retribution3
*(三)
白と金を基調にしたドレッサーは、微かな埃さえなく、丁寧に拭われている。一片の曇りもない鏡の中で、妹の姿をした僕が苦い顔をしていた。
纏っている衣服はこの宮殿に来た時に着ていたものだ。椅子に座った状態で、ベストのボタンを留めてから、紫苑色のフリルを何の気なしに指でなぞった。膝の上には、エドウィンからもらったストールが広げられている。
ここに来てから与えられていた衣服は布切れみたいなものだった為、久しぶりに暖かさを感じていた。メイドに髪を梳かれながら、ストールをそっと持ち上げる。冷えた頬を柔らかな生地に埋めれば、少しずつ熱が生じていく。
幽かな余香に瞼を下ろす。酒場で過ごしていた時、彼の肩にストールをかけたことが数回ある。これを羽織ったまま彼にくっついたことも、何度もある。だからだろうか、薫然と思い出が溢れて、夢許りの彼を感じられた。
「メイ様、終わりましたよ」
「あ、りがとうございます」
鏡越しにメイドが微笑む。僕の長い髪は項で一纏めにされていた。引き攣った返しをしてしまうのは、不安が肺を覆っているからだ。
宮殿に来てから、着替えや入浴、食事の際は親切にされている為、メイドには何の怨みもない。しかし、今朝になって突然衣服を返却され『動きやすいように髪を纏めましょう』などと言われて、勘繰らずにはいられなかった。これから売りに出される家畜の気分だ。
もしかして、酒場に帰らせてくれるのではないか。前向きに考えてから、扉の開閉音に暗然とした。
鏡に映った男は、確か、クレイグとかいう王太子だ。オッサンと話しているのは見たことがあるし、何度か目を合わせたこともあるが、そのたび塵でも見るような苦り顔をされて不愉快だった。
メイドが彼に一礼してから退室していく。部屋には僕とクレイグだけが残された。薄いカーテンが透かす天光に、彼が目を細める。いや、それは単に、僕に対する芥視だったのかもしれない。
あからさまな嫌悪が吐き出される。僕も大げさな溜息を吐いてやろうかと思いながら、どうにか牙を収めていた。
オッサンとは似ても似つかない切れ長の目で僕を下瞰する彼。千草色の眼睛は、真っ黒な怨憎を引き絞って瞳孔に隠した。僕に落とす影を伸ばし、
「これからお前には人間と戦ってもらう。そこで、負けて死ね」
「……は?」
受け止めた言辞を、頭の中で繰り返す。『死ね』。こいつは今、僕にそう命じた。僕の返事など求めていない独白が、まだ連ねられる。
「お前が成功作の魔女であることは、体に流れる魔女特有の成分や、その生命力から証明された。だから身体能力を国王に見せるべく、以前から予定が立てられていてな。もう少しで父上が到着する。遺言があれば聞いてやる」
揺れる木々の翠影が、木漏れ日を踊らせる。短い金髪が気だるげに傾いて光っていた。
クレイグは、僕を強制的に舞台に引き摺り出すことも出来たはずだ。こうして話をしに来たのは、彼なりの善意なのだろう。魔女に家族を殺され、魔女を恨む彼が、魔女相手に譲歩してくれている。
だからといって、頷けるわけがなかった。握りしめていたストールをドレッサーに置いて立ち上がる。
「どうして僕が、わざわざ負けて死なないといけない? 力を見せるだけなら、僕も相手も死ななくていい。死人を出す必要なんてないだろ」
「私は、『成功作の魔女を普通の人間に殺させること』で、『魔女の軍隊などこの国には不要』『異常性に惑わされているだけで、魔女は人にさえ勝てぬ存在』であることを証明する。成功作の魔女であるお前が、むざむざと一人の兵士に殺されるところを目の当たりにすれば、国王も目を覚ますだろう」
「なんだそれ……」
「とはいえ、説得の材料は他にも手に入った。だから今日の予定は要らなかったかもしれないな。だが父上を呼んでしまった以上、急遽中止にするわけにもいかない。人のフリをした化物を生かし続けるのも御免だ。予定通り死んでもらった方が都合がいい」
「都合? お前の都合なんて知るかクソ野郎……」
唸り声は自分の頭蓋に響いた。獰猛な獣のような音骨は不愉快だった。どれほど化物扱いされても、人で在りたかった。だけど、死ねと言われてまで大人しくしていられるほど、僕は出来た人間じゃない。
クレイグのジャケットを掴んでいた。襟に穴を空けそうなくらい、震える拳は爪を尖らせていた。睨み合う目の端で、彼は腰に手を伸ばしていた。そこには何かしらの武器があるのだろう。僕の動き次第で、彼は刃を抜く。それを感じ取りながら、舌鋒だけを突き刺した。
「僕だって、魔女が生まれない世界になればいいと思う。だけど僕は人間だ……! やらなきゃいけないことも、やりたいこともいっぱいある。会いたい人だっている! こんなところで死んでたまるか!」
