bad blood5

 高い魔力を伝わせ続けた体が、ひどく熱い。深呼吸をし、ゆっくりと魔力を薄れさせていく。同時に枯渇していた酸素を取り込む。搔い澄んだホールには呼吸音が透き通っていった。魔女の声はしない。幻聴だけが閑静に弥漫びまんしていく。立ち尽くす俺を、小さな靴音が呼ぶ。


「大丈夫、ですか?」


 振り返ったら、ユニスが不安そうな面貌でこちらを見上げていた。唇には紅を擦った跡があり、彼女が喀血したことを明かしていた。恐らく、俺を助けた時に魔力を使い過ぎたのだろう。彼女の、やや曲がっている帽子に軽く手を置いて撫でてやる。


「ユニス、さっきは助かった。けど……無理をさせたな。悪い」


「む、無理をしてるのは貴方のほうでしょ!? 傷は大丈夫です?」


「ああ。塞いだ。だから問題ない。……二階に行くぞ」


「え、ちょっ、ちょっと……!」


 ユニスの戸惑いが高らかに木霊する。コートの裾を引っ張られたことで、階段へは数歩しか近づけなかった。後目に見た自身の外套は、白磁の繊手に握り締められていた。


「帰りましょう。だって、魔力、限界なんじゃないですか……?」


「まだ、大丈夫だ」


 警告音がやかましいが、幸い、気を抜いても立っていられる程度の魔力は残っている。貧血の症状もないため、万一魔力が尽きても血液を変換することでどうにか戦えるはずだ。


 コートの襟を引っ張り、ユニスの制止を解いて階段を上っていく。踊り場を超えて二階へ踏み入る。二階の床には絨毯が敷かれていた。カレイドスコープを覗き込んだ時に見るような、無数の色彩で幾何学模様を描いた柄。それは塵埃を被って色褪せている。破れているカーテンや、汚れた窓硝子には蜘蛛の巣が絡みつき、炯然けいぜんな陽光が埃を可視化する。


 一階よりも長い間放置されている空間だ、と察したが、戦闘時に二階から降りてきた魔女もいる。油断はできない。


 三階に繋がる階段は、長い絨毯を挟んで左右に二つあった。その一方を睇視ていしして、眉間に皺を寄せた。


 傍で観察してみれば、埃で白んだ木製の手すりに、何者かが指でなぞったような跡が残っていた。理性のない魔女ならば、爪を突き立てそうなものだ。軽い力で触れた痕跡は、けだしく人間のものと思われる。


「エドウィン、もう悲鳴も気配もありません。歩けなくなる前に、帰──」


 跫音に、伏せていた睫毛が跳ねた。ユニスのヒールの音ではない。重い、革靴の響き。反対側の階段を見放みさくと拍手の音が響く。


 上階の踊り場で、燕尾服を纏った男が手を叩いていた。男の真っ白な髪は目にかかるほど長く、その眼差しは窺えない。それでも楽しげに笑っているのが、老いた口元から見て取れた。


 笑窪を作った彼が階段をゆっくりと下ってくる。低く柔和な音吐が滴々と、寂静じゃくじょうに波紋を生んだ。


「驚いたよ。あの数をたった二人で倒すなんて」


 絨毯を擦り鳴らして立ち止まった男。ユニスを背に匿うよう前へ出て、鋭刃を構える。眼路には、窓三つ分の四角い旭光が横たわっている。俺も彼も、眩燿な舞台へ進むことなく、暗らかな袖の中で睨み合っていた。


「……お前は、何者だ」


 男は武器を抜かない。戦う意思も見られない。だが、切っ先を下げることは本能が許さなかった。蔓延する空気が薄く、冷たくなったような、異質な不快感。それが何に対する畏怖なのか分からない。


 けれど、この感覚には、覚えがあった。


 警戒したまま眇目する俺に、男は痩せこけた頬を持ち上げた。


「私は手紙の差出人だよ。ここに魔女がいると教えてあげたのは、私だ。この前は墓場でも会ったじゃないか。それに、この顔にも見覚えはあるだろう?」


 墓場、と胸膈に呟く。彼が喋る度、誰かの声が耳底で蘇る。男は真っ白な髪をかき上げ、耳にかけた。不敵に笑う顔様は、ことのほか若い。老いたというよりも窶れた風貌で、マスターと同じ年頃か、彼よりも少し上くらいに見えた。


