「I adore you」3

「ユニスちゃん、お顔が真っ赤だったから落ち着くまで戻ってこなさそうね」


「残りはカレンが食べてくれ」


「え? エドウィン、スコーンしか食べてないじゃない」


「小食なんだ。知ってるだろ」


 冷めた紅茶を喉に流し、僅かな内臓の痛みに小息を吐く。今まで体内が痛んでも、いつものことだと気に留めなかった。あの夜──パーティに向かう馬車の中で、マスターに臓物が痛む原因を明確に突き付けられてから、無視出来なくなってきている。


 けれど、臓物がいくつか焼け切れたとしても、心臓が動く限りは戦える。


 紅茶を飲み干して体を冷やしていく。ソーサーにティーカップを置くと、小さなサンドイッチを食べ終えたカレンが、俺の袖を引いていた。


「ねぇ、エドウィン。マスターと、メイちゃんのこと……警察に相談した方がいいんじゃないかしら。マスターの、その、あまり良くない話もお客さんから聞くから……」


 蜂蜜色の眼を彷徨わせ、耳語するほどの弱さでカレンはそう言った。カレンは、マスターのことを疑っているのだろう。少女を連れて出て行ったまま帰らない男の構図は、誘拐を疑われてもおかしくない。遠慮がちな声柄は、俺に怒られることを恐れているみたいだった。


 客の多くはマスターに好意的に見えるが、思い返してみると、カレンは時折見慣れない客と話している。彼女は口説かれているだけだと言っていたが、下らない託言かごとでも吹き込まれていたのかもしれない。


 俺は首を左右に振って、冷たい口吻にならないよう、気を付けながら返事をした。


「客なんて、真偽に関わらず噂話が好きなだけだ。メイとマスターのことは……ちゃんと探してる」


「知ってるわ。一人で探すのが大変だろうから、警察とか専門の人に頼んだら捗るんじゃないかと思ったの」


「大丈夫だ」


 袖を摘まんでいた手が、腕に絡む。カレンはそのまま俺に凭れかかった。胡桃色の髪が静電気を纏ってシャツに張り付く。シトラスのような香りが幽かに漂った。カレンは俺を見上げない。しがみついた状態で、寂しさを吐露していた。


「……ねぇ、他にも、なにかあったんでしょ。最近ずっと辛そうな顔してる。どこか痛むの? 大丈夫じゃない時は、大丈夫じゃないって言って。私はエドウィンみたいに戦ったり出来ないけど……貴方に、嫌な気持ちを忘れさせることは、出来るかもしれないし……」


「カレン。本当に大丈夫だから、気にするな」


 俯き続ける頭をそっと撫でてやる。昼光が彼女の柳髪を滑り落ちていった。光は彼女の手の甲に留まる。白んだ繊手は俺の服を強く引っ張っていた。


「私も、ね。私なりに貴方を助けたいし、守りたいのよ。貴方さえ良かったら、私にももっと、色んなことを教えて欲しいの。魔女とか、魔法とか……」


「それは貴方が知る必要のないことだ。戻れなくなるぞ」


 魔力は誰もが保持しており、魔法も訓練すれば誰でも扱える。けれど、カレンを危ない目に遭わせたくはない。もし、彼女が戦闘に巻き込まれて傷付けば、彼女の家族が悲しむ。メイが救いたがった少女アビーの心を、抉ってしまう。


 一線を引いて、薄い壁を保っておきたいというのに、カレンは尚も近付こうとする。彼女は俺から離れると、意志の強い眼差しでこちらを嘱目していた。


「私は期間限定の恋人だけど、これから先も貴方の傍に居続けたいって、そう思ったから踏み込むことにしたのよ。戻らない覚悟は、貴方の恋人になった時点で出来てる。ううん、それよりも前から。お礼の手紙を持って、直接酒場に行くって決めた時点で、戻れない覚悟をしてた」


 傷付くことを知らない輝石が、彼女の眼窩に埋まっている。色を変えない琥珀を打ち守る。互いに、鋭い意思を握って切り結んでいるようだった。彼女が折れてくれるまで、顰め面を緩めるつもりはなかった。


 だが、耳底に残っている違和感が、顔様を更に険しいものへと変えていた。


「待て。どういうことだ? 貴方はあの日、マスターに言われたから、急に酒場に滞在することになったんだろ。それとも、初めから帰る気はなかったのか?」


「……言ったでしょ。貴方に恩返しをしたかったって。でも……分からなくなってくる。私、間違ったのかしら。私、本当に貴方のことを、守れているのかな」


 虫喰われた古書を読んでいる気分だった。空漠とした言い回しは噛み砕くことが出来ずにすり抜けていく。欠けている言の葉を推し量ることが出来ない。掴み取れたのは、導因の分からない不安だけだった。


「カレン。曖昧な話をされても分からない。何が──」


「──食べすぎたかもしれません……う〜、お腹痛いです……。ってなんですかこの空気? 別れ話でもしてました?」


 戻って来たユニスの靴音が、聞こえなかった。カレンも同じく動揺して、肩を跳ね上げていた。真剣な音差しに離隔されていた安穏が、柔らかに広がっていく。店内の甘い香りを感じられるようになって、カレンと二人で苦笑した。


「ううん。お店の、お仕事の話をしてたの。食べ終わったから帰りましょう。ユニスちゃん、歩ける?」


「大丈夫です。歩かないと帰れませんしね……」


 卓子の空き皿を整頓してから席を立つ。先に外へ向かっていた二人を悠然と追いかける。ユニスはカレンに手枷を嵌めてもらっていた。二人とも接近しすぎないように上体を反らしているものだから、おかしな風景だった。手枷を嵌めて一息吐いているユニスに、自身のコートをかけてやった。