叫びは彼の眉を顰めさせるだけだった。彼を物理的に揺さぶれても、その意思までは揺るがせない。立ち戻った
彼は僕から顔を逸らさない。逆光の中で蒼然が深まる。背の高い彼は腰を屈めて僕の顔を覗き込んだ。真っ向から、真っ直ぐに、張り詰めた眼光が僕を穿つ。
「お前は魔女だ。人間にはもう、戻れないんだよ。実験体にされたことには同情するが、危険な存在を生かしてはおけない。来世に期待して死んだ方が幸せだろう」
「……お前とは相容れない。オッサンのことも、これ以上は信じられない。『魔女を生まないようにする為』って言うから協力したんだ。けど、命をかけてまで協力なんてしない。僕の命は、僕だけのものじゃない……!」
胸に添えた手が、心拍を伝えてくる。僕のものであり、妹のものである心臓。いつか見た夢で、シャノンが僕を叱咤する。『まだ足掻けるでしょ』──その通りだ。ここで死んだら、何のために苦汁を飲んできたのか分からない。
僕の意識と同じ場所に、シャノンがいる。僕と同じ気持ちで、ここにいる。『僕達』の大切な人に、『僕達』は会わなきゃいけない。
クレイグは僕から目を側めると、心無い眼で遠くを見ていた。
「お前の会いたい人っていうのは、黒い髪に赤い瞳の男か?」
は、と自身の唇から渇いた疑懼が落ちる。彼の氷のような眼勢が追想を終え、現前を映す。僕は虚ろな木偶になったまま、息をすることしか出来なかった。
何故、この男がエドウィンのことを知っている?
「もしそうなら、よく考えるんだな。お前が衛兵を殺したら、私がお前の大事な男を殺す。嘘だと思うなら衛兵を殺して生きればいい。だが……あまり
彼の紡ぐ一音一音が、氷塊となって僕を打っていた。唇が歪んでいく。目の前の喉元に歯牙を突き立ててやりたい。
だけど、こいつがエドウィンについて知っているということは、彼の居場所も知っているのではないか? まさかエドウィンも、僕みたいにオッサンに騙されて捕らえられた?
オッサンに刺された言葉の釘が、まだ胸裡にある。僕の行動で、大切な人が傷付く可能性。
冷静に、考えろ。大切な人を誰も死なせない為に、僕は何をすればいい。
「殿下。国王陛下がお待ちしております。準備も整っています」
入室した使用人に呼ばれて、クレイグが僕に背を向ける。立ち尽くす僕の袖を、彼が引っ張った。それを振り払えば彼の面様はますます険阻になっていく。僕は鏡台を後顧した。大切なストールを見つめてから、前へ向き直る。クレイグは舌打ちをすると歩き出した。
「付いて来い」
追従して廊下に出れば、僕の髪を結ってくれたメイドが会釈をしてくれる。クレイグが遠ざかっていくのを後目に見ながらも、僕は彼女の前へ踏み出した。
「ねえメイドさん、ドレッサーのところにあるストール、オッサンに……リアム? ローレンス? ……さんに、渡しておいてくれませんか。大切な物だから、汚すなって言っておいて欲しい、です」
「かしこまりました」
「いつも、ありがとうございました」
頭を下げてから微笑むと、彼女は目を丸めてから笑い返してくれた。お世話をしてもらうのも、これが最後だ。多分、もう戻っては来れない。僕を誘導するクレイグがそれを許さない。僕自身も、踵を返すつもりはなかった。
廊下を進んでいくにつれ、照明と陽光がぶつかりあって目が痛む。大理石で逆さに映る僕を見下ろし、気息を吐き捨てる。逡巡を捨てて覚悟を呑み込んだ。招来された舞台に、踏み込んだ。
広い部屋はダンスホールみたいだった。室内にはなにもない。絨毯さえ敷かれていない。隅に柱が並んでおり、衛兵が数名控えているだけの広間。
正視した先には高い階段があった。観客は二階にもいた。左右に伸びる柵の向こうに、衛兵が何人も立っている。中央で階段を見下ろしているのは国王だろう。老いた男が、豪奢な椅子の上で足を組み替えていた。
「陛下の御前だ。そこで跪け」
クレイグに言われ、仏頂面で片膝を突く。床の冷たさが布越しに染みて来て唇を歪めた。クレイグは二階に上がり、国王に耳打ちをしている。密談は済んだのか、一人の衛兵が階段を下りてきた。
僕は立ちあがり、クレイグを睨め上げた。不敵に笑う彼は、僕が大人しく死ぬと思っているのだろう。得意げに逸らされたその鼻を明かしてやりたい。僕は、八百長に乗ってやるつもりなんてない。
エドウィンのことは大切だ。彼の命で脅されたら怖気付く。だけど僕は、彼が強いことを知っている。彼が簡単に殺されたりしないことを、知っている。ここで惑っていたら、きっと彼は『自分の心配をしろ』って怒るだろう。いつだって背中を押してくれる彼を、僕の枷にしたくなかった。
『僕を殺す』『エドウィンを殺す』──やれるものなら、やってみせろよ。
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