「I adore you」6

     (四)


 閉店の鐘が鳴り、客が帰って静まった店内で、全ての食器を回収し終える。カレンはユニスを呼びに二階へ上がっていった為、ぶつかったグラスの音が高く木霊していた。取り落とした貨幣チップが床に跳ね、静けさを際立たせる。


 嘆息をしてからしゃがみ込む。カウンターの下に手を伸ばした。立ち上がる時に頭をぶつけないよう、ふと上方を仰ぎ、首を傾げていた。


 カウンターの裏面には切れ込みが入っており、金具が付いていた形跡がある。鍵穴があることから推察するに、そこにあったのは取っ手だろう。よく見れば刃物傷が木目に走っている。鍵が壊れたことで棚が止まらなくなったのか、開かないよう木材と釘で補強されていた。


 隠し棚があったことも知らなかったが、違和感を覚える。刃物で強引にこじ開けて、どうにか収めたような有様だ。だが、これがいつ壊された物なのか分からず、考える必要もないか、と思料を止めて立ち上がった。


 ちょうどカレンが下りてきたところで、彼女は俺と目が合うと蒼褪めた顔をしていた。数度、声を伴わない開口と閉口を繰り返して、二階を指さす。


「エドウィン、ユニスちゃんを呼びに行ったんだけど……話し声がするの。聞き取れなかったから相手は分からないんだけど……貴方に相談した方がいいと思って、ノックはしてないわ」


 階段を一瞥して眉根を寄せた。何者かが俺達の目を掻い潜り、ユニスの部屋に入室したとすれば、考えられる入口は窓だけだ。それも壊さなければ開かない。店内が賑わっていたとはいえ、硝子の砕ける音も、ユニスの悲鳴も、聞こえないことなど、有り得るだろうか。


 二階の部屋はいくつもある。空き巣なら明かりの点いていない空室を狙うはずだ。わざわざ明かりの点いている一室を狙った侵入。ユニスが狙いであることは昭然としていた。


「カレンはここにいろ」


「っでも」


「様子を見てくる」


 小暗い階段を上がりながら腰のベルトに手を伸ばす。そこには何もない。自分が接客用の服を着ており、ナイフを所持していないことを想起して舌を打った。自室に寄っている暇はない。幸い魔力はある。何かあれば素手で対処すればいい。


 ユニスの部屋を前にして、冷えたドアノブを握り込む。衣擦れの音がした。絨毯の上で、何かを引き摺るような音。胸騒ぎがして室内へ踊り入る。


 カーテンが揺れていた。長身の男が、少女を肩に担いで窓を目指していた。その背を──見間違えるはずがなかった。


「待て……!」


 彼が、止まった。緩慢な動作で振り向く。マスターは俺を眼差すと、薄笑いをした。彼を目界に収めたまま、室内を回視する。何があったのか、推知出来る痕跡はなかった。争った跡もなく、ユニスの拳銃はシューズラックの上に置かれていた。


 銀色に艶めく拳銃を棚の上から手繰り寄せ、数歩マスターの方へ歩み寄る。瞥視した弾倉には、弾が込められていない。それを気取らせぬよう冷然と、彼に銃口を突き付けた。


「ユニスを、どこに連れていくつもりだ。メイはどうした? メイと二人で旅行だなんて、嘘だったんだな」


 マスターは肩を竦める。どこまでも冷たい目遣いは彼らしくなかった。まるで造り物の表情だ。いや、今までの彼が、造り物だったのかもしれない。それを否定したくて、目の前にある真偽に目を凝らし続けていた。


 彼は空いている手をわざとらしく翻し、首を左右に振って嗟嘆していた。


「君に見つかりたくなかったのにな。少し長話をしすぎてしまったみたいだ」


「どういうことだ」


「ユニスを助けたかったら、詳細は手紙を見るといい。ベッドの上にある」


「動くな。動いたら撃つ」


 撃鉄を起こす。金属音に、彼が片眉を持ち上げていた。巡る回転式拳銃の中には虚飾という弾丸しか込められていない。それでも、彼は動きを止めた。時間稼ぎとしては十分だった。


 幽閑を埋める息差しは仄白い。室内は光に照らされているのに、深まる夜が根を伸ばしていた。濁りのない冽々たる夜気を、淀んだ低声が色付ける。


「最初は、捨て駒を探していただけだったんだ」


 たった一言を咀嚼するのに、数拍の時間を要する。『捨て駒』。それが、誰のことを指しているのか分からなかった。


「なんの話を……」


「アテナを憎んでいる君は、都合のいい駒だったんだよ」


 銃身が僅かに、左右に振れた。駒。その科白の意味は、考える前に脳が勝手に理解していた。虚勢が剥落はくらくし、全ての思惟が切り崩されるほど、ただ純粋に、掻き乱されていた。


