を突如、後ろから現れた腕が抱きしめた。あまりにも自然だったから、一瞬、自分の腕かと思ったけど違った。自前の腕のほうは、別の2本にすっぽり覆い囲まれて、ぴくりとも動かすことができずにいる。

何てこった、どうやら【新しい誰か】がいるらしい。目の前で闇と戦う彼とも、【何か】とも別の誰か、が。

前触れゼロから未成年者をバックハグするとは。誰だか知らないけど、これは変質者確定事案だ。警察案件だけど、どうしたものか。

悩んでいるうちに拘束が緩くなった。と思ったら、上がってきた手に顎を抑え込まれた。首を絞められる! ……と思ったのは勘違いで、ただぐいっと頭ごと、後方へ倒されただけだった。ジュース缶のプルタブじゃないんですけどね、私。

【新しい誰か】の顔が、上から近付いてくる。サーチライトさん、お仕事です。外灯さんも協力してください、私も視神経をフル回転させて顔を見ますからと願ったら、ライトは今度こそ仕事をしてくれた。

逆さまからでも、灯りの少ない田舎町の闇夜でも分かるほど、白くてきめ細かな肌の男性だった。陶器のような、とかよく比喩で聞くけど、それよりも絹ごし豆腐とか杏仁豆腐みたいと言ったほうがしっくりくる。柔らかそうで、弾力とか瑞々しさに溢れてる。口パクの彼に続いて、恐ろしく端正な顔立ちだ。細面の美青年って、こういう人たちのことを言うんだろうな。

そういえば、剣を握っているあの彼とは、単に美形って意味だけじゃなく、よく似てる気がする。けど前髪は分けてあげたらいいのに、と思うほど長い。その髪を邪魔くさそうに斜めに流すと、歌舞伎の見得みたいな目線を寄越してきた。露わになった眉毛は、女子高生ばりにがっつりと“描いて”ある。そういえば、前髪切り過ぎの彼も眉を描いていた気がする。だから似てると思っちゃったのかも。

見得を切ったまま、彼もまた口を3度、動かした。似てるのは見た目だけじゃなく、行動もらしい。あなたも口パクですか、疲れたし意味わかんないよ。流行りなの?

これは夢? はたまた気付いてないだけで、私は既に死んでるとか? 混乱もピークに達して長いし、そろそろ限界なんだけど。

一人苛立ったり恐怖に震えたり焦ったりしても、取り巻く景色も現状も、すべてがちっとも変わる様子はない。バックハグされたまま、酸素を求める魚みたいに口をぱくぱく動かし続ける美形の顔を見せつけられるばかりだ。サラッサラの髪が、絹ごしの頬に刺さっては流れ落ちていく。何度も頭を邪魔くさそうに揺らしては、その都度、改めて私と目を合わせて唇を動かし続けた。よっぽど、口パクでしか伝えられない、けど伝えたい話があるらしい。

「……おっと?」

答えなきゃという謎の使命感で考えてみたけど、どうやら間違いだったらしい。首が横に振られた。

程近くの闇でまた、【何か】の蠢く気配がした。わずかに遅れて、あの豪奢な剣が空間を切り裂く音がする。気になってそちらを向こうとしたけど、顎を固定されているせいで身動きがとれない。首は痛いし、変な汗を掻いているせいか身体が冷えて仕方ない。オニーサン、いい加減離してよ。それからちゃんと話してよ、聞くから。

こちらとしてはそう言いたいけど、彼的にはきっと、離して欲しければ口パククイズに正解せよ、ってことなんだろう。致し方ない。

「ぽっと? どっと、そっぽ、ろっと、ろっこ……?」

唇の動きを真似してみたけど、どれも首を横に振られるばかり。近い気はするんだけどな。

「あの、もっと、ないですか? もっとヒントとか、こう……」

ダメ元で尋ねてみる。と、ぱちんと指を鳴らされた。ご名答! と言われた気がした。実際には誰も、一言も言ってはくれなかったけど。

マンガみたいな量の睫毛をばさばさと上下させて、ぷるぷる杏仁プリン肌の彼は口許に笑みを浮かべた。そして、イイコ、イイコと言うように頭を撫でてきた。

「……え、え?! あ、当たり?」

首が縦に振られた。つまり、

「……あ! そうか、“もっと”……?」

もっと、うたえ、ってこと?

