三巻/第三章
「I adore you」1
《一》
白を基調とした
まるで手足を取り外された球体関節人形だ。猿轡を噛まされた唇が幽かに寝息を立て、生を明かしている。乱れた前髪の下で、その
メイナードは、前腕部と下腿部を全て切り離されていた。衣服の裾は赤く染まり、無骨な手で押さえつけられた痕が痣となって太腿を色付けている。彼女を襲ったのが、単純な暴力だけでないことは、リアムの目からも明らかだった。三本の手足を抱えた彼がマットレスを軋ませても、白い睫毛は持ち上がらなかった。
死んでしまっているのではないか、と、不安になったのだろう。彼女の猿轡を外したリアムの手が、そのまま蒼白い頬を撫でて息吹を確かめる。安堵が掌をなぞっても、不快感を拭ってくれることはない。彼は不興げな顔を崩すことなく、棒のような手足を魔法で繋げていった。
リアムがアテナについて訊いたのは今朝方だ。アテナ抹殺の失敗に、クレイグの赫怒が鼓膜を劈いたのは言わずもがな。だが、『成功作の魔女となったアテナがメイナードとの
当然、リアムは拒んだ。メイナードとアテナの接触を許さなかった。だが、その
「……すまない」
「──そう思うなら僕を解放しろ」
「さっきの男……貴方の指示じゃないんだろ。成功作の魔女だ、としか名乗らなかった。いきなり手足を切り飛ばされて……ぁああもう最悪だ! あのクソ野郎!!」
玲瓏な少女の声帯は次第に少年のような唸りを放つ。憤懣を握りしめた拳が、血紅色のシーツに打ち付けられた。床板を砕きそうなほどの衝撃で、ベッドを囲うレースのカーテンが僅かにひらめいていた。
白皙の五指は自身の上腕部を掻き抱く。そこに縫い付けられた赤い紐を、しかと握りしめる。掻き暗す彼女の影に、小さな
「これはシャノンの身体なんだ! それなのに! なのに僕は……ッ! あの子が託してくれた体を、守れなかった……!」
悄然とした室内に悲鳴が反響する。痛ましい響きは刃を象っていた。形のない鋭刃はリアムにも、メイナード自身にも深々と刺さる。嗚咽が震え、声が消えていく。窓硝子を叩く夜音が、あまねく広がり始めた。
「メイちゃん……」
リアムは片手を持ち上げ、小さな頭を撫でようとしたが、彼女に触れたのは形影だけだった。行き場を失くしたその手は、枕元へ伸びた。血だまりを生んでいる腕を掻い繰ると、彼女の切断面へそれを近付ける。
殺してやる。と、微かなささめきが桜唇から零れる。誰に向けられたものか分からぬそれは、静寂にあてどなく安らい、消散する。余響に打ちすがった
「オッサン、お願いだ。僕をこの部屋から出して。貴方を縛ってる兄とやらも、僕を襲った魔女の男も、僕が殺してやる」
「それは、出来ない」
「なんで……! 貴方は、僕が傷付く度に辛そうな顔をしてるじゃないか。本当は嫌なんだろ。こんなことしたくないんだろ。貴方に兄を殺せとは言わない。僕に、殺す許可をくれ」
「出来ないんだ……!」
ビスクドールじみた玉貌は面食らっていた。メイナードにとって、それは初めて聞いた音容だった。剽軽な彼の明き心を、垣間見た。メイナードは彼の煩憂を気取ってしまい、剥いていた牙を収めていく。
リアムは繋げた細腕が無傷であることを確かめると、ベッドから下りて彼女に背中を向けた。
「メイちゃん、私はね。一生をかけて償わなければならない罪がある。君を傷付けたくない気持ちは本当だ。けれど、兄に従うのは私の贖罪なんだ。君と兄が敵対したら、私は君に枷を嵌めなきゃいけなくなる」
ベッドの傍にある小棚から、銅製の水差しが
ワイングラスのような足のあるグラスを持ち慣れていないようで、繊指は落ち着きなく持ち方を変え、両手でボウル部分を覆った。硝子の表面にはエッジング加工が施されており、削り出されている模様は
メイナードは喉を鳴らして水嵩を減らしていく。口内が乾ききっていたらしく、グラスから唇を離すことなく水を飲み干していた。
「罪って、なに。貴方とお兄さんの間に、何があったの」
空になったグラスがリアムの方へ突き付けられる。リアムはその足を摘まんで、小棚の上へ戻した。メイナードに側顔を晒した状態で踏み止まると、千草色の虹彩は左右に泳ぐ。彼は迷っていた。だが、迷いを見せた時点で、飄々と躱せないことも自覚していたはずだ。
ベッドに腰を下ろした彼はメイナードに微笑んだ。眉尻を下げ、ゆったりと思い出を紡いでいく。
「昔……私達が住んでいた宮殿の一角でも、魔女の製造が行われていてね。幼い私は魔女のことを詳しく知らなかった。だが、親しくしていた使用人が急にいなくなって……城中を探したよ。彼女は、騒がしい地下牢にいた」
「それって……」
「魔女にされて、収容されていたんだ。当時の私はどうして彼女が囚われているのか分からなかった。ただ、悲しそうに泣き続けているから、出してやりたくて……護身用に持ち歩いていた拳銃で鍵を壊した」
真剣に訊いてくれているメイナードに、リアムは穏やかな目顔で片手を持ち上げていた。指で銃を形作り、「バーン、ってね」と朗らかにジェスチャーをする。場を和ませたかったのだろう。けれど険を孕んでいく童顔に苦笑して、話を続けていた。
