retribution2

     (二)


 カレンの死後、俺が店外へ向かうよりも先に、警察が酒場に踏み込んできて、事情を訊かれた。マスターが遺した手紙には誘拐に関することが記されており、警察は『カレンを射殺した犯人が、女児を誘拐して逃亡中』と判断したようだった。


 記載されている住所に向かう、と警察が言っていた為、『誘拐された少女は身体接触にトラウマを持っている』ということだけを伝えて、好きに捜査させることにした。


 俺も手紙の文面を読んだが、そこから読み取れたのは『マスターが俺を遠ざけたい』ということくらいだ。魔女狩りをやめろ、と言っていた彼を思い出して苦笑した。ユニスを利用してでも、俺を戦わせたくなかったのだろう。


 だが、大人しく彼に従うつもりはない。彼と直接ぶつからなければ溜飲が下がらない。


 いくつもの感情が胸臆を占めている。それでも願うのは、楽しげな三人の姿だった。ユニスのことも、メイのことも、マスターのことも、このままにしていいわけがない。


 拾い拾われただけの俺達を、『家族』と言ったメイの笑顔を思い出す。それを大切にしたい気持ちは、マスターに裏切られても捨てきれなかった。守りたいのかもしれない。三人の笑顔だけでも。


 守れなかった冷たさが、鎖骨に触れる。カレンと揃いのネックレスが、シャツの内側で静かに俺を責めていた。


 涼風が、ふいに強く吹いて、目を細める。持ち上げた眼路には、住宅地が広がっている。訪れた隣町はどこか懐かしい。


 先日、カレンやユニスと歩んだ道筋に、この通りは含まれていなかった。あの食事の後、俺達と別れたカレンは、一人でこの石畳を鳴らしたのだろう。彼女にとっては、郷愁で満ちた一路だったはずだ。


 化物退治の依頼で一度だけ訪れた建物は変わらぬ佇まいで目先にあった。緩慢に近付きながら、ネクタイをきつく締める。息苦しいのを衣服のせいにして、固唾を呑み下していた。


 訃報を伝えに行くにしても、喪服で赴くわけにもいかず、軽装で行くわけにもいかず、接客着にスーツのジャケットを羽織ってきた。過度にならない摯実しじつを心掛け、唇を引き結んで柵の前に立つ。


 薬物事件の際、倒れていた木は撤去されており、白磁の鉢植えが並んでいた。赤や桃色の小さな花弁が集まって、大輪を模している。見覚えのある花の名前さえ、今は思い浮かばず、強張った頬を僅かに動かして玄関へ向かった。


 会話のない閑静な敷地に、心臓が鈍い音を響かせて収縮する。叩き金に沁みていた外気が肌を伝って、思考を冷やした。扉を軽く打ち鳴らすと、数秒の後に慌ただしい靴音が迫ってくる。開いた扉の奥に人影はなく、目線を下ろすと小さな少女が俺を見上げていた。


 カレンの妹、アビーは食べかけのパンを握ったまま、大きな瞳に俺を映している。咀嚼を繰り返し、口内のものを呑み込んでから喜色満面になっていく。桜唇は開花する蕾のごとく、大きく開かれた。


「あの時のお兄さん! こんにちは!」


 快活な姿に少しだけ戸惑った。以前出会った彼女は、カレンとの仲違いが原因で暗然としていたが、今や瞳に陰りはない。一瞬だけ抱いた安堵は、罪の意識に呑まれていく。それを振り払い、屈んで目線の高さを合わせ、微笑んだ。


「ああ、こんにちは。いつも食事中にごめんな。お母さんはいるか?」


「うん」


 こくこくと頷いた彼女は、俺を見つめて、それから周囲を見回して、一歩だけ近付いて来た。パンを持っている手を背中に回し、空いている手は丸い頬に添えられている。内緒話でもしたいみたいだった。俺は横髪を耳にかけて、首を傾けた。


