三巻/第三章

「I adore you」1

     《一》


 白を基調とした皎潔きょうけつな部屋に、点々と猩紅が散っている。ドレープカーテンの隙間から夕照せきしょうが滲み出して、血痕をルビーさながらに光らせていた。絨毯の上には投げ捨てられた玩具のように細い手足が転がっている。寂然の中で、リアムはそれを拾い上げ、憂わしげにベッドを見遣る。天蓋が影を落とすシーツには少女が横たわっていた。


 まるで手足を取り外された球体関節人形だ。猿轡を噛まされた唇が幽かに寝息を立て、生を明かしている。乱れた前髪の下で、その花瞼かけんは苦悶に隈取られているだろう。


 メイナードは、前腕部と下腿部を全て切り離されていた。衣服の裾は赤く染まり、無骨な手で押さえつけられた痕が痣となって太腿を色付けている。彼女を襲ったのが、単純な暴力だけでないことは、リアムの目からも明らかだった。三本の手足を抱えた彼がマットレスを軋ませても、白い睫毛は持ち上がらなかった。


 死んでしまっているのではないか、と、不安になったのだろう。彼女の猿轡を外したリアムの手が、そのまま蒼白い頬を撫でて息吹を確かめる。安堵が掌をなぞっても、不快感を拭ってくれることはない。彼は不興げな顔を崩すことなく、棒のような手足を魔法で繋げていった。


 リアムがアテナについて訊いたのは今朝方だ。アテナ抹殺の失敗に、クレイグの赫怒が鼓膜を劈いたのは言わずもがな。だが、『成功作の魔女となったアテナがメイナードとの閨事ねやごとを望んでいる』との言葉が、どんな怒号よりも犀利にリアムを貫いた。


 当然、リアムは拒んだ。メイナードとアテナの接触を許さなかった。だが、その乖背かいはいは許されなかった。


「……すまない」


「──そう思うなら僕を解放しろ」


 心細うらぐわしい睫毛が持ち上がったのは、両足と片腕が繋がった時だった。メイナードは上体を起こし、ベッドに腰掛けているリアムを睨む。長いくせ毛が歪な螺旋を描き、彼女の肩にまとわりついた。


「さっきの男……貴方の指示じゃないんだろ。成功作の魔女だ、としか名乗らなかった。いきなり手足を切り飛ばされて……ぁああもう最悪だ! あのクソ野郎!!」


 玲瓏な少女の声帯は次第に少年のような唸りを放つ。憤懣を握りしめた拳が、血紅色のシーツに打ち付けられた。床板を砕きそうなほどの衝撃で、ベッドを囲うレースのカーテンが僅かにひらめいていた。


 白皙の五指は自身の上腕部を掻き抱く。そこに縫い付けられた赤い紐を、しかと握りしめる。掻き暗す彼女の影に、小さな涓滴けんてきが零れ落ちた。


「これはシャノンの身体なんだ! それなのに! なのに僕は……ッ! あの子が託してくれた体を、守れなかった……!」


 悄然とした室内に悲鳴が反響する。痛ましい響きは刃を象っていた。形のない鋭刃はリアムにも、メイナード自身にも深々と刺さる。嗚咽が震え、声が消えていく。窓硝子を叩く夜音が、あまねく広がり始めた。


「メイちゃん……」


 リアムは片手を持ち上げ、小さな頭を撫でようとしたが、彼女に触れたのは形影だけだった。行き場を失くしたその手は、枕元へ伸びた。血だまりを生んでいる腕を掻い繰ると、彼女の切断面へそれを近付ける。


 殺してやる。と、微かなささめきが桜唇から零れる。誰に向けられたものか分からぬそれは、静寂にあてどなく安らい、消散する。余響に打ちすがった突声つきごえは対象を明確に定めていた。


「オッサン、お願いだ。僕をこの部屋から出して。貴方を縛ってる兄とやらも、僕を襲った魔女の男も、僕が殺してやる」


「それは、出来ない」


「なんで……! 貴方は、僕が傷付く度に辛そうな顔をしてるじゃないか。本当は嫌なんだろ。こんなことしたくないんだろ。貴方に兄を殺せとは言わない。僕に、殺す許可をくれ」


