memento mori2

「あ……」


 リアムの所有地である宮殿内で、メイナードは食事をとっていた。広い食堂には彼女と、その正面に腰掛けているリアムしかいない。十二脚の椅子に囲まれた食卓は物寂しい。部屋の外には使用人が控えているが、閉じられた扉の内側は二人だけの空間だった。


 真っ白なテーブルクロスにナイフが転がったことで、グレイビーソースが斑模様を描く。卓上に置かれた蝋燭の火が揺らめき、ソースに反射して踊っていた。天井では花束のようなシャンデリアが閃爍せんしゃくしている。つまり、蝋燭は飾りでしかない。


 花瓶の花や、果物皿コンポートから零れる果物も、視覚を色付けるばかりでメイナードの心を鮮やかに染めてはくれない。落とした銀器を手繰る手つきは苛立ちを滲ませていた。


「メイちゃん、手に力が入らないのかい? とりあえずナイフは新しいものを用意させようか」


「別にいい、このまま使う。ヘッタクソな採血のせいで腕が疲れてるのかもね」


 メイナードが顎で示した細腕は、今日だけでも三回は穿刺されていた。魔女の血液に含まれる魔漿ましょう を摘出・移植する為であったが、色良い結果は出ていない。尤も、魔漿の移植によって魔女が生まれない現状は、魔女の量産が不可能だと明示したいリアム達にとって、良い結果と言えるだろう。


 魔漿はマウスへの投与から始まり、宮殿へ連れてきた奴隷や孤児、罪人への投与が行われている。そうして異物を取り込んだ実験体は、苦しんで死に至るか、一片の変化も見せないか、そのどちらかだった。変化が生じない個体の血液からは、魔漿が検出されなかった。


 メイナードは、自身の血液がどんな実験に使われているのか、それにより何人の死人が出ているのか、何も知らない。研究に対する興味は彼女の脳に生まれない。その小さな頭蓋では、大切な仲間との思い出が回転覗き絵ゾートロープのように繰り返し回想されていた。


 メイナードは時折、過去が薄れていく恐怖に、襲われる。その都度浮かべられる思い顔でリアムは困っていた。寂しげにローストビーフを咀嚼する彼女が、それを呑み込んで開口した時、何を言うのか。リアムには予想がついていた。


「ねえオッサン。逃げないからさ、エドウィンとユニスに会いに行っちゃダメ? オッサンが王子であることとかも、黙っておいてあげるから」


 オッドアイは目尻を下げて縋りつく。メイナードが日に日に暗然としていくのを、リアムは感取している。励ましたいと思えど、彼女が求めるものを差し出せない。困り眉で宥めることしか、彼には出来なかった。


「君を信用していないわけではないんだが、君一人で行かせるわけにはいかないから、駄目だよ」


「オッサンもくればいいだろ」


「あの二人に合わせる顔なんてないんだ。エドウィンもユニスも、怒るだろうな」


「…………オッサンはさ、なにがしたかったの」


 拳と共に打ち付けられたフォークが、重い怒りを音にする。傍に置かれていたティーカップが振動し、冷めた紅茶は僅かに零れていた。ダージリンの幽香と花の匂いが混ざる。冽々とした一室で、香りだけが朗らかだった。


「話しただろう。魔女が造られないように……」


「そうじゃない。王子としてとか、魔女がどうとか置いといて。エドウィンやユニスを、どうしたかったの。二人のことを助けたくて拾ったんだろ。それとも助けたい気持ちなんて初めからなかった? 利用しようとしただけだった? 僕を騙したアテナせんせいみたいに?」


 甘い匂いが透き通り、泣き出しそうな吐息も無音の中に沈んでいく。静けさがいやに冷たい。だからリアムは、自身の片腕を抱いて、その袖に皺を刻んでいた。手骨を浮き上がらせる力は罪悪感の表れか、ないしは憐憫の類と思われた。


 メイナードが自身の境遇と仲間の境遇を重ねているなど、リアムは思いもしなかった。メイナード当人も、憤懣の理由に今思い至ったのだ。理解したことで、彼女の渋面は更に歪んでいた。