聞いてみた。頭上の彼は笑みを深くして、大きく頷いてくれた。そして、さぁどうぞとでも言わんがばかりに掌を広げ、歌唱を促してきた。

そんなことを言われても、という気持ちと、それなら喜んで、という気持ちと。両方が芽生えたのは事実だ。

勝ったのは、後者だった。

促されるまま一つ息を吸い込むと、背筋を悪寒が駆け上がってきた。暗闇のどこかから視線を感じる。人ではない【何か】の視線だ。獰猛な生き物が牙を剥いている気がしてならない。視線の糸を断ち切るように、剣が空を走った。我が身を狙う何者かの目を、眩ませてくれた気がした。

全身の毛穴が震えている。身の危険が迫っていると、第六感が警告してくれていた。変質者としか思えない危ない2人組が、得体の知れない【何か】から私を守ってくれている? 何これ、どういう展開?

何もかも訳が分からない。でもって、歌えと? この状況下で?

無理でしょと言いたいところだけど、どうせ今日で最期の命。それならいっそ、記念に歌わせていただこう。乞うてもらえるなら、喜んで。


戦うのさベイビー、命果てるまで。声を上げて立ち向かう気力の限り。

踊るのさスウィーティ、燃えて尽きるまで。この世界に轟かす自分の誇り。


合いの手のつもりか、杏仁プリン肌の彼が手拍子をくれている。申し訳ないけど微妙に合ってない。この曲知らないのかな、有名な曲だと思ってたけど。あんまり音楽とか聴かない人なのかもしれない。

それでも杏仁さんは、ニコニコしながら聴いてくれている。

合いの手ではない、剣が空を切る音もびゅんびゅん聞こえてくる。パッと見では黒い空間を斬っているようにしか見えないけど、そうじゃないことをサーチライトが教えてくれた。黒い、毛の長い犬のようでいて、犬ではない【何か】だ。知っている。見たことがある。3年前に1度だけ。

全身が鳥肌だらけになってきた。それでも歌うことはやめない。聴いてくれる人の姿が見えたから。人生のラストソングになる1曲を、オーディエンスの前で披露できるなら、きちんと歌い上げたいと思った。

誰かが来ても、騒ぎになっても、フェンスの向こうに飛び込めば全部終わりにできる。大丈夫。いざとなったらいつでも走り出せばいい。

そう開き直って歌うのは存外、スカッとするものだった。

けどラストのサビを待たずして、手拍子は拍手に変わった。嘘、もうおしまい? 興が削がれるんだけど。リクエストしてきたのそっちなんだから、せめて最後まで聴いて欲しいのに。

ちょっとがっかりしながら呼吸を整えると、杏仁さんが微笑んで全力で拍手をしてくれた。複雑な気分だ。

でも、変なの。ついさっきまで心臓が縮み上がるくらいに怖かったはずなのに、今は気恥ずかしさと嬉しさのほうが圧倒的に上回っている気がする。

軽く頭を下げると、【何か】が「いた」であろう方角から重たい金属音が聞こえてきた。水色の絵の具を滴らせる剣が、謎の生命体から抜き出されている最中だった。生き物だったらしき類の【何か】は、もう、ぴくりとも動く気配がない。怖さ半分、安堵半分といったところだ。

そういえば、この2人だけじゃなく、今仕留められたこの、【何か】の声も一切聞いていない。声の出ない動物なのかな、うさぎみたいに。

見たい、見たくない。知りたい、知りたくない。どっちつかずのモヤモヤが、胸の中で葛藤し始めた。サーチライトが控えめに掠め照らしていく【何か】を、刮目して見るべきなのか否か。答えの出ないうちに、ライトが真っ直ぐ当たるポイントまで【何か】の亡骸が動かされた。

「ひぃっ……!」

気持ち悪さで引き攣った悲鳴が出た。

形容しがたい姿の【何か】だった。ぱっと見で言うなら、大きめのハウンド犬みたいにも思える。長くて黒い毛並みは、まさにハウンド犬のそれと同じだ。でも後ろ足とと腹部には毛がない。代わりに、吸盤がびっしりくっついている。身体は犬や馬のようなのに、お腹と後ろ足はタコとかイカみたいだ。図鑑でもネットでも、当然ながら見たことのない生き物だ。