「どうした?」


「あのね、この前ね、お姉ちゃんが帰ってきたんだけど。その時、お姉ちゃん言ってたの」


「何を……」


「お姉ちゃん……お兄さんのこと、大好きなんだって! ……言っちゃった! えへへ、お姉ちゃんには内緒だよ!」


 踊躍しながら離れていくアビーに、ただ曖昧に笑うことしか出来なかった。彼女は、俺が単純に困っているだけだと受け取っただろう。悪戯っぽい無邪気な笑みを残したまま室内に上がっていた。


「お母さん呼んでくるね!」


 遠ざかる背中に、胡桃色の髪が纏わりつく。笑い方も、風采も、カレンと重なるものだから胸が痛かった。カレンとメイが守った少女の笑顔を、これから奪うことになる。それを考えただけで、己の無力が腹立たしい。


 軋んでいく拳を見下ろして、漸次、ヒールの音に顔を上げていった。カレンの母、リンダは濡れた手をハンカチで拭いながら、柔和に出迎えてくれた。


「遅くなってごめんなさい、洗い物をしていて気付かなくって……あの時はお世話になりました。それと、今はカレンがお世話になっているみたいで、ありがとうございます」


 深々と頭を下げた彼女へ、首を振る。返事をしなければ、と開口した唇が震えていた。凍えていく表皮に眉を顰め、緩頬している彼女と顔を合わせると、色を正す。


「いえ……カレンさんのことで、お話があって来ました。大事な話です。万が一、アビーさんに聞こえてしまうことがないように、扉を閉めて頂いてもよろしいですか」


 リンダは駭目して、しばらく硬直していた。まばたきの後に息を呑んだ紅唇は、噛みしめられていた。彼女はすぐさま扉を閉め、歩き出す。踵の低いパンプスは、庭の端にあるモスグリーンのベンチを目指していた。


「何か、あったんですか?」


 ベージュのワンピースが風に靡く。彼女は振り向きながら腰を下ろして、俺にも座るよう繊手をひらめかす。けれど、俺は立ったまま彼女に日陰を作った。見守る眼差しは優しい。


 だからこそ、それに甘えてはいけなかった。


「……カレンさんが、撃たれて、亡くなりました。本当に、申し訳ありません」


 寂然が鼓膜を劈く。腰を折ったまま、自分の影だけを見つめ、目を瞑った。


 カレンに、思いを馳せる。暗い部屋で泣いていた繊弱な彼女も、俺を助けようとした凛然な彼女も、注がれた七情全てを、目の奥へ沈める。それでも、耳飾りを付けて嬉笑していた彼女がまだ、瞼に浮漂していた。最後の体温が、指先に、唇に、残っていた。


 風声が乱れる。しゃくりあげたのはリンダだ。


「そんな……っどうしてあの子が……」


「俺の、せいです。カレンさんは、俺を庇ってくれて……すみません。大事な娘さんを守れなくて……本当に、申し訳ありませんでした」


 あの時、俺がマスターを呼び止めなければ、カレンが撃たれることはなかったのかもしれない。記憶の中で銃弾が巻き戻り、俺はマスターの睨視を見ていた。彼の瞳孔が射抜いていたのは、俺ではなくて。その照準は初めから、カレンに合わせられていた。


 たもとを絞る震え声に、頭を上げる。濡れた頬を手で押さえたまま、リンダは肩を揺らして俯いていた。彼女にハンカチを差し出せば、痩せ細った手がそっと受け取ってくれる。


 涙を拭う姿から軽く目を逸らして、カレンが過ごした居場所を凝眺した。彼女の痕跡がどこに残っているのか、俺には分からない。シトラスのような幽香だけが、彼女を想わせる。


 エドウィンさん、と呼びかけられて、見れば、リンダがハンカチを差し伸べていた。悲傷が透き通った布地を摘まんで、胸に仕舞い込んだ。


「……あの子の死は、まだちゃんと、受け止められないけれど……貴方が生きていて、良かったです。カレンもきっと、良かったって、笑うと思うわ」


 目笑は優しさだけを湛えていた。恨んでもおかしくはないのに、恩顔は清らかに澄んだまま決して崩れない。カレンを見ているようだった。芯の強さは、母親譲りだったのかもしれない。