 赦せないのだと、虹彩異色のはざめが言外に叫ぶ。リアムに重なるアテナの面影が、彼女の息遣いを荒々しく乱していく。


 リアムはふっと肩の力を抜いていた。諦念を孕んだ笑みの奥で、彼はその表情通りに諦めていた。ゆえに嘘もまやかしも、疲れきった吐息にあざなわれなかった。


「君の言う通りだ。私は、アテナを殺してくれる存在を求めていた。私自身の命を危険に晒すわけにはいかなくてね。だから、魔女やアテナを憎んで、追いかけて、殺してくれそうな駒が欲しかったんだ」


「なんだよ、それ……」


「最初に拾ったのはユニスだ。彼女は魔女を憎んでいなくて、人間に怯えていた。エドウィンは魔女もアテナも憎んでいたけど、手足が動かなくてね、この子もダメかと思ったが……良い結果になったよ」


 メイナードの奥歯が、高くおぞましい、嫌な音を鳴らす。一切の枷がなければ彼女は恐らくリアムを貫いていた。激情に溺れゆくその四肢を、思い出がその場に縛り付ける。


 彼女はリアムを殺せない。何故だ、と、声のない自問で彼女の心臓が脈打つ。大切な人を騙し、利用し、悲しませる敵を、何故殺せないのだ、と、心音が自らを責め立てる。


 ──嗚呼。諒解に伴われたのは紛れもなく嗚咽だった。


「ッ……貴方は、最低だ」


 飲み下せなかった憎悪が、胃の内容物を吐き出しそうなほど深い所から、逆流した。それ以上、彼女の声帯は動かなかった。その喉はこれ以上、何も嚥下出来ないだろう。


 リアムは椅子から立ち上がる。ティーカップの中に残された紅色が、彼の苦笑を受け止めていた。


「私も、そう思うよ。切り捨てるのが分かっていながら、情を注いでしまった。家族のように振る舞って、情を抱かせた。酷い大人だ」


 遠ざかる背中も、開閉する扉も、メイナードは追いかけない。彼と入れ替わるよう入室した使用人が、食器を片付け始める。ビスクドールじみた妙相は、俯いたまま怨毒を噛み締めていた。


 彼女はリアムを殺せない。エドウィンがコーデリアと再会した時、『彼に辛い思いをさせるくらいなら、恨まれてもいい』と、あの瞬間は思えた。けれど、それから彼と過ごした時間が、その心を変えていた。


 あの人に、恨まれたくない。


 弱さに分類される愛情を抱きしめて、メイナードは顰笑した。強くなりたいと幾度も願ったのに、見つけてしまったのは捨てられないほど愛おしい怯弱きょうじゃくだった。


     (二)


 身動ぎに伴われた衣擦れの音が、静穏な早朝でさざめく。重い瞼を持ち上げ、起き上がろうとして、動かない体に背筋が凍えた。怖気が項を這い上がってくる。手も足も力が入らず、抵抗すら出来ないまま、誰かの笑声が耳殻をなぞった。


 ようやく、気付く。それは単なる幻聴であり、長い年華を経ても消えない呪いの木霊だ。あの女が、今もなお死を囁く。あの日貫かれた傷が痛むようだった。


「っ……」


 疼痛は、錯覚ではなかった。昨日の戦闘で魔女に貫かれた内臓が、痛む。魔法で傷口は塞いだが、まだ完治していないみたいだ。


 目覚めてきた脳に指令を出し、四肢に魔力を走らせた。魔力は、熱せられた鉄みたいに熱かった。火傷しそうなほどの熱が骨を巡る。それも初めだけだ。数秒間堪えれば、耐えられる。指先を丸めて、まだ動けることに安堵した。


 カーテンが閉められた室内は薄暗い。旭影は未だ淡く、仄白い光が靄を思わせる。鳥の鳴き声が聞こえる静けさは今も夢裡にいるようで、それでいて霧中のようでもあった。朧げな朝に踏み出して、現実を踏みしめる。


 昨夜、ユニスに休むよう言われて酒場をカレン一人に任せてしまったが、おかげで戦闘で消耗した魔力も回復していた。疲労感が残留しているものの、魔女一体くらいなら倒せそうだ。


 尤も、魔女の討伐依頼は届いていない。父の姿を得たアテナも酒場には接触してこないだろう。奴をすぐにでも探し出して仕留めたい気持ちを諫め、マスターの居場所に意識を移す。


 マスターの部屋は酒場の三階にある。俺やユニス、メイやカレンは二階の部屋を与えられている為、三階に立ち入ることはあまりなかった。


 寝静まっている廊下を進み、階段を上がる。二階よりも部屋数が少なく、あるのは物置とマスターの部屋だけだ。奥が物置で手前が彼の部屋だということは覚えており、足付きに迷いはない。