「出来ないんだ……!」


 ビスクドールじみた玉貌は面食らっていた。メイナードにとって、それは初めて聞いた音容だった。剽軽な彼の明き心を、垣間見た。メイナードは彼の煩憂を気取ってしまい、剥いていた牙を収めていく。


 リアムは繋げた細腕が無傷であることを確かめると、ベッドから下りて彼女に背中を向けた。


「メイちゃん、私はね。一生をかけて償わなければならない罪がある。君を傷付けたくない気持ちは本当だ。けれど、兄に従うのは私の贖罪なんだ。君と兄が敵対したら、私は君に枷を嵌めなきゃいけなくなる」


 ベッドの傍にある小棚から、銅製の水差しが錚然そうぜんと持ち上げられた。傾いたそれは水音を立て、表面に刻まれた薔薇がランプの光で橙に色付く。リアムは水差しをランプシェードの手前に片付けると、冷たいグラスをメイナードに差し出した。


 ワイングラスのような足のあるグラスを持ち慣れていないようで、繊指は落ち着きなく持ち方を変え、両手でボウル部分を覆った。硝子の表面にはエッジング加工が施されており、削り出されている模様は嬋媛せんえんする枝葉を模していた。


 メイナードは喉を鳴らして水嵩を減らしていく。口内が乾ききっていたらしく、グラスから唇を離すことなく水を飲み干していた。


「罪って、なに。貴方とお兄さんの間に、何があったの」


 空になったグラスがリアムの方へ突き付けられる。リアムはその足を摘まんで、小棚の上へ戻した。メイナードに側顔を晒した状態で踏み止まると、千草色の虹彩は左右に泳ぐ。彼は迷っていた。だが、迷いを見せた時点で、飄々と躱せないことも自覚していたはずだ。


 ベッドに腰を下ろした彼はメイナードに微笑んだ。眉尻を下げ、ゆったりと思い出を紡いでいく。


「昔……私達が住んでいた宮殿の一角でも、魔女の製造が行われていてね。幼い私は魔女のことを詳しく知らなかった。だが、親しくしていた使用人が急にいなくなって……城中を探したよ。彼女は、騒がしい地下牢にいた」


「それって……」


「魔女にされて、収容されていたんだ。当時の私はどうして彼女が囚われているのか分からなかった。ただ、悲しそうに泣き続けているから、出してやりたくて……護身用に持ち歩いていた拳銃で鍵を壊した」


 真剣に訊いてくれているメイナードに、リアムは穏やかな目顔で片手を持ち上げていた。指で銃を形作り、「バーン、ってね」と朗らかにジェスチャーをする。場を和ませたかったのだろう。けれど険を孕んでいく童顔に苦笑して、話を続けていた。


「扉を開けると、彼女はすぐに牢から飛び出した。私には目もくれず、階段を上がって外へ向かったんだ。呼びかけても応えてくれなくて、わけも分からず追いかけた先で、彼女は……衛兵と、私の母と、妹を殺していた」


 淡い紅燭を受け流すメイナードの頬が、ぴくりと動いた。色濃い同情を浮き上がらせていく彼女から、リアムはそっと目を逸らす。軽く睫毛を伏せると、シーツを握った己の手を見下ろしていた。


「妹は、生まれたばかりでね。今思うと、妹に聖水の香りが残っていて、魔女を引き寄せたんだろう。転がってる母上の首を置き去りにしたまま、魔女は潰れた赤子の頭部を、ずっと引っ掻き回していた。私は恐ろしくて、何も、出来なくてね。怯えたまま見ていたら、彼女は私に飛び掛かって来た。私も死ぬんだと思ったよ。でも……その攻撃を受け止めて、殺してくれたのが、兄だった」


 静かな衣擦れの音を立てて、引っ張られた布地をメイナードは打ち眺めていた。或いは、その眼差しは彼の手に向けられていたのかもしれない。骨ばった彼の手は、奪ってしまった命と、救われた命を、力強く握り締めていた。