「ユニス、これでも羽織っておけ」


「え?」


「お腹痛いんだろ。暖かくした方がマシになる。引き摺っても構わない」


「……あ、りがとうございます。っでも引き摺るほど小さくありませんから!」


 店外は少しだけ肌寒い。ユニスが俺のコートを肩から落としそうになっていたため、襟に付いているブローチのチェーンをしっかり留めてやる。これで落とすことはないだろう。見守ってくれていたカレンに目配せをして、帰路を辿り始めた。


 隣街に来るのは数か月ぶりだ。カレンと出会ったのもこの街だったな、と思惟してから彼女を見上げると、目が合った。


「実家に寄らなくていいのか? せっかく来たんだ。家族に会ってきてもいいんじゃないか」


「でも、隣街だからいつでも会えるわ」


「……貴方が何かを悩んでいて、それを俺達には話せなくても、家族になら話せるだろ。一人で抱え込むな」


 カレンが、途切れた会話に囚われており、煩憂しているのはその色差しを見ればわかる。憂いを取り除いてやりたいが、俺に出来ることは限られている。先刻の彼女を一顧してみれば、その悩みが言いにくい事柄であることは明らかだった。適任の聴き手がいるのなら、それは家族しかいない。


 杲々こうこうたる陽を浴びて、黄金の瞳は潤んで見えた。さざめく熱鬧ねっとうの中で、カレンだけが静かに佇んでいた。一花ののちに、カレンはその目を弓なりに細めると、頷いて別の方角へ踏み出す。


「そう、ね。うん。じゃあ、先に帰ってて。お母さんとアビーに会ってから帰るわ」


 俺の首肯を見る前に、彼女は細いヒールを鳴らしていた。遠ざかる後ろ髪を眺めて、行路に向き直る。街路樹の少ない道は人ばかりで賑わっていた。人の波を縫って馬車が通り過ぎる。ユニスがはぐれないよう袖を引いてやりつつ、なるべく人通りの少ない道に誘導していく。


「エドウィン、カレンさんと一緒に行かなくて良かったんですか? ご家族に恋人としての挨拶とか」


「恋人の期間はマスターが帰ってきたら終わるんだ。しない方がいい」


「カレンさんの悩み事って、それなんじゃないですか。貴方のことが好きなのに、期間が終わったら離れなきゃいけないから。貴方が魔法のことすら教えてくれないのは、いつでも縁を切れるような線引きに見えるでしょうし」


 期間が終わった後のことを案じている可能性に、今更心付く。酒場の従業員として残るかどうかは彼女の判断に任せようと思っていたが、期間が終わればすぐに解雇されると考えていたのかもしれない。


 朔風に揺らされた前髪を押さえ、眉間を摘まむ。配慮が欠けていた己に頭痛を覚えながら嘆息を吐き出した。


「もしかして、俺とカレンの会話を聞いていたのか?」


「なにがですか? え、私がいない間に、その話をしてたんです? カレンさんが魔法について聞いたりして、でも、教えてあげなかったんですね?」


「当たり前だ。彼女が魔女と関わる必要はない。彼女には……家族を大事にしてほしい」


 家族を失う痛みは、肺を一つ失うようなものだ。埋められない空虚感が胸郭に生じて、息苦しくなる。その苦痛を知っていながら、カレンを引き込む気にはなれなかった。彼女はこのまま、塗炭に苛まれることなく平穏に生きて欲しい。


 冷ややかな淅瀝せきれきが表皮を撫で、落ち葉を踊らせる。馬のいななきが轟音を引き連れて、清寧を喰い破った。


「うわあああああ!」


 男性の喚声を皮切りに、いくつもの惶惑が甲走る。やや離れた道には馬車が倒れている。屋形は黒い布で覆われていたようだが、転倒したことで捲れあがっていた。露出した馬車の側面は檻のような造りをしていた。


 罪人の輸送でもしていたのか、と思いながら、通り過ぎようとした時、頬に滴が触れた。それが糸雨でも玉屑ぎょくせつでもないことを、直感で悟ってユニスを引き寄せた。


 勁風けいふうがユニスの吃驚を攫って眼前に迫る。猿轡を噛ませられた人間が馬車という檻を壊し、ユニスに飛び掛かっていた。水平に凪いだ腕で痩躯を払い飛ばした際、翻ったのは紅。痩せ細った少女の腕には、赤い紐が縫い付けられていた。


「っ魔女!? こんなところで……!」


「ユニス、廃病院まで走るぞ。あそこなら人気がないはずだ」


「わ!? わわわわかりました!」


 道端に倒れた魔女を伺察したままユニスを抱き上げる。馬車の傍で血を流している御者を一瞥してから、雑貨屋とパン屋に挟まれた隘路へ駆け入った。


 薬物事件の際に辿った道を回顧する。路地を駆けて、カレンと初めて出会った民家を通り過ぎる。湿っぽい細径さいけいの、更に奥へ馳せる。石畳に靴音と悲鳴が反響していた。追いかけてくる魔女の叫びと、すれ違う通行人の戸惑いが鳴り止まない。


 足を止めずに何度か振り向いたが、魔女はユニスだけを追跡しており、他の人間を側目にかけることもなかった。


 路地を抜けて廃道へ出る。浮浪者や薬物中毒者が虚ろにこちらを見上げていた。その視線を意に介さず、間道の先へ進み、針金で閉鎖された廃病院の敷地へと踊り入った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る