 カツ、と、革靴が光を踏む。陰を抜け、近付いた彼の姿色を、判然と両目に映せる。


 脱色した髪に時折混ざっている鈍色。破顔する眼窩に埋まっている、洋紅色の瞳。瞬いて追蹤ついしょうした過去の中に、その男は、居た。


「……父、さん……」


 彼が存生ぞんじょうしている事実に剣先が揺れる。俺は父の死体を見ていない。生き延びた可能性は確かにある。それでも、欣喜することが出来なかった。喜びよりも疑いが先行するほど、五年前の彼とは、情調があまりに異なっていた。


「え、エドウィンの……?」


 背後でユニスが気抜けた疑問符を転がす。正面では父が温順に緩頬かんきょうする。唇で繊月を描く上品な笑い方。ふっ、と零れた笑みはどこまでも穏やかだった。


「やっと気付いたのかい。髪が白くなってしまったから分かりにくかったのかな」


 優しい父親の顔で歩んだ彼は、中央の窓から明かりを浴びた。格子状の影を背負うと、不意に足を止めていた。彼が瞠視しているのは、この手にある切刃きりはだ。機鋒が下ろされることなく、未だ突き付けられていることに、面食らっているようだった。


 違う。


 握り締められた柄の先で、傾いた白刃が幽かに光る。肋骨の内側で、正鵠が早鐘を打つ。臓腑が、喉が、焼け爛れていく。牙を剥いて差し向けたのは、熱い怨嗟だった。


「あの人は、そんな喋り方をしない。お前は……ッ」


「っふふ……ははははは! そう簡単に騙せはしないか。君は姿惑わされなかったしな」


 自身の奥歯が嫌な音を立てる。先程、彼を一見した瞬間に味わった怖気。その正答にようやく思念が辿り着く。


 五年前、俺の村を襲い、妹を攫い、彼女の肉体に魂を移していたバケモノ。数週間前にこの手で誅殺した仇敵──アテナが、父の姿で面前に立っていた。


 妹の遺体を探していた研究者の男女を追思する。甘かった。俺の名字を知り、妹の墓を特定しようとした彼らを殺せば、妹を守れると思った。だが恐らく、男が俺を尋問している合間、女がコーデリアに繋がる情報を他の仲間と共有したのだろう。


 コーデリアの墓前でこの男アテナとすれ違ったことを思い出す。あの時、既にあの墓は、掘り起こされた後だったのだと、理解する。


 妹の亡骸を冒涜した奴らへ、瞋恚しんいが溢れる。何も知らずに墓参りを続けていた己に、赫怒かくどが沸き立つ。擦り鳴らした革靴に、構えた切っ先に、深怨を纏わせる。──殺す。その意思に反して僅かに手が震えた。


 厳しくも優しかった父との思い出を、今だけ忘れ去る。こいつは父ではないと、そう強く意識して、攻め入る隙を待望していた。


 窓の向こうで赤烏せきうに雲がかかる。燦然たる日光が、溶暗していく。蒼黒い陰影に塗抹されたアテナが、くつくつと喉を鳴らした。


「君の父親は村人と繋がれて魔女の実験体になったが、五年もの間目覚めなかったんだ。私の部下が、私の魂を移したことで、ようやくこの肉体は目覚めた。『成功作の魔女』として、私は蘇ったんだよ」


 彼はジャケットの袖を捲り、前腕部を晒す。そこには赤い紐が数度交差する形で縫い付けられ、千切れた先は手首に結ばれていた。


「……わざわざ俺を呼び出して、また死にに来たのか」


「まさか。君と一緒にメイも来ると思ったんだ。それなのに君達だけが来るなんてな。君を殺して、君の生首でも酒場に届けてやれば、メイは出てくるかい? それとも、メイは君と一緒にいないのか?」


 俺に問いかけながら、彼はユニスを眼差す。メイの居場所を、ユニスの反応を見て探っているようだった。


 今すぐにでも飛び掛かりたい気持ちを懸命に堪え、好機をひたすらに窺窬きゆする。


「……メイに、何の用だ」


「試したいことがあってね。『成功作の魔女』同士が交わったら、成功作の魔女と同等の力を持つ子供が産まれるかもしれないだろう?」


 後方で、ユニスの息が震怖して引き攣っていた。怫然と炯眼を突きつけても彼は譏笑きしょうする。笑み曲がった悪相で、吐き気がするほどの嘲りを喋々する。


「そうなったら、この肉体は君の父親のものだから……君に新しい妹か弟を与えてやれるな。『あの妹』の代わりになるかな?」


 鍔迫り合いの璆鏘きゅうそうが鳴り満ちた。嘲謔の余韻が浮漂している只中、時計の短針が硬直している弾指の間、蹶然けつぜんと切り込んだ。にもかかわらず、徒手だった彼は執刀して急襲を凌いでいる。


