三巻/第四章

retribution1

     《一》


 碧空には雲一つない。宮殿の窓には白鳩の片影が映り込み、昧爽まいそうはどこまでも穏やかだった。その明るさは厚手のカーテンに遮られ、彼の室内までは届かない。彼──リアムは薄暗い自室で目頭を押さえていた。乾いた眼は僅かに充血しており、彼が眠れていないことを暗に示している。


 リアムは夜来よごろのうちに、ユニスを知人の家へ送り届けていた。知人、というのはグレン・センツベリーという医者だ。しかしグレンとの再会は、リアムの筋書きにはなかった。


 リアムがなぜ行き先を変えたのか、それは、酒場を発った際に警察とすれ違ったからだった。


 銃声を聞きつけた警察が酒場を捜査すれば、ユニスの誘拐事件に気が付く。エドウィンの対応に拘わらず、警察が手紙の住所に向かうかもしれない。それゆえ、指定した住居は使えないと判断し、リアムは急遽グレンを頼ることにした。


 グレンは突然の来訪に面食らい、身勝手なリアムに憤慨していた。とはいえ、ユニスとエドウィンの為、と頼まれれば、善良な彼は説き伏せられる。


 渋々ユニスを引き取ってくれたグレンへ、リアムは『時期を見計らってエドウィンに手紙を出して欲しい』と頼んでから、宮殿へと戻っていた。


 そうして、夜の目も寝ずに行われた即興劇は、リアムの星眼せいがんから色艶を奪った。彼は一秒も褥に横たわることなく、ローズウッドの椅子に延々腰かけて、陽が昇る現在まで深慮し続けていた。


 重い瞼の裏で彼を苛んでいる追想は、酒場での出来事だろう。ユニスの涙も、エドウィンの傷付いた顔様も、カレンを撃ったことも、全てがその回想に含まれているはずだ。


 後悔の重圧に項垂れて、項垂れて、頭を抱えた彼の眼差しは爪先に落ちる。革靴の一点に留まっていた日輪が、弧を描いた。立ち上がった彼は悔悟を捨てて覚悟を噛みしめていた。


 リアムの足音は広い廊下に響き渡る。会釈する衛兵に一瞥もくれず、彼が一散に目指しているのは兄の部屋だ。兄との対面を望む彼。その双脚を進ませているのは、ユニスと交わした約束だった。


 メイナードを解放する。エドウィンを決して死なせない。兄のことも、殺せない。兄を捨ててまでエドウィン達を選ぶことは、出来ない。


 リアムは自身を縛るいくつもの制約を脳室に並べていた。選択肢は常にその頭にあった。兄を選ぶか、エドウィンを選ぶか。兄を裏切るか、ユニスとの約束を裏切るか。彼は、その答えをとうに出していただろう。そうでなければ、彼はきっと引き金を引かなかった。


 兄と相対した時、リアムが何を口にするのか。それは彼自身にしか分からない。


 格子状に切り抜かれた旭光を数度踏み通り、リアムの足はようやく止まる。千草色の眸子は傾いて、黒鳶色の扉を映していた。左右には衛兵が控え、彼らの座右を花瓶の花が彩っている。リアムは木目だけを凝視しており、衛兵を視野に入れていなかった。


「失礼いたします。兄上──」


「ローレンス殿下。クレイグ殿下は今……」


 衛兵が一歩踏み出した時、既にリアムは扉を開けていた。室内に、クレイグの姿はない。その代わり、白い髪の男性が、我が物顔でソファに鎮座していた。男性は机に肘を突いて書物を捲っていたが、リアムに気が付くと、窪んだ眼窩で紅玉を転がしていた。


 その虹彩に、リアムが息を呑む。リアムにとってその洋紅色は、エドウィンを想起させるものだった。


 扉の前で佇んでいるリアムと、立ち上がる気配のない男性は、広い空間を挟んで見合う。カウチや小棚は壁沿いに整列しており、二つの目路を遮るものは何もない。男性は口角を引き上げ、シャンデリアの灯下へとリアムを手招いた。


「君が……王太子殿下の弟君か。殿下なら外出中だ。戻ってくるまで私と話でもするかい?」


「……貴方が、魔女を生み出したアテナ様ですか」


 自然光が落ちる廊下から、人工的な銀燭の下にリアムが進む。彼の後背では、衛兵が一礼ののちに扉を閉めていた。アテナと呼ばれた男性は冷笑する。女神の名に似合わぬ姿は、異質な存在を前にしているようだ──リアムは、そう思ったかもしれない。なにしろ彼の面貌には畏伏がこびりついていた。