「……は……?」


 乾いた唇から、情けなく震えた息が零れて、ようやく正気を取り戻す。それは、遅すぎた。誤魔化しの効かない周章を彼に見せつけ、今更取り繕ったところで意味がない。グリップが軋むほど強く拳を固める。血の味がするほど唇を噛み締めた。


 流露する熱情に動脈が焼かれていく感覚。骨を這い回る怒りが無駄な魔力を蒸発させる。


 落ち着け。乱されるな。


 胸裏で吐き捨て、歪んだ渋面を彼に向け続けていれば、彼は微笑む。


「だから、用済みになったらすぐ殺すつもりだったんだけどね。五年間君と一緒にいて……子供がいる父親というのは、こういうものなのかと思ったよ。エドウィン、私にとって君は大事な息子だ。この引き金を引きたくはない。私を逃がして、その手紙の指示に従ってくれ」


 父親然とした彼に、擦れ合った奥歯がおとなった。扼腕したまま、俯いた。彼の風懐が見えない。人を駒だと言ったり、息子だと称したり、この男は、いったい何がしたい?


 なにが、父親だ。恨まれたいのなら、そんなことを言わなければいい。大事だというのなら、駒だったなんて明かさなければいい。彼自身が、何か事情があって逡巡しているのではないか──その思考に至るなり、自嘲が込み上げた。


 五年間、俺も、彼を親のように思っていた。だからこそ捨てきれない信頼が、馬鹿らしくて。それでも信じていたい己が、あまりに愚かで。喉が痙攣した。


「わけが分からない……言いたいことだけ言ってそれで満足か? ふざけるな。ちゃんと分かるように話してくれ。あんたの目的も、あんたがこれからユニスとメイをどうするつもりなのかも、どうして俺を……ッ」


 怨声は泣き出しそうに揺れていて笑ってしまう。彼に誤解されたくなくて顔を上げた。瞋恚だけをさやに突き付ける。


「『都合の良い駒』を、探していたのかも」


 自ら象った響きが心臓を締め付ける。熱を持って拍動するそれが、煩わしい。次第に耳鳴りがしてくる。片手を握り締めると、溢れ出した血液は蝋のように熱かった。


 反目したまま互いに顔を逸らさない。吹き込んだ風韻が耳朶に触れる。それに打ちすがったのは金属音だった。


 マスターは空いている手で月明を翻す。彼の手に握られた拳銃。躊躇なく定められる焦点。互いの銃口が、透徹の延長線上で結ばれていた。


「話したら止めるだろう? 分かってくれ、君がこれ以上私を引き止めるのなら、撃たなきゃならなくなる」


「……それはこっちの台詞だ」


「その拳銃に弾が込められていないことくらい分かるよ。脅しにもならない」


 切歯して、彼を睥睨したまま片腕を下ろしていく。ユニスを抱えている彼は満足に戦えないだろう。だが、ユニスを抱えているからこそ、その銃口を彼女に向ける可能性はある。彼の狙いが分からない以上、彼女を危険に晒す行動は避けたい。


 夜音よとが聞き取れるほど、寂び返った室内。彼我の空隙に悄然が横たわる。睨み合っているのに、彼が傷付いた顔をしているから、その空隙に踏み出すことが出来なかった。


「次、口を開いたら撃つ。だから私が出ていくまで、一言も喋らないでくれるかい? 靴音も立てずに、そこにいるんだ」


「っ、……」


 あめきそうになった唇を、一文字に引き結んだ。彷徨わせた視線が、ベッドに置かれた手紙を捉える。ユニスが叫ばなかったことを鑑みれば、彼女は抵抗せずに従った可能性が高い。恐らく手紙には本当に、彼女を救う術が書かれている。今は、そこに賭けることにした。


 マスターが腕を下ろしていく。ふ、と彼は微笑んだ。


「良い子だ。大丈夫、ユニスに危害は加えないよ。ユニスの無事を確かめたければ、私の言う通りにするんだ」


 困り眉を作った優しい微笑みに、凝然と息を呑んだ。それは、五年間ずっと見てきた彼の、彼らしい笑い方だった。俺の我儘を聞くたびに、いつも浮かべられていた顔が、後ろ髪に隠される。淡い月光に踏み出した背を、諦視したまま深く、深く息を吸っていた。


 なぜ、そんな顔をする? ここまで来て、どうして別れ際で、いつものように笑う?