 舌を打ち、交差している奴のナイフを砕くつもりで魔力を込めた。黒手袋に朱殷が滲むほど、血液を掻き集める。金属が擦り切れる音に眉を寄せながら刃を振り抜いた。


 戛然かつぜんと鉄塊が宙に舞う。折柄、アテナは後部へ跳躍して、毀壊した得物を放り捨てていた。


 急追しようとした足が、よろめく。倒れぬよう両足に魔力を注ぐ。しかし、頽れて片膝を突き、喀血した。


「っ……」


「エドウィン!」


「っはは、愚かだな少年。やめたほうがいい。自分でも分かってるだろう? 何体もの魔女と戦い、負傷した体……そのザマで、成功作の魔女である私に勝てるわけがない」


 魔力はこれ以上使えない。貧血で眩暈がする。だが、この身に走る血脈は、脈動している。まだ、この血を使える。


 想像しろ。《拡張》しろ。目の前の外道を、心火で灼き殺す力を。


 立ち上がった全身が、表皮に滲み出した血液で濡れていた。ナイフを構え、虚空を薙いだ袖口からボタボタと猩血をあやす。鉄の臭いは薄く、どういうわけか、かぐわしい蘭麝らんじゃが漂った。


 睥睨で捉えたアテナは武器を抜かない。自若として笑みを深めていた。


「君は、君の妹よりも、この肉体よりも……魔力の香りが強い。魔女の材料にしたいな。君が成功作の魔女になれば良い部下に出来そうだ。いや、私と君とメイで、魔女の家族になるのも悪くない」


「馬鹿げた夢は棺の中でいだいてろ。今度こそあの世に送ってやる」


 アテナの額へ擲ったナイフの閃影。低姿勢で猛進し、その影に追いつく。置物のように停止している彼は既に目前。睨み上げた微笑が傾き、投擲したナイフを躱される。彼の胸部へ突き出した切っ先が掴み上げられる。


 白手袋を赤く染めながら利刃を振り払おうとする彼。その足首に革靴を沈めた。骨を砕かんばかりの一蹴は、皺ひとつなかったスラックスを捩じ切ろうとする。


 ナイフを掴んでいた彼の力が緩む。バランスを崩して倒れ込んでくる敵影に爪先を突きあげる。顔を掠めた、程度ではない。顎を深々と蹴り上げた。脳が震盪したはずだ。されどそれを物ともせず、足を掴まれたものだから息を呑んだ。


 浮遊感を覚えたのは一瞬。次の瞬間には階段へ投げ出されており、手すりに肩甲骨を打ち付け、瞬刻、肺が圧迫される。


 床に転がって咳き込む。酸痛で脱力した身体に、再び魔力を走らせて起き返った。


 窓際に立った彼は、仄明るい外気を片手で転がしていた。光華を散らすそれはナイフだ。俺を投げ飛ばす前に、奪っていたようだった。


「どうやら君の傍にメイはいないようだし、となるとメイは攫われたか? メイが壊される前に見つけたいんでね、死にかけの羽虫に構っている暇はない」


 喘鳴を噛み締めて扼腕する俺に、さいが向かい来る。鋭鋒が虹彩を射抜く前に避け、その柄を掴み取った時、硝子がけたたましく砕けた。


 武骨な手で窓を割った彼が、一度だけこちらを振り向く。彼がそこから飛び降りようとしているのを理解して、速度を上げて飛び掛かった。


「命拾いしたな、少年」


「待て……!」


 半透明の景色が零砕する。陸離として煌めく空に、身を投げ出した彼。間に合わない。それでも、燕尾服の布端だけでも掴めることを願って、片手を伸ばす。すぐに貫けるように、武器を目いっぱい引く。伸ばした手が風を掴んで、歯噛みした。


 自身も窓から落ちそうになりつつ、中空の彼へナイフを打ち放とうとした。しかし、後ろからしがみつかれて動けなくなる。 


「駄目です!」


 ユニスの両腕が、胴に回されていた。いつから、そんなに近くにいたのか。星のようだった窓硝子が、階下で罅割れた騒音を立てる。アテナの着地音は聞こえない。冷たい風が頬を撫でる。寂寞の訪れに、振り上げていた腕を、下ろした。