 彼らの風柄に然程の年齢差はない。けれども目遣いや手付き、纏う雰囲気に、歩んだ畢生ひっせいの長さが顕現していた。リアムの時間は不規則に乱れており、アテナは規則的な時に凭れかかっていた。


 白手袋が緩慢に本を閉じる。


「魔女を生み出したのは私ではない。だが、魔女を知る者達が『アテナ』と崇めているのは、確かに私のことだ。……しかし、私も長く生き過ぎたな」


 リアムが認識していた化物は、リアムが思っていたよりも人間らしく言談する。ことのほか穏やかな音吐にリアムは一驚を喫していた。身構えていた肩から力が抜けていく様を、見て取れるほど彼は安堵していた。取って喰われるとでも思っていたのだろう。


 腰の前で両手を絡め、脱力したリアムに、アテナは古書を持ち上げてみせる。


「これは、君が持ち込んだものだと聞いた。廃村から持ってきたというのは間違いないな?」


「ええ。魔法の記憶を残された一族の村から、拝借しました」


「禁書室にあったものか?」


 問いかけに、リアムは気抜けた顔をする。沈黙した彼は、過ぎ去った情景を脳で追った。それはメイナードと共に調査した時ではなく、五年前、エドウィンの頼みで村を訪れた時の過去だ。息絶えた壊屋かいおくに思いを馳せて、彼は首を振った。


「それは、分かりません。ただ、図書館の鍵のかかった部屋にありました。鍵は随分古いものだったので簡単に壊せましたが……」


「あぁ、そこだ。盲点だったよ。私は随分、視野が狭くなっていたみたいだ」


「盲点……? 魔女の研究に役立つ記述でもございましたか?」


 苦笑したアテナは頭を左右に振っていた。静かな諸目に落ちる影を、リアムは視覚通りに色彩として捉えた。それが燻る怨悪であることを、リアムは知らない。懐に収められている鋭刃は、振るわれるまで分からぬものだ。まして、抜く素振りすら見せぬのだから、感取出来るものではない。


 淡々と零れた返辞も、棘一つない嘆息でしかなかった。


「私の姉は……まるで、いにしえの王の罪を被せられて、代わりに処刑されたみたいだ」


「どういう……」


「『私が馬鹿なことを続けていた』。それが分かったことに感謝するよ、王子殿下。魔女の研究は君達王族の好きにするといい。陛下にも伝えておけ」


「は……」


 呆然とするリアムを置き去りにして、モーニングコートの裾が翻った。アテナはシャンデリアの影を背負って廊下に踏み出す。待機していた衛兵が赤い美玉に映されるなり、背筋を正していた。一瞥をくれただけで挨拶の類は行われず、革靴が静かに大理石を打ち鳴らす。


 アテナは自身のネクタイに爪を突き立てていた。成功作の魔女たる今の器を得て、欣悦した過去の己をも呪っていた。アテナにとってその肉体は、何よりも忌まわしいものに変わり果てていた。


 幾度も器と脳を取り換え、なおも魂が受け継ぎ続けた記憶を、アテナは追蹤ついしょうする。姉の顔が掠れるほど、その記憶は擦り切れていた。


 ──その姉は、勉強熱心な女性だった。歴史や魔法に興味を持ち、魔法で人の傷を癒す術を会得していった。明朗な人柄で、人助けに精を出す彼女は、村人達に愛されていた。


 姉の行動は、アテナが『アテナ』と呼ばれるよりもずっと昔、彼のその身が羸弱るいじゃくだったことに起因している。姉は彼の助けになりたかったのだろう。


 勤勉な彼女は禁書室にも興味を示したが、そこは、立ち入ることを許されなかった部屋だった。


 だからこそ、魔女に関わる書物があの部屋にあるなど、アテナは考えもしなかったのだ。姉が自らの知識によって編み出した術なのだと、信じて疑わなかった。


 顰蹙するアテナの脳裏から、古ぼけた日々が引き出される。色褪せた既往の中でも、鮮やかな赤が思い出される。それは、鍵を持つ血筋の瞳だった。禁書に触れることを許されていたのは、一族の長と、その血筋の者だけだ。