 まるで、彼が助けを求めているように見えて、手を伸ばさずにはいられなかった。


「リアム!」


 溜め込んだ決意を放った時、振り向いた彼の腕が光芒を散らした。彼の指が、撃鉄を起こしていた。見開いた目の中で、彼の冷眼は俺を見ていなかった。響いた靴音は誰のものだったのか。一驚を、銃声が貫いた。


「駄目!!」


 衝撃は、俺を抱きしめた痩躯から伝わって来た。カレンに突き飛ばされて倒れ込む。上体を起こした俺にしがみついたまま、彼女は苦し気に呻く。震える白皙が絨毯に皺を刻み、必死に起き上がろうとしていた。


「カレン……?」


 彼女の体温が、熱く染みわたってくる。抱き起そうとして彼女に触れた手は膏血に染まる。


 俺の代わりに彼女が撃たれたのだ。理解するなり、血の気が引いた。


「カレン!」


 四肢へ魔力を走らせ、彼女を仰向けに寝かせる。銃弾は肋骨を貫いて、臓器まで至っていた。溢れ出した血液が彼女のブラウスを染めていく。患部を押さえたが、血は止まらない。自身の呼気と耳鳴りがひどく五月蝿かった。


 カーテンが音を立てる。反射的に見上げた先で、マスターは色濃い夜を浴びていた。彼は、どこを見ているのか分からない目色を残して、淡々と一言吐き捨てる。


「全部君のせいだよ」


 その、一言が、見えない手となって首を絞め上げた。全身の魔力を解いてしまいそうなほど、呼吸と思考を剥奪されていた。頭蓋から引き剥がされた意識が、泣き声に繋ぎ止められる。


 カレンが俺を見上げて、浅い呼吸を繰り返していた。


「……めん、なさい……ごめんなさい……っ」


「大丈夫だ、すぐ、止血するから」


 どうして、カレンが謝るのだろう。謝るのは俺の方だ。今は、精慮している場合じゃない。彼女を助けることに集中しなければならない。それなのに、乱れた思考が想像まほうを妨害する。


 他人の傷を治すのは二度目だ。ユニスの時は冷静で、上手くいった。カレンの銃創が塞がらない。魔法を使えている感覚が、指先に伝わらない。淋漓りんりする命の欠片が熱くて、何も、わからなくなる。


「ねぇ、エドウィン……」


「大丈夫、大丈夫だ。傷を塞げば、治るから……大丈夫だ」


 自分に、言い聞かせているみたいだった。落ち着いて、傷を治す想像を固めようとした。自分の熱が、彼女の灯火に焼かれていく。鼓膜を占拠する喘鳴が、誰のものなのか定かではなかった。


 血紅色が、広がっていた。朱殷しゅあんだけに虹彩を縫い留められて、気が遠くなりそうだった。


 朧げな視界で、カレンが懸命に体を起こす。それを咎めようにも、彼女の腕は首に回されていて──言葉は口腔に呑まれていた。


 口付けは冷たさだけを残して離れていく。蜂蜜色の瞳は、人影で暗く染まっていた。彼女はしかと俺を見つめていた。その影を一掬いっきくの涙に閉じ込めて、彼女は咲笑えわらう。


「──────」


 蒼褪めた玉唇は、余喘を伴って緩やかに言笑した。


 その声音は吐息に呑まれ、その思いは音にならなかった。腕に、彼女の身体がぐったりと倒れ込む。長い睫毛は閉ざされたまま、もう、震えることさえなかった。


「カ、レン」


 彼女の首元で、ネックレスが煌めく。それはいつからか、濡れていたみたいだ。涙が音もなく血の海に落ち、それが彼女の感情に終わりを告げていた。


 俺は、どこで間違えたのだろう。


 血と脂で滑る手を、己の額に押し当てた。爪を突き立てると髪が乱れる。編み込んだ髪がほどけて、時計の髪留めが床に転がった。


 秒針が呼吸音を縫って音を立てる。止まらない時間を睨みつけて、叩き割ってしまいたかった。


 握りしめた手が、熱い。胸郭の内側で心臓が脈打つ。


 誰かの時を壊して生き残った自分が、時間を止めるなど許されない。


 踏み止まって何を変えられる? 今更、踵を返すのか?


 後戻りをしても、そこに何もないことは分かってるだろ。


 ──目を逸らすな。


 間違えたのなら、正しにいけばいい。取り返しのつかない罪は、抱えるしかない。けれど、俺は俺自身の罪しか背負うつもりはない。


 これは俺とリアムの罪だ。それを、彼にぶつけにいかなければ気が済まなかった。


 カレンの身体を抱き上げて、歩き出す。病院、警察、まずどちらに向かえばいいのか、潜考には思い出が絡みついた。


 カレンと過ごした日々は、楽しかった。魔女のことを忘れられる時間に、確かに安らいでいた。


 けれど、この思いは何一つ、伝えられなかったはずだ。『恋人』という立場が、好意を告げさせてはくれなかった。それは、彼女の望む類の好意ではなかったから。期待をさせたくなくて、彼女の思いすら躱し続けた。


 思い返せば、悔いばかりが募っていく。


 せめて、最期の言葉くらい受け止めて、返事をしてやりたかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る