 返す言葉は浮かばず、小さな点頭だけで応じた。少しだけ息がしやすくなる。それはリンダの恩愛のおかげだ。木枯らしにのせられた木香を吸い込んで、脈打っていた枢機を落ち着かせていた。


 リンダも落ち着いたらしく、懐かしむように庭を回視してから、もう一度俺に焦点を合わせる。すると、何かを言いかけて口を閉ざし、それからようやく語り出していた。


「あの子、貴方の酒場で働かせてもらうようになってから……この前私に会いに来たんです。本当に、最近。その時に、聞いたんですけど……スパイを引き受けたんですって。だから、危ないことに関わるのは、やめなさいって言ったのに」


「……スパイ?」


 気抜けた顔で鸚鵡返しをしてしまうほど、思考が追い付かなかった。自ら呟いた単語さえも脳内で糾返して、眉根を寄せていく。淑やかに頷いたリンダに、穏やかな距離を保ったまま言問うた。


「どういう、ことですか?」


「アビーとカレンで、酒場にお礼の手紙を出したそうなんです。でも、郵便屋さんの手に渡った後、貴族の方の検閲か何かがあったみたいで。手紙は届けてもらえず、衛兵のような方がウチにそれを持ってきたらしくて。私はその時外出していたんですけど……カレンは、こう言われたそうです」


 リンダは、詳らかに説いてくれた。それはリンダが、カレンの相談に寄り添っていたからこそ、つばらに開示できた話だろう。


 曰く、酒場『化物退治』のマスターは何らかの理由によって監視対象になっている為、不審な動きがないか、監視できる人間が必要だった。マスターは用心深い男であり、初対面の人間を雇ってはくれないだろう。そこで目を付けられたのは、酒場の従業員と知人関係にある人間。『化物退治』宛の手紙が届いたら報告するよう、郵便屋に指示していたらしい。


 カレンが命じられたのは、酒場の従業員になることだ。そして、客に扮した衛兵が店員である彼女に指示を出し、時折店内を探っていたという。


 知悉ちしつした事実に渋面を浮かべる。湧き出した万感の中で、納得が何よりも苦々しかった。


 壊れていたカウンターの隠し棚。迷いなく選び取られたキーリング。


 俺とユニスだけで出掛けることも多く、怪しまれずに酒場内を探る時間が、カレンには充分にあった。


 とすれば、カレンに指示を出していたのはマスターと敵対している人間、或いはマスターを支配下に置いている人間ということになる。思い当たるのは、王太子クレイグだけだ。何故、マスターがカレンに向けて引鉄を引いたのか。その答えが、苦味を伴って舌根を覆っていた。


 数週間前のカレンを思い返す。アビーの手紙を届けに来たのは口実で、俺と話がしたくて酒場に来た、と彼女は言っていた。きっとそれは事実であり、嘘でもあったのだろう。


 しかし、俺に好意的だったのは、嘘だとは思えなかった。だからこそ、カレンが俺達の目を盗んで密偵する理由だけが、分からなかった。


「なぜ、カレンさんがそんなことを。リンダさんやアビーさん……ご家族の命を人質に、脅されていたのですか」


「いいえ。人質……そうね。カレンにとって、人質のような立場だったのは、貴方だと思います」


 カレンと同じ蜂蜜色の瞳が、温和な弧を描く。呆然と見返すことしか出来ないまま、枯草が目の前を横切っていく。辛うじて吐き出せた言葉は冷風を焦がしていた。


「俺、が……?」


「カレンが……薬物を使って、家出をした後。貴方の説得のおかげでウチに帰ってきてくれて。その時からずっと、貴方に恩返しをしたいって言っていたんです。でも、酒場宛の手紙を見た衛兵の方に、『マスターの行動次第では、あの酒場は営業できなくなる』『協力すれば、従業員は守ってやれる』と言われて……あの子は、それを信じた。相手が貴族だったから、酒場一つ守れる財力はあると、思ったのでしょうね」