「私は兄にいくつもの傷を与えたんだ。母を亡くした傷。フレデリカ……妹を、亡くした傷。私を庇った時に咬まれた腕の傷……全部、消えないんだよ」


「……でもそれは、貴方のせいじゃない。全部魔女がもたらした傷じゃないか。初めから、その人が魔女にされていなければ起こらなかったことだ」


「そうだね。だから兄は、私のことも、魔女のことも、ずっと憎んでいる。母とフレデリカが魔女のせいで亡くなったのに、今もなお魔女を製造し続けている父のことも、兄は嫌っている。それでも父を殺して王になろうとしないのは、家族としての情があるからだろう。私に『兄を手伝うこと』以外の罰を与えないのも、兄弟だからだろう」


 追懐した思い出の時間だけ、時が流れたかのように、いつの間にか室内は夜闇に包まれている。ベッドサイドのランプだけが仄赤く、無影の訪れを退けていた。僅かに窺える窓硝子は黒一色。白布にダマスク柄が刺繍されているカーテンは、夜空にかかる雲のような舛花ますはな色になっていた。


 語り終えたリアムがその場から動かないのは、メイナードを案じているからだろう。彼女は俯いたまま黙りこくっている。惣闇つつやみを欺く白髪に、暖かな熱が灯る。リアムは返答に窮している彼女をそっと撫でてやった。


 メイナードは暫くの間、彼に身を委ねていた。緘黙を噛み締めて、噛み締めて、やがて開口した時、赤いオッドアイは夜灯よりも輝いてリアムを射抜いた。


「魔女のことを知らなかったのなら、仕方ないじゃないか。貴方だって死ぬところだったんだ。貴方一人が罪を背負うなんて間違ってる。そんな、一生をかけて償わなければいけない罪なんて、ない。他人の為に生きてやる必要なんて、絶対にない」


 旺然と光彩を放つ目遣いに、リアムはたじろいだ。日輪よりもはるかに眩しい明眸に、眩暈を覚えていた。彼女の直情が夜を裂く。だけどリアムは知っていた。光は、掴むことが出来ないものなのだ、と。分かっていた。


「無知は、最たる罪なんだよ。メイちゃん」


 リアムが差し伸べられた手を取ることはなく、それ以上目線が交差することもなかった。立ち上がった彼がランプの光を遮り、伸びた影はメイナードを暗然と絵取る。暗色が揺らいで鈍い一音と共に遠ざかる。音は、一度だけだった。ジャケットの裾を引かれた彼は、立ち止まって振り向いていた。


「貴方がお兄さんに逆らえないのは分かったよ。だけど、僕には関係ない。それを考慮して僕が堪え続けてやる義理はない」


「ああ。けど君が私達に抵抗するのなら、君をずっと縛り付けなきゃならなくなる。君の行動次第で、酒場にいるユニスとエドウィンを危険に晒すことだってある。よく考えて動きなさい」


 ベッドの上で、メイナードが決然と立ち上がった。勁悍けいかんに振るわれた細腕はリアムの胸倉を掴む。大切な人の名を出されたことで苛立っているのだ、とリアムは思った。だが、彼が目睹したオッドアイは、怒りの片鱗すら覗かせない。黒み渡った夜陰が、その心情を覆い隠しているようだった。


 襟が破れそうなほどの力で、リアムは引き寄せられる。目先まで近付いた花貌が無感情に淡々と呟いた。


「オッサン。貴方の贖罪とかいうの、僕がぶっ壊してやろうか?」


 それが何を意味しているのか、造次、リアムは分からなかった。瞠目が沈思して、理解すると閉目していく。


 メイナードは、リアムに背を向けられてもなお、彼にその手を伸ばしたのだ。それは事実であり、比喩でもある。メイナードはリアムと手を取り合うことを諦めていなかった。


 すなわちそれは、リアムの兄を殺すということだ。逡巡が柔和な目元に漂う。リアムにとって兄は、自分を守ってくれた恩人だ。救われた瞬間が彼の脳裏を巡って、その首を左右に振らせていた。


「──ローレンス殿下。クレイグ殿下がお呼びです」


 ノックの音と共に扉が開く。執事の男が扉を背にしたまま頭を下げて待機していた。リアムはメイナードの手をやんわりと振り解き、襟を正して廊下へ向かう。


「わかった。彼女を別の寝室へ。メイドを呼んで着替えもさせてやってくれ。ここは血痕がひどい。明日掃除しておくように」


「かしこまりました」


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