鵺だっけ、ああいう妖怪の類? だとしたら一大事だ。世界中を巻き込んでの大騒ぎになる気がする。やっぱり警察を呼んだほうがいいのかな。でもスマホも持たずに出てきたし、第一私は、これから死のうとしていたんだ。せっかく“あの”騒ぎから解放されて、今まさにラクになろうとしているのに。もう一度、新たな騒動に巻き込まれるなんて。そんなの、絶対、まっぴらだ。

……とはいえ、気になるものは気になる。この一連の事件が何なのか、真相を知らずに逝くのは歌えなくなることと同じくらい心残りだ。

だから、

「あの、これ、は……?」

と、私よりは状況を把握していそうな2人に尋ねてみた。

地面に投げ出された化け物の死骸の下で、水色の水溜まりがぼたぼたと大きくなっていく。青い血の化け物か。本当にタコかイカみたい。

広がり続ける水色の血の海に気を取られた瞬間。誰かが走り出した。警察が来たのかとも思ったけど、違った。先刻まで拍手をくれていた杏仁プリンの彼だ。5分前、引きずり降ろされたフェンスの上にさっとジャンプして上ると、彼はこちらに向かって両手を合わせた。ゴメン、だかアリガトウ、だかのジェスチャーに思える。

くい、と顎を上に捻った。今度は私ではなく、もう一人への合図だったらしい。前髪ぱっつんの彼が、右肩に担いでいた剣をフェンス上の彼に差し出した。青絵の具がボタタタタっと滴り落ちた。

この色の雨が降るところに、出くわしたことがある。デジャヴなんかじゃない。あの日の夜見たのも、コレだ。

そう確信したものの、だったら何だというのだろう。そもそも今見ているコレも、現実なのか否か。今一つ自信が持てないというのに。

剣に続いて、化け物の死骸もフェンス上の彼へと手渡される。その動きに合わせて、水色の血が滴り落ちる。これも返り血っていうのかな。全身に浴びている様子なのに、前髪が短いほうの彼は気にもせず、フェンスを軽々と上った。

怒りを伴う確信と、まだ残る恐怖のせいで心臓がどくどくうるさい。その音に気を取られていたら、前髪ぱっつんの彼がこちらを振り返った。

我知らず、ぎくりと肩が上がる。ヤバい、消される?!

と思ったのは、まったくもってお門違いだったらしい。彼はまるで西洋の執事みたいに片手を胸元に置き、黙礼を寄越した。訳も分からず反射的に会釈を返す。顔を上げたときには、彼らは既に、宙に浮いていた。

といっても、魔法使いみたいにふわっと浮かび上がっていたわけじゃない。フェンスの下へ飛び降りようとしている、その真っ最中だったのだ。

「え……?」

嘘でしょ、何の答えももらえないの?

これじゃあ己の混乱を解く術を見付けられない。しかも、飛び降りようとしている先は地上ではない。暗くて、潮流が速くて、都の見えない関門の海だ。

「待って、待って!」

そっちは海よ、死ぬよと思いながら、慌ててフェンスに駆け寄った。おかしいな、自分だってつい、5分くらい前まで死のうとしていたはずなのに。他人の飛び降りを止めようとしているとは。

自虐的な気分と戦いながら、海を覗き込む。水が跳ねる音は聞こえなかったけど、彼らの姿もない。けど、どこに消えたのかは直感的に分かった。

穴だ。

海に、穴……いや、正確には鍵穴状の「光」が、見える。波の際から水中の、奥深くへと水へ潜るようにして、一直線に伸びる光だ。いくら波が揺れても、その直線が影響を受ける気配はない。ブレたり消えたりすることなく、ただ静かに、強い光を放っていた。

あの光の中に彼らはいる。理由は分からないけど、間違いない。

だって、こんなの、見たことない。あの光輝く先へ、私も行ってみたい。そう思ったときにはもう、足がフェンスから浮いていた。


―― さようなら、弱いだけの毎日よ。


十八番だった曲の、ラストワンフレーズを脳内でリフレインしながら光る鍵穴目掛けて海に飛び込んだ。何かがあってもなくっても、これできっと、弱いだけの自分にさようならできる。臨み通り、前向きな死を迎えられた気がして少し、唇が緩んだ。

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