「エドウィン、魔法を、解いてください。お願いです、倒れても受け止めますから……貴方が動けるようになるまで、私が傍にいますから。もう、休んでください」


 細い腕が、ひどく震えている。人嫌いの彼女が自ら他人にしがみついて引き止めるのは、勇気が要ることだったろう。怯えさせたくなくて、振り払うことは出来なかった。


 激情を鎮め、苦り笑う。妹だけでなく父まで弄ばれ、メイにまで手を出そうとしている怨敵に敵わず、無力感に唇を噛み締めた。奴の言う通りだ。あのまま戦っていても、きっと敗北していたのは俺の方。魔力も血も、不足している。


 吹き抜ける涼風が血濡れた肌を滑っていく。表皮が冷たい。糸雨が降り始めていたことに、気が付く。埃っぽい臭いに鼻を顰め、ユニスの袖を軽く引っ張った。


「……手、離してくれるか。このまま倒れたら、お前にぶつかる」


 アテナを追いかけると思われているのか、ユニスはなかなか離れない。小さくため息を吐き出す。と、ようやくユニスが、恐る恐る離れていった。彼女の方へ振り向いて、壊れた窓を背に、魔法を解いていく。片膝を立てて座り込めば、隣に彼女も座り始める。


 ユニスは俺の腕に側頭部を凭れさせると、両腕を伸ばし、赤く染まった袖をひらひら泳がせていた。 


「貴方が血塗れだから、私の服にもべったり付いちゃいましたよ。もうっ……」


「お前がしがみつくからだろ」


「だって、そうしないと止まってくれなかったでしょ」


 アテナに切りかかってから、ユニスがいることも、暫く忘れていた。呼び止められただけでは、確かに止まらなかったかもしれない。あのままアテナと共に庭へ落ちて、戦い続けたと思う。


 何より、ユニスでなかったら、払い除けていたはずだ。


 寡少の魔力すら使わずに休みたくて、絨毯の上で横になった。背中の向こうで座ったままの彼女に、届くか不安になるくらいの弱さで、ささめいた。


「ユニス」


「どうしました?」


「…………お前がいてくれて、よかった」


 瞼を伏せる。冷静になったおかげで、聴覚に馴染んでいた耳鳴りが、またはっきりと聞こえ始める。風籟ふうらいも雨音も遠くに聞こえる。疲労感にぐったりしていれば、冷たい手が頭に触れた。


 震えながらも横髪を撫でてくるユニスの手。壊れ物でも触るように優しくて、ぎこちないものだから、苦笑してしまう。まるで寝かしつけるみたいに、彼女はその手を止めなかった。声を掛けてやめさせるか悩んでいると、先に呼びかけられる。


「エドウィン。メイさんが、言ってましたよね。私達、酒場『化物退治』のメンバーは家族、って」


「……そんなこと、言ってたな」


「貴方にとって大切な、本当のご家族は……みんな安らかに眠って貴方を見守っています。だから、もし迷ったら、今いる私達を思い浮かべてください。貴方が罪悪感を抱かなくていいように。貴方が、孤独にならないように。少なくとも私は、いなくなりませんから」


 気遣いが、柔らかに額を伝う。溶け合う体温は不快じゃなかった。ユニスが何故そんなことを言い出したのか、先刻のアテナの姿を追想して合点がいく。思えばメイも、俺がコーデリアを手にかける時、深憂を向けてくれた。


 コーデリアに優しかった父を思い出す。俺には厳しかった彼と、何度も口論したことを、思い出す。反抗期というものがあったなら、父に対しての俺はずっと反抗期だったかもしれない。それでも、乱雑に頭を撫でる大きな手を、今も覚えている。


 父の姿をしていても、アテナはアテナだ。風貌が思い出とかけ離れた分、コーデリアの時よりも簡単に、別人だと認識できる。何より、もし父の意識が生きてたなら、躊躇する俺を怒鳴るだろう。だからトドメを刺す時、きっと迷わずにいられる。


「大丈夫だ。あのひとのことも……ちゃんと、眠らせてやる」


 奴を、必ず殺してみせる。


 決意に歯を軋ませ、眼裏の暗闇を見つめた。瞼で明滅する無形の色彩を視一視して、ひとえに頭を回す。


 メイに危機を報せなければならない。マスターとメイがどこにいるのか、深く考える。手掛かりになるもの、情報を知っていそうな者を、脳漿で探る。


 身動ぎをすれば、懐で紙が擦れた。それはアテナが差し出したという紙屑だ。


 手紙。一掬いっきくの希望を、その単語に見出す。マスターの過去を知る者や、『リアム・ブライトマンではない彼』を知る者との手紙が、彼の部屋に残されている可能性が、僅かながらある。


 酒場の部屋を脳裏に浮かべ、ユニスの体温を感じながら、魔力が回復するのをただただ待っていた。

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