 人知れず、切歯していた。カレンを巻き込まないようにと、一線を引き続けた意味なんてなかった。自分もカレンも、利用されていたのだと、知れば知るほど奥歯が擦れていく。


 吐き捨てたい苛立ちを噛み潰し、平静を繕い続ける。リンダは己の手を、じっと見つめていた。


「でも、間違いだったかもって泣いていました。迷惑をかけているだけかもしれないって。だけどカレンは、そうすることでしか貴方を守れないと思ったそうで。貴方のことを、守りたかったって」


「……そう、ですか」


「だから、あの子は。最後に、ちゃんと貴方のことを守れて……嬉しく思ってるはずです」


 リンダの一笑は、少しずつ、悲哀を泳がせて歪んでいく。ふ、と零れた吐息は決壊の前触れだった。両手で顔を覆った彼女は声を殺して憂哭に溺れる。手を差し伸べることも出来ずに、彼女の息継ぎを静かに待っていた。


 静黙は寒々しく流れ、立ち上がったリンダの裾もその流れに抗わなかった。彼女の手が、俺の手を持ち上げる。互いに冷え切っているはずなのに、触れ合った温度は不思議と温かかった。


 目の前に温然が灯る。彼女は、子供を見るような目遣いで俺を見上げていた。


「エドウィンさん、お願い。あの子の分まで、たくさん……幸せになって。あの子の分まで、生きてちょうだい」


 か細い両手は、俺の手を包み込んで熱を注いでくれた。「……はい」と呟いて頷くと、彼女の目尻の皺が深くなる。頬を伝った涙痕が、昼光を反射して乾いていく。


 俺は懐から手帳を取り出し、そこに挟んであった用紙を彼女に手渡した。


「これは、葬儀屋の連絡先です。諸々の支払いは酒場『化物退治』に請求するよう頼んであります。葬儀の日時やお墓のことなど、連絡してみてください」


「ありがとう。エドウィンさんは、カレンの葬儀に来てくれますか?」


 泣き腫らした目から、思わず、顔を逸らしてしまう。参列したい気持ちはある。当たり前だ。けれど、出来ない約束はしたくなかった。カレンのことも、リンダのことも、傷つけたくはなかった。


「……わかりません。でも、花を、供えたいです。リンダさん、カレンの好きな花を、教えてくれませんか」


 瞠若したリンダは、遠くを見晴かす。カレンと過ごした日々を、思い宥らむ双眸。それは、鉢植えの花に留まった。お互いに、小さな花を静視していた。霞む思い出の中で、それとよく似た花束が揺れる。その花は──。


「あの子は……カランコエが、好きでした」


「カランコエ……」


「ええ。花言葉は、『あなたを守る』」


 リンダの哀婉を、受け止めた。見開いた虹彩に、香りのない丹花が散ったような、錯覚を見た。


 コーデリアが、踊るような足付きで振り向く。新しい服に喜色を浮かべて。裾に縫い付けられた、カランコエの花を揺らして。妹は、俺の身代わりになった。


 紅血の記憶はカレンの微笑みを引き連れる。生前のカレンに渡された、『守りたい』という言の葉。同じ台詞が、ユニスの声と重なった。


 自分が、強くなったつもりでいた。けれど、何度も誰かに守られて、生き延びてきたことを噛み締めた。歯を食いしばって歪んだ頬に、一筋の熱が走る。走馬灯じみた感傷が落ち着くまで、交睫こうしょうしていた。


 暗闇に明滅する決意を結んで、睫毛をほどく。そうしてリンダの涙膜に笑みを映し込んだ。


「ありがとうございます」


「いいえ。こちらこそ、あの子を救ってくれて……あの子と仲直りをさせてくれて、本当にありがとう」


 深く頭を下げ、彼女に背を向けた。


 カレンの亡骸が斂葬れんそうされる時、俺は、どこに立っているのだろう。全てを終わらせて、マスターを連れ戻して、『家族』全員で、彼女に献花を捧げられたらいい。


 白片に、顎を持ち上げた。零下の街に、不香の花が散っていた。それが、いつか見た灰に似ていて、己の体を掻き抱いた。たったそれだけの動作に、魔力が熱く爆ぜていた。


 血の味を呑み込む。肌骨の内で爛れていく体へ、ひとえに願う。


 まだ、頽れるな。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る