「I adore you」5

     *(三)


 エドウィンとカレンさんが一階で仕事をしている間、私は二階の自室で縫物をしていた。カレンさんはご家族とお話ししたことで気持ちの整理が出来たのか、かわらかに笑っていた。


 手枷を吊る為のベルトを程よい長さに切って、金具に通してから縫っていく。エドウィンが選んでくれたベルトは、しっかりしているのに生地が薄く、縫いやすかった。『材料を買って自分でなんとかする』と私が言ったから、縫いやすそうなものを選んでくれたのだろう。


 生地に針を通しながら、今日のことを思い返す。正確には、彼のことを、思い回す。


 私にコートを貸してくれたことも、歩幅を合わせて歩いてくれるところも、私の成長を褒めてくれるところも、全部が嬉しくて、頬が緩んでいった。不意に、憧れを披瀝した私を想起して、恥ずかしさで『わーっ』となったが、そんな醜態もすぐに忘れていった。代わりに彼の姿が、私の意識を満たしていく。


 照れくさそうに、でも嬉しそうに笑う彼は、初めて見た。新しい彼を知ったみたいで、もしくは、本当の彼に近付けたみたいだった。


「もっと、笑って欲しいな……」


 独り言ちてしまったことを自覚して、頭を左右に振り回す。床に平置きしていた手枷と、縫い終えたベルトを繋いで、棚の上に置いた。


 それは入口の傍にある靴棚で、外出時にすぐ手に取れるよう、戦闘に必要なものを並べている。室内光で光った拳銃を見下ろして、後で弾を込めておかないと、と思った。けれど、夜窓やそうがガタガタと揺れたものだから意識がそちらに移った。


 颯声さっせいとは違う。風に揺らされているのではなく、なにかが直接ぶつかっているような、人為的な音。靴音にも似たそれがノックだと気付いて、背筋が凍えた。カーテンの向こうに、誰かが、いる。


 震える足付きで、不動のカーテンに近付いていく。風さえも通さない遮光幕の裏側で、窓が二度、振動した。少しの沈黙を挟んで、もう二回、叩かれる。


 夜が零れる隙間に指を差し込むと、意を決して幕を開いた。


 玻璃の奥で、白橡しろつるばみの長髪が小夜風に靡いていた。千草色の瞳は優しく目尻を下げて笑う。ベランダに立っていたのは、マスターだ。


 緊迫がふっと緩んで座り込むところだった。窓に片手を突いてどうにか踏み止まり、大息を吐き出す。数週間ぶりに見たマスターは、思い出の彼と寸分も変わらない姿だった。


 鍵を外して窓を開ける。冷たい風が肌を凍らせる。身震いした肩を抱いて部屋の中央まで歩み、後はマスターに任せた。彼は部屋に入ると軽く窓を閉め、私に片手を振ってくる。


「ユニス、久しぶりだね」


 相好を崩した面持ちは、言葉と不釣り合いなほど私が知っている彼だ。まるで、昨日も会っていたみたい。空白の期間などなかったかのように、温厚な顔には陰一つない。後ろめたさはないのだろうか。


 そこまで沈思してから、自然と眉尻が吊り上がっていた。


「どうして、こんなところから入ってくるんですか。マスターは魔女の研究者側だったんですか? なんで?」


「私は研究者ではないよ。ただ少し事情があって……」


「事情? それって私達を簡単に切り捨てられるほどの事情なんです? 何年も一緒にいたのに、私達を選んでくれないんですか?」


 鋭い舌鋒を放てば彼がたじろぐ。『いつも通りのマスター』は崩れていた。私の知っている彼なら、一度付けた仮面を簡単に外したりしない。飄々と躱して何も掴ませない。だから今の彼に余裕がないことは、私でさえ分かった。


 そよ風が室内の温度を徐に下げていく。僅かな隙間を残している窓。マスターが長居するわけではないことを、冷気が言外に告げてくる。私は、不機嫌なのが伝わるような仕草で顔を逸らすと、壁掛け時計を見遣った。ふれる針を眺めて、目を細める。


「ユニス、何を知ったかは知らないが落ち着いてくれ。私は君達を守りたい」


「なら玄関から入ってきたらどうです。こんなコソコソして、わざわざ酒場の営業時間内に私の部屋に来るなんて。信用できません。まるで、エドウィンに見つかりたくないみたい」