「扉を開けると、彼女はすぐに牢から飛び出した。私には目もくれず、階段を上がって外へ向かったんだ。呼びかけても応えてくれなくて、わけも分からず追いかけた先で、彼女は……衛兵と、私の母と、妹を殺していた」
淡い紅燭を受け流すメイナードの頬が、ぴくりと動いた。色濃い同情を浮き上がらせていく彼女から、リアムはそっと目を逸らす。軽く睫毛を伏せると、シーツを握った己の手を見下ろしていた。
「妹は、生まれたばかりでね。今思うと、妹に聖水の香りが残っていて、魔女を引き寄せたんだろう。転がってる母上の首を置き去りにしたまま、魔女は潰れた赤子の頭部を、ずっと引っ掻き回していた。私は恐ろしくて、何も、出来なくてね。怯えたまま見ていたら、彼女は私に飛び掛かって来た。私も死ぬんだと思ったよ。でも……その攻撃を受け止めて、殺してくれたのが、兄だった」
静かな衣擦れの音を立てて、引っ張られた布地をメイナードは打ち眺めていた。或いは、その眼差しは彼の手に向けられていたのかもしれない。骨ばった彼の手は、奪ってしまった命と、救われた命を、力強く握り締めていた。
「私は兄にいくつもの傷を与えたんだ。母を亡くした傷。フレデリカ……妹を、亡くした傷。私を庇った時に咬まれた腕の傷……全部、消えないんだよ」
「……でもそれは、貴方のせいじゃない。全部魔女がもたらした傷じゃないか。初めから、その人が魔女にされていなければ起こらなかったことだ」
「そうだね。だから兄は、私のことも、魔女のことも、ずっと憎んでいる。母とフレデリカが魔女のせいで亡くなったのに、今もなお魔女を製造し続けている父のことも、兄は嫌っている。それでも父を殺して王になろうとしないのは、家族としての情があるからだろう。私に『兄を手伝うこと』以外の罰を与えないのも、兄弟だからだろう」
追懐した思い出の時間だけ、時が流れたかのように、いつの間にか室内は夜闇に包まれている。ベッドサイドのランプだけが仄赤く、無影の訪れを退けていた。僅かに窺える窓硝子は黒一色。白布にダマスク柄が刺繍されているカーテンは、夜空にかかる雲のような
語り終えたリアムがその場から動かないのは、メイナードを案じているからだろう。彼女は俯いたまま黙りこくっている。
メイナードは暫くの間、彼に身を委ねていた。緘黙を噛み締めて、噛み締めて、やがて開口した時、赤いオッドアイは夜灯よりも輝いてリアムを射抜いた。
「魔女のことを知らなかったのなら、仕方ないじゃないか。貴方だって死ぬところだったんだ。貴方一人が罪を背負うなんて間違ってる。そんな、一生をかけて償わなければいけない罪なんて、ない。他人の為に生きてやる必要なんて、絶対にない」
旺然と光彩を放つ目遣いに、リアムはたじろいだ。日輪よりもはるかに眩しい明眸に、眩暈を覚えていた。彼女の直情が夜を裂く。だけどリアムは知っていた。光は、掴むことが出来ないものなのだ、と。分かっていた。
「無知は、最たる罪なんだよ。メイちゃん」
リアムが差し伸べられた手を取ることはなく、それ以上目線が交差することもなかった。立ち上がった彼がランプの光を遮り、伸びた影はメイナードを暗然と絵取る。暗色が揺らいで鈍い一音と共に遠ざかる。音は、一度だけだった。ジャケットの裾を引かれた彼は、立ち止まって振り向いていた。
「貴方がお兄さんに逆らえないのは分かったよ。だけど、僕には関係ない。それを考慮して僕が堪え続けてやる義理はない」
「ああ。けど君が私達に抵抗するのなら、君をずっと縛り付けなきゃならなくなる。君の行動次第で、酒場にいるユニスとエドウィンを危険に晒すことだってある。よく考えて動きなさい」
ベッドの上で、メイナードが決然と立ち上がった。
襟が破れそうなほどの力で、リアムは引き寄せられる。目先まで近付いた花貌が無感情に淡々と呟いた。
「オッサン。貴方の贖罪とかいうの、僕がぶっ壊してやろうか?」
それが何を意味しているのか、造次、リアムは分からなかった。瞠目が沈思して、理解すると閉目していく。
メイナードは、リアムに背を向けられてもなお、彼にその手を伸ばしたのだ。それは事実であり、比喩でもある。メイナードはリアムと手を取り合うことを諦めていなかった。
すなわちそれは、リアムの兄を殺すということだ。逡巡が柔和な目元に漂う。リアムにとって兄は、自分を守ってくれた恩人だ。救われた瞬間が彼の脳裏を巡って、その首を左右に振らせていた。
「──ローレンス殿下。クレイグ殿下がお呼びです」
ノックの音と共に扉が開く。執事の男が扉を背にしたまま頭を下げて待機していた。リアムはメイナードの手をやんわりと振り解き、襟を正して廊下へ向かう。
「わかった。彼女を別の寝室へ。メイドを呼んで着替えもさせてやってくれ。ここは血痕がひどい。明日掃除しておくように」
「かしこまりました」
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