bad blood2

     (二)


 メイとマスターが帰ってこないまま一週間が過ぎていた。酒場は俺とカレンだけでどうにか回しているが、マスターがいないことを心配する客の声も多い。彼らには『マスターは旅行に出かけている』と言っておいたが、ずいぶん長旅だな、と思うかもしれない。俺もそう思いながら、どうすることも出来ずにいた。


 手元に置いたワイングラスの、透き通った音が耳殻にまとわりつく。客の談笑が聴覚から遠のいていく。硝子は鐘声に似た余韻を広げ、耳鳴りを生んだ。酒瓶のコルクを外す響きさえ、遮音の泡に呑まれて聞こえなかった。


 ボトルを傾け、頭痛に渋面を浮かべていたら、女性の吃驚が鼓膜を貫いた。


「エドウィン! お酒零れてる……!」


「──ぁ……」


 客と話していたカレンがいつの間にか隣に来ており、彼女の焦燥にハッとする。即座にワインボトルの口を持ち上げたが、手元にあるグラスには並々とワインが注がれていた。のみならず、葡萄色の雫が机の端から床へと零れ始めている。


 後ろの棚から布巾を手繰り寄せ、零れたワインを拭いていく。新しいグラスを用意して、ワインを注ぎ直してからカウンターへ乗せると、常連客である男性の方へフットを滑らせた。


「すみませんドルフさん。お待たせいたしました」


「別にいいんだけどよ、大丈夫か? エドウィン、最近ずっと調子悪そうだぜ。ちゃんと寝てるのか?」


「……ええ、俺は大丈夫です。お心遣いありがとうございます」


 頷きながら俯き、頭を抱える代わりに眉根を寄せる。簡単な質問にさえ返事に詰まる。下唇を噛んで、先刻のワイングラスを洗い始めた。


 メイとマスターが何故帰ってこないのか、そればかり深思している。何かに巻き込まれている可能性や、最悪の想像ばかりが浮かんで脳から離れない。


『成功作の魔女であるメイが、魔女研究員に目を付けられ戦闘になった』という臆説が、考えられる奇禍の中で最も有り得る。二人なら大丈夫だ、という安心は、日毎薄れていた。


 不意に、視界で赤いネイルが光る。女性の指はカウンターを軽く叩いて俺を呼んでいた。化粧の濃い艶麗な顔が傾く。波打つ金髪が甘い香りを散らし、アルコールの残り香と絡みあった。


「エドウィンこんばんは、紅茶を入れてちょうだい」


「こんばんは、ジュディさん。……お酒じゃなくて良いんですか?」


「ええ。貴方にあげるんですもの。お仕事の合間に飲んで」


 ジュディは小ぶりの鞄から貨幣を取り出して卓上に並べる。気抜けた顔でそれを見下ろし、対応に悩んで凝然としていると、ドルフが出し抜けに立ち上がった。彼が転がした銭の璆鏘きゅうそうは、ジュディが目を瞠るほど鳴り渡っていた。


「っ待て待て、なら俺は珈琲だ。エドウィン、俺の金で好きなだけ珈琲を飲みな」


「何言ってるのよ、エドウィンはきっと珈琲より紅茶の方が好きよ」


「……いえ、あの、どちらもお気持ちだけ頂きますね。お金は仕舞ってください。ありがとうございます」


 二人の気遣いに、煩悶を取り鎮めていく。狭まっていた視野が少しだけ拓けたような気がした。鮮明になった眼を動かし、正確に音を捉える。


 カウンターの端で他の客が呼んでいることに気が付き、一旦二人から離れていく。メニュー表を見ていた女性客にアドニスを注文された為、シェリーとスイートベルモット、オレンジビターズを棚から取り出した。


 脳漿の留記を捲って分量を確かめながら、冷やしておいたミキシンググラスに材料を注いでいく。撹拌すると氷が涼やかな音を立て、照明の光が水面で踊っていた。混ざり切ったそれを空のカクテルグラスに移し、そっと客に差し出した。


 ジュディとドルフの方へ戻ると、二人は楽し気に相話していた。『子を持ったことがある親』という共通点から、話は弾んでいるみたいだ。


 会話が途切れたところで、ジュディに呼びかける。


「ジュディさん。ご注文はお決まりでしょうか?」


「そうね……ピンク・ジンにするわ。氷は要らない」


「かしこまりました」


 材料の酒瓶とグラスを用意して小息を吐いた。かすかな深呼吸ののち、接客だけに集中していく。ジュディとドルフの掛け合いを片耳で聞きつつ、アンゴスチュラ・ビターズをグラスに三回振り入れた。持ち上げたグラスを丁寧に回し、琥珀色を底全体に馴染ませてからドライ・ジンを注いだ。