 マスターは、困り顔で苦り笑う。閑全とした室内には彼の息遣いが温和に響いた。その様相は、頑是ない子供に甘言を紡ごうとする大人そのもの。私が怫然としている理由くらい分かっているだろうに、ご機嫌取りをしている暇はないみたいだった。彼は早口で喃喃と説く。


「私が王子だっていうのは聞いたかな? エドウィンに見つからない内に用を済ませたい、というのもそうだが、宮殿をこっそり抜け出してきたんだ。だから、早く帰らないといけない。私の話を聞いてくれないか」


 私が聞きたい話をするつもりなんてないくせに。喉から出掛かった言葉を飲み下す。尖らせた唇は開かない。苛立った空気だけが口腔を満たしていた。黙り込んだまま、黒鉄の長針が動く様を聞いていた。


 声のない見合いに耐え切れなくなったのは彼だ。けれど、彼が緘黙を攫う前に、私は飽和していた酸素を吐き捨てた。


「メイさんは、どこですか。無事なんですか。貴方は、急に出て行って何をしてるんですか」


「それは後で話すよ。今は──」


「今話せないのはどうして?」


「さっき言っただろう。ゆっくりしている時間はないんだ」


 私と話し合いをしてくれる気はないらしい。それを味解して奥歯を噛み締めた。それでも、一秒でも長く、この人をこの場に引き止めておくための何かが欲しい。なのに問いかけが上手く出てこない。


 私が思うに、マスターは、彼が予定した時間よりもココへ到着するのが遅れたと思われる。だって、営業時間を狙ったにしては、閉店時間までの余裕がない。宮殿を抜け出してきた、と彼は言ったが、きっと抜け出してくるのに手間取ったのだ。だからこんなにも焦っているのだろう。早くしないと、エドウィンがココに来るかもしれないから。


 窓際にいるマスターと、絨毯を踏みしめている私の間隔は一歩も近付いていない。私の精神面を考慮した距離感は、悲鳴が上がるのを恐れているみたいだ。だが、私が敢えて叫んだとしたら、そのままマスターに逃げられる可能性がある。


 追い求めた彼とようやく相対しているのに、逃がすわけには、いかない。


 固唾を呑んで、震える足で一歩だけ、私達の直線上にある余地を埋めた。


「だとしても、何の説明もなく私が付いて行くと思いますか? 貴方はメイさんを誘拐した敵かもしれないんですよ。エドウィンに見られない間に、私のことまで誘拐しに来たと思うのが普通でしょ。そうじゃないのは分かってますが──」


「その通りだ。君を誘拐しに来た。でも私は君の敵じゃない」


 疑問符を零しそうになった唇は、ぽっかりと開いたまま声を失う。彼は人好きのする笑みを落として、真摯に私を見つめていた。彼の言葉は、冗談ではないのだろう。


 我に返った時、既に、私は甲高く叫んでいた。


「ゆ、誘拐しにきたなら敵じゃないですか! 本気で言ってるんですか!?」


「静かに……! 君達を守りたいって言っただろう……!?」


「っでも──」


「こうでもしないとエドウィンが死ぬんだ……!」


 真剣な顔で威儀を正した彼を見つめ、視界が広がったような錯覚に陥る。睫毛の影が遠くなり、見開いた瞼を数秒間閉じられない。角膜が乾き始めて──わけが分からなくて──泣き出したくなった。


 慮外にも声を荒げた彼。その目顔が苦し気に歪んでいる。誤魔化しの笑みで弥縫びほう出来ないくらい、ひどく歪んだ顔が現前にあった。どこまでも正直なそれが、突き付けられた言葉を歪曲させてくれない。


 エドウィンが、死ぬ。騒ぎ始めた心拍を押さえて、寂然に散らばった冷静を必死に掻き集めて、吸い込んだ。


「っ……なに、言ってるんですか。どういうことです……? ちゃんと説明して」


 自分の呼吸が痙攣しているのを知覚する。体が震えるのを、充溢した夜風のせいだと思い込んで、崩れ落ちそうな両足に力を込めていた。


 マスターの広い肩がゆっくりと上下した。揺曳ようえいするカーテンが、彼の影を乱していた。まるで、自若とした彼の真情も、乱れているかのようだった。


「今、私の兄にエドウィンが狙われていてね。先日の降霊会で、兄とエドウィンが出会ったのが原因だ」


「どうしてエドウィンが王子様に狙われるんですか」


「彼の血筋のせいだ。魔法の知識を継ぐ特別な一族の生き残り。それは兄の目的に必要な存在だった。だから会わせたくなかったんだが……もう遅い。エドウィン本人に逃げろと言っても聞いてくれないだろうし、けれど逃げてもらわないと彼は殺される」