 白金に艶めく真鍮のドアノブに手を掛け、捻る。鈍い金属音に、鍵がかかっていることを悟って顔を顰めた。足に魔力を込め、扉を蹴り開けようかと思ったが、まだ朝方であることを思い起こして力を抜いた。カレンもユニスも寝ているはずだ。轟音で目覚めさせてしまうのは気が引ける。一階の棚のどこかに鍵があるかもしれない。


 探しに行くか、と胸襟に零して一階へ向かった。階段を下りながら、ふと、食器の音が聞こえることに気が付く。何かをかき混ぜる響きに首を傾げつつ一階に踏み入ると、カウンターにはカレンとユニスが並んで立っていた。


「……あら、エドウィン早起きね」


「な、なんでもう起きてくるんですか!?」


 漂う甘い香りはチョコレートのものだ。ユニスの手元にある数個のボウルや泡立て器から察するに、何かを作っているようだった。カレンには苦笑を向けられ、ユニスには眉を吊り上げられ、邪魔者扱いされているのが判然としていた。


「ユニス、カレンと随分仲良くなったんだな。邪魔して悪いが、棚に……」


「邪魔とは言ってませんし仲良くなったとも言ってません!」


「そうか。用を済ませたら俺は上に戻るから仲良くしろ」


 野良猫さながらに威嚇をしてくるユニスを後目へ追いやり、カウンターへ近付く。机上に手を滑らせてからハッとして足を止めた。目的の棚はカウンターの後ろにある食器棚の下だ。菓子作りをしている二人の後ろを通れなくはないが、どこにあるかも分からないものを探し始めたら邪魔になるだろう。


 泡立て器を鳴らし始めたユニスをカレンが見守っていたが、立ち尽くしている俺に気付いて、察したように両手を合わせていた。


「用ってもしかして、カウンターに?」


「……ああ。鍵を探したかったんだが、後にした方がいいか」


「鍵? ちょっと待って」


 方向転換したカレンの耳飾りがちらと光る。彼女は棚の取っ手に迷いなく指を添えていた。当てずっぽうならば端から開けていくはずだ。いくつもある取っ手のうち、端でも中央でもない位置のものを引き開けて、金属音を揺らす。


 取り出されたのはキーリングだった。大きさの異なる鍵が数本、金の輪に通されている。


「これでいい?」


「どこにあるのか知ってたのか?」


「あ……昨日、二人が出掛けている間に掃除とかカウンターの整理とかしてたの。どの棚に何が入っているか、ちゃんと見たことなかったから把握しておきたくて色々見ちゃった。仕事中に『アレがない、コレがない』ってなったら、エドウィンに迷惑かけちゃうもの」


「迷惑なんて気にするな。分からないことがあったらいつでも聞いてくれ。鍵、ありがとな」


 カレンの手元にあるリングを摘まみ、琅琅とぶつかりあう鍵を手の平に収める。鍵の受け渡しをしている間、ひたすら何かを混ぜていたユニスが顔を真っ赤にし、ボウルをカレンの方へ押し飛ばしていた。


「もう疲れました! まだ混ぜるんですか!?」


「わっ、ユニスちゃんすごい! 卵黄、しっかり良い色になってるわ! 頑張ったのね」


「じゃあもう混ぜなくていいんですね……!」


「えっと、今度はそれをさっきのチョコレートに加えて混ぜるんだけど、お姉さんが交代しようか?」


「い、いいです、私がやります。私だって作り方さえ分かれば一人で作れますから!」


 和気藹々と調理器具を囲う二人の姿は微笑ましい。珍しく料理に挑戦しているユニスも、それを見守るカレンも、姉妹みたいだった。彼女達から顔を逸らし、再度マスターの部屋まで階段を上がっていく。


 開かずの扉を前に、キーリングの鍵を観察した。計十本の鍵は、形状の似ているものがほとんどで、二本だけ明らかに異なる大きさの鍵が付いている。俺は自室の鍵を持っていないが、追考してみると二階の各部屋にも鍵はある。同じ大きさの鍵が、二階と三階の各部屋のものではないかと推測出来た。