 誰よりも魔力を持っているのに、決して魔法を使わないアッシュフィールドの人間。赤い明眸を持つ青年に、姉が憧れていたことを、アテナは今も覚えている。


 次いで、村に双子が生まれた時のことまで、アテナの海馬に浮き上がる。双子は呪われており、災いの元であり、片方を殺さなければいけなかった。


 生まれたばかりの双子に残された時間は、たった一週間だった。


 それでも姉は、必ず助けると、その両親の手を取っていた。姉は決して諦めなかった。そして彼女は、協力者を求めたのだった。


『誰よりも魔法に長けている自分と、誰よりも魔力を持っているアッシュフィールドの彼ならば、哀れな双子を救えるかもしれない』と。


 しかし、帰宅した彼女はアテナに苦笑して、協力を得られなかったことを語っていた。


 それからというもの、たった一人で図書館に通い詰め、二つの命を救うべく躍起になっていた姿を、アテナは知っている。


 結果、姉の魔法によって一体の魔女が生み出され、複数の死傷者を出したことで、魔女は殺された。禁忌を犯したのだ、と、姉は糾弾された。


 当時、その一件にアッシュフィールドの関与も疑われている。けれど彼は否定し、姉も『自分一人で行ったことだ』と、罰を受け入れていた。


 誰も救おうとしなかった赤子の命を、必死に救おうとした姉が『人殺し』と罵られ。最後の魔法も『人殺しの魔法』と蔑まれた。


 だからアテナは、せめて姉が遺した魔法だけでも、人を救うものだったと証明したかったのだ。


 何十年、何百年も失敗を繰り返し、そのうちに、『救いにはなり得ないのではないか』と疑殆ぎたいを抱く。


 懊悩の最中、幸か不幸か、彼は国王に目を付けられた。しかし、魔女を兵器として望む国王に、当初の彼は反発していた。


『魔女を生む魔法は救いの術だ』『だけど誰も救えない』。そう叫んだ彼は、とうに衰弊すいへいの淵へ沈んでいたのだろう。だからこそ、国王の笑声が彼を歪に救った。


『君が失敗作と称する魔女は、あんなに元気に産声を上げているじゃないか』


 新しい命を生み出している。それは、初めてもたらされた肯定だった。頽れていた彼は、再び魔女の研究に励み始めた。


 ──これが救いだ。今日も産声が聞こえる。まだ人語を話せないのか。いつかちゃんと、思考も記憶も失わせることなく成功作の子を作ってみせる。君達が同じ肉体の中で笑えるように。君達が、泣き続けなくていいように。理性のある、成功作を。


『何のために?』


 時折、彼の足を引き止める自問。蓄積された何万もの日々から、大切な家族を思い出す。


『姉が間違っていなかったと証明する為だ』『姉の魔法で人を救えるのだと明かす為だ』


 足を止めない為の自答は、脳を挿げ替えてもひたすらに繰り返された。


『姉の魔法』。


 その文様はアテナにとって、ただ一つの、形見だったのだから。


 だが、禁書室から持ち出された真実が、かつての嘘を暴いて全てをくつがえす。


 形見など、一つも残されていなかった。アテナが背負い続けた死は、正位置に傾いていった。


「私はずっと……アッシュフィールドの編み出した魔法を、追尋ついじんしていたんだな」


 薄笑いは冷気に触れて白煙となり、白光と混じる。アテナは一階の廊下で立ち止まると、中庭を観視した。


 花を失くした低木は枝を赤く染め、冬の色差しを見せている。隅に置かれた鉢植えではサイネリアが咲いていた。霜枯れた祁寒きかんの中でも華やぐ名花は、彼に姉の姿を追思させた。


 朧げな姉の笑顔も、最期となった哀咽も。彼女を見殺しにした人々のことも。アテナが募らせた惋惜はゆるやかに愁恨と成る。


 ──罪人は姉じゃない。お前らアッシュフィールドじゃないか。


 悪血あくちが流れる肉体で、アテナは苦り笑う。目的もなく苛立ちのままに歩んで、俯仰した先に、彼は見慣れた扉を見つけた。その扉を開ける必要はなくなっていた。閉ざされた部屋の中では、白い少女が眠っているのだろう。


「……メイ。君達が、『あの日』の双子だったなら良かったのにな」


 嘆息を漏らすと、彼は踵を返した。顔貌には愁いが漂い、それは姉だけに向けられていた。彼は、メイナードに一切の情を抱いていない。先生と呼ばれ慕われた日々も、実験を円滑に進める為の対応でしかなかった。幼い子供を撫でた手に、恬淡とした優しさなどなかったはずだ。


 もし、無自覚の優しさが彼女アテナにあったとすれば、それは彼が、姉から受け継いだ性質だったのかもしれない。


 大理石から翠影へ踏み出した革靴が、スノードロップを無情に折る。アテナが定めた標的は、散り透いた薔薇を見下ろす男性だ。彼、クレイグは足音に気が付くと、すぐに面を上げていた。彼の翠眉が忌々しげに寄せられたのは、言うまでもない。


 顰め面で形だけの会釈をした彼に、アテナは僅かに笑う。その、微笑みは。


「殿下、一応聞いておくが……『魔力の花』を探しているのではないか?」


 クレイグの驚懼きょうくを認めて、深い影を宿していった。



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