 靉靆あいたいと俯くマスターは事実を話してくれている。けれど、曖昧な箇所が多すぎる。魔法は使い方さえ分かれば誰でも扱えるもので、わざわざエドウィンの一族に固執する必要などない。何が目的で彼が狙われているのか分からなかった。


 不安よりも不満が勝ったおかげで深呼吸が出来る。私が息衝いている間、マスターは微笑を染める影を払い除けていた。


「だから、彼をこの街から逃がす方法を考えて……君に会いに来たんだ」


「どういう、ことですか」


 彼が懐に手を差し入れる。紅燭を浴びたのは真っ白な便箋だ。文字は書かれておらず、封蝋も付いていない。怪訝かいがを宿した目の先で、彼はその手紙を私のベッドに置いていた。


「私は君を誘拐する。君がいなくなったこの部屋に、この手紙を置いていく。手紙にはこう書いてある。『ユニスを返して欲しければ、酒場にある金を身代金として持って、指定された街に行くように』。指定したのは遠い街だ、君はその街でエドウィンと再会して、君を見つけて安心した彼をどうにか説得して……君達で、そこで穏やかに暮らしていて欲しい。ウチの金があれば、生活には困らないさ」


『君達で』と、投げかけられた単語を唇の裏で反芻した。そこには、マスターもメイさんも含まれていなくて、メイさんが家族にしてくれた私達四人は、もう二度と一緒にいられないみたいで。僅かに震えた歯が、かち、と鳴った。音はそれっきりだった。力いっぱい噛み締めた奥歯が、恐れを押さえつけていた。


 マスターの柳眉は垂れ下がる。彼を注視して今更気付く。数週間前と何も変わらない、先刻そう思ったのは、怒りで目が霞んでいたからだ。彼の瞳は前よりも落ち窪んで、隈の出来た目元は疲弊で濡れていた。


 彼が黙然と、私の呼応を待ちながら、力無く笑う。だから、理解してしまう。彼の手を掴む以外に、私に正解の選択肢はないのだと。


 それでも。首を振らずにはいられなかった。


「……マスターとメイさんのことは、諦めろって言うんですか。みんな一緒には、いられないんですか……?」


 喉が痛い。目の奥が、熱い。窒息しそうな私の視界は、照明の光を吸い込んで皎皎きょうきょうと歪む。水膜がくずれて頬に下った。鮮明になった眼路で彼の微苦笑を認める。それは一秒間のことで、もしくはもっと短い時間だったかもしれない。私は水泡に囚われたまま、鮮やかな現実から逃げていた。


 ぼろぼろと泣き出した私に、マスターの影が近付く。


「大丈夫だ、ユニス。私は今、メイちゃんが無事解放されるよう戦ってる。だから、メイちゃんのことは私を信じてくれないか」


「マスターは?」


 触れそうなほど傍に、マスターを感じる。けれど、体温は伝わってこない。私を怯えさせないよう、それでも傍に居てくれる。それなのにどうして私の気持ちが彼に届かないのだろう。私が離れたくない『家族』には、貴方の姿も含まれているのに。


 私はしゃくりあげて、涙をぬぐった。真っ直ぐに、彼を見据えた。それでも涙声が溢れて止まらなかった。


「マスターは、帰ってきてくれないんですか? もう一度、酒場で過ごせないんですか? みんなでご飯食べて、言い合いして、たくさん笑って……私、楽しかったんです。あんなに楽しかったのに、もう、戻れないんですか……?」


 私達には貴方が必要なのだと、必死に訴える。窓を強く鳴らした風が冷たい。けれど、頬を濡らす熱が薄れることはなかった。マスターはしゃがんで、私と目線の高さを合わせてくれる。優しい目をして、笑窪を作って、とても穏やかな慰めをつつめいた。