 数が多くて面倒だなと咨嗟を漏らし、一つずつ差し込んでいく。ハズレを三回引いて、四度目でようやく金具がおとなってほどけた。


 塗装によって木目が際立ったマホガニーの扉を開ける。マスターの部屋の中は、この位置から何度か見たことがあるが、実際に室内へ踏み入るのは初めてだった。絨毯を踏みしめて扉を閉めれば、ムスクの香りと煙草の匂いが鼻腔を徹る。何年彼と過ごしても、未だに慣れない人工的な匂い。彼がいた証に、目を細めた。


 家具の配置を観察する。正面には本棚と机、右手側にはクローゼットやキャビネットが並び、左手側にはベッドや小棚がある。机の上には何冊もの本が置き去りにされていた。


 足を踏み出すと、部屋の隅から僅かに飛び出していたゴミ箱に躓く。それを壁に押し付けて何気なく中身を見下ろした。外出前に処分したのか、箱の中には何も入っていなかった。


 一先ず手前のキャビネットを見遣る。引き戸が二つ、開き戸が二つのシンプルな造りだった。黒く染められた木材は僅少の埃も目立つ。上面には小物が乱雑に置かれており、箱状のものを開けてみた。中身は指輪やネクタイピンなどのアクセサリー類で、すぐに閉じた。


 隣に置かれていた小箱も検める。やけに綺麗な万年筆が収められていて、客からの贈り物だろうかと思惟しつつ持ち上げてみた。傷一つない表面から察するに、使用された形跡はない。蓋にはアルファベットが刻まれていた。『L.M.Albright』。誰かのイニシャルか、製造会社の名前のようだ。蓋の上部には琥珀が埋め込まれており、胴軸には金の装飾が刻まれている。高価なものであることは分かったが、彼の消息とは関係が無さそうだった。


 万年筆を戻して引き戸を開ける。そこには小棚のような箱があった。箱の引き出しは四つ、小物が入る高さはない。レターケースである可能性が高く、引き出しを開けてみれば、果然といくつもの便箋がそこにあった。


 一枚一枚宛名と差出人の名を確認していく。宛名はどれもリアム・ブライトマンと書かれている。マスターとしての彼の交友関係しか見当たらない。悪いとは思ったが中身にもざっと目を通していく。商売関係の手紙よりも、女性客とのやりとりが多くて頭を抱えたくなった。営業の一環としての交流と思われるが、恋人同士の文通を覗き見している気分になる。


 半ば呆れて、それでも一通ずつ読み進めていき、紙をめくる指が止まった。


 古ぼけた封筒には、他のものと同じくリアムの宛名が丁寧に書かれていた。だが、便箋の宛名には違和感がある。『Liam』の『i』が無理矢理『a』の前に書き足され、『m』も『u』に加筆したような、歪な筆跡だ。リアム、と彼を呼ぶ者が、Lauから書き始めるだろうか。


 訝しんで手紙の内容を追いかけたが、動揺の呼気が溢れた。


『私から手紙を送るのは初めてかもしれないな。先日の少年のことが気がかりで、彼は元気かどうか確かめたくなった。あの日も同じ謝罪をしたが、廊下での会話が彼に聞こえてしまうとは思っていなかったんだ。思い返せば、君に怒鳴られたのはあの日が初めてだな。君は八つ当たりだったと謝罪をしてくれたが、私にも非があったのだから、今一度謝辞を述べさせてくれ』


 息が、詰まる。記されている『少年』とは、俺のことだろう。この差出人は、恐らくあの時の医者だ。いや、それよりも。マスターが怒る姿も、怒りの理由にも、想像が辿り着かなかった。


『あれほどあの子を気にかけている君には、何も言う必要はないかもしれないが。体が治らなくとも、心は治してやれる。きっとあの子も、希望を見い出せる。リアム、君が拾った子だ。親の代わりとして尽くす覚悟で助けたんだろう。だから、絶対に幸せにしてやるんだぞ。私はあの子の力になれなかったが、せめて、あの子が笑える日が来ることを、祈らせてくれ』


「グレン……」


 ささめいた差出人の名は確かに、五年前マスターが呼んでいた医者のものだった。綴られている彼の優しさも、文面から窺えるマスターの襟懐きんかいも、受け止め慣れていない温かさを内包していて、目顔が落ち着かなかった。


 マスターに拾われてから五年。成人して、大人という歳になっても、親心は分からない。俺に魔女狩りをやめろと言い出した数週間前の彼を思い出す。あの時の彼は、俺の幸せというものを、願っていたのだろうか。


 静かに、息を吐き出した。込み上げた感情は複雑で、それに名称はなかった。


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