「全部、終わったら……私も帰るよ。だから泣かないでくれ。帰る時は、ユニスがびっくりするくらいの大きいケーキを持っていくから。メイちゃんとエドウィンにも、いっぱい食べさせてあげないと、ね」


「ほんとう? ほんとうですか? 約束して」


「……ああ。約束するよ」


 彼の片手が持ち上がった。多分、私の頭を撫でたかったのだろう。髪に触れない程度に近付いて、その掌は空気だけを撫で下ろした。私は喘鳴を嚥下する。零れた滴が最後の一滴になることを願って、強がりの片笑みを浮かべた。


「裏切ったら、許しません。でも、抱き上げられたら私は騒ぐと思うので、私を眠らせてから攫った方がいいですよ、誘拐犯さん」


「そうだね……もちろん、睡眠薬を持ってきてるんだ。一応言っておくと、無理矢理飲ませるつもりはなかったよ。ちゃんと説得した上で渡そうと思っていたんだが」


 マスターは腰に巻いていたポーチから、四角い水筒と袋を取り出した。袋には粉状の薬が入っているのだろう。彼はそれを渡そうとして、その途中で動きを止めた。


「……本当に、いいのかい」


「いいから貸してください。睡眠薬が効くまでに結構時間がかかるでしょ。早く飲まないと」


 ひったくるように彼から薬を受け取って、粉末を舌の上にのせる。水筒の水で苦味を洗い流した。喉を鳴らし、彼に水筒と紙を返す。私はその場に座り込んで、ため息を吐いた。


「マスター、私ね。このことを話すのは、初めてなんですけど」


 それは、私が眠るまでの時間を埋める閑話だった。マスターと再会したら話したいことはいっぱいあったはずなのに、真っ先に、『彼』のことを口走っていた。


「何の話だい?」


 マスターも隣に腰を下ろして、穏やかに問いかけてくれる。彼と安寧を共にするのは懐かしい。拾われたばかりの頃も、いつも優しく寄りそって、私の話を聞いてくれた。色々な話をしてくれた。幼い頃に戻ったような気持ちになる。


 だけど、吐き出す感情は、私があの日から進んだ証だった。


「私、エドウィンのことが、好きなんです」


 隣にいるマスターが、泡を食っている。それは顔を見なくても、息遣いだけで分かった。それがおかしくて、笑っていた。


「好きって、それは、恋愛感情としての好き、かい……?」


「当たり前じゃないですか。私、もう二度と、男の人に触れないと思ってました。近付いて欲しくなかった。人を好きになることなんて、ないと思ってた。でも、エドウィンには近付きたいんです。不思議ですよね。あの人の体温は、やさしくて……でも、まだ怖くて、ときどき嫌なことも思い出しますけど……もっと克服して、もっと、彼の傍にいたいんです」


 彼の故郷に行った時、抱きしめてくれた温度を思い出す。私の話を最後まで聞いてくれた。私を落ち着かせようと、優しく触れてくれた。何度も守ってくれた彼を、一人きりにさせたくない。


 だから私は、何を天秤にかけられてもきっと『彼』を選ぶ。


 私は彼に、恩返しをしたいのかもしれない。そう考えたら少しだけカレンさんの気持ちが分かるような気がした。彼がいなければ、私達はきっと、閉め切った部屋から踏み出せなかった。


 私はエドウィンのおかげでこんなに変われたのだ、と、マスターに見せつけたくて、彼の袖を強く掴んだ。


「だから──エドウィンを死なせたら、私が絶対に許しません」


 瞠目に約束を突き立てる。マスターは気抜けた顔を緩めると、温順に頷いた。夜籠っていく気配は冷たい。自分の襟を掴んで、少し寂しさを覚えた。エドウィンのコートは温かかったな、と思い返して、抱えた膝に顰笑を押し付けた。


 微睡んでいく意識の中で、彼を想う。全部終わったら、大きなケーキを囲んで、いつも通りの私達を取り戻す。また、これまでのような日々を送って、楽しい日々を送って──いつか、今よりも少しだけ伸びた背丈で、彼を見上げる。


 憧れている、と告げた時、彼はまるで少年のように笑った。


 愛している、と告げた時、彼は、どんな顔をするのだろう。


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