 ジュディは俺からグラスを受け取ると笑みを咲かせる。飴色を揺らした彼女は、しかし口付ける前にそれを座右によけて置いていた。彼女は母親然とした顔で俺に片手を伸ばし、頬に触れてくる。その冷たさに、頭が冷えていく。


「心配よね、リアムがこんなに帰ってこないなんて。旅行先で何かあったのかもって、気になっちゃうわよね」


「……そう、ですね」


「気分転換に遊んだほうがいいわよ? 恋人に慰めてもらったら?」


 頬から顎へと下った繊手はそのまま落ち、首筋をなぞった。彼女の指が絡め取ったのはシャツに忍ばせていたネックレスだ。これと揃いのものを女性店員カレンが着けていることにも、気付いているのだろう。


 悪戯っぽく笑うジュディの手をやんわりと退けて、ネックレスを仕舞い直す。


「生憎、恋人はいませんよ」


「あら、じゃあ私が慰めてあげましょうか。いつでも空いてるわよ」


「大丈夫です。ありがとうございます」


 彼女に苦笑をし、ドルフから空になったグラスを受け取った。洗わないとな、と思いつつ何の気なしに面を上げる。カレンはテーブル席の、身形の良い男性と話していた。腰を屈めて男性の唇に耳を寄せ、何かを囁かれている。その様子を眺めていれば、カレンと目が合った。


 視線を手元に戻して蛇口を捻る。ワイングラスを洗う水音に、ヒールの歩みが近付いた。目界の端には胡桃色の髪が零れ落ち、カレンが耳打ちをしてくる。


「エドウィン、もしかして嫉妬しちゃった?」


「違う。酒かグラスか接客に、何か問題でもあったか?」


「いいえ。そうね、口説かれてただけ」


「ならいい」


「ちょっと、よくないでしょ」


 頬を膨らませたカレンが流し台に片手を突く。不満げな紅顔を瞥見してから細腕を見遣る。彼女の腕時計が示す時刻はもう夜更け。蛇口を止めてグラスの水気を拭き取り、食器棚をかえりみた。


「そろそろ閉店だな。ユニスの夕食の準備もしないと……」


「あ、じゃあ鐘鳴らすわね」


 カウンターの端に取り付けられている鐘の方へカレンが歩き出す。閉店の合図はあまねく鳴り満ちて、グラスや貨幣を置いていく客の姿が散見された。カウンター席に座っていたジュディが席を立ち、こちらに片手を振っていた。


「ごちそうさま。美味しかったわ」


「ありがとうございます。またのご来店をお待ちしています」


「ええ。また来るわね。それと、お嬢さん」


 ジュディが手招いたのはカレンだ。一瞬の戸惑いを見せた彼女がジュディに近付いて、二人で密談を始める。


 俺はカウンター上のグラスとチップを回収していく。取り落とした貨幣が高い音を鳴らし、その余響さえも聞こえたことで、店内に沁み出した静寂を気色取る。


 貨幣を拾い上げてから店内を回視してみたら、客は皆退店したようだった。活気がなくなると、照明の明かりが暗くなったように錯覚する。紅燭が丸テーブルを仄赤く染めて、置かれている硝子の輪郭を点々と浮き上がらせていた。


 テーブル席の片付けに向かおうとしたが、カレンに袖を引かれて踵を縫い留められた。


「ねえ、エドウィン」


「なんだ」


 振り返ると、背伸びをした彼女の紅唇が頬にぶつかってきた。眉根を寄せた俺に構わず、彼女はそのまま距離を詰めて抱きついてくる。両腕に胴を締めつけられ、突き放すに突き放せない。


 俺の胸元に鼻を埋める旋毛を見つめても、その心情は見解けない。けれど、どこか暗然としているのは伝わってきていた。離れる様子のない彼女の頭に、軽く片手を置いてやった。 


「……どうした」


「ジュディさんに言われちゃった。好きならもっと愛情を注いで元気付けてあげなさいって。私、どうしたら貴方の力になれるのかしら。どうしたら、愛情って伝わるの?」


 暖かな吐息が鎖骨に触れる。冷えた肌骨を彼女の熱が染めていく。柳髪を一度だけ撫でてから腕を下ろした。


 カレンと俺は、マスターに言われて一時的に恋人となっただけだ。その期間も既に過ぎているが、『マスターに言われて付き合ったのだから、マスターが帰ってくるまでは関係を継続したい』と彼女が言うものだから、関係を保っていた。


 とはいえ特別な好意も愛も俺には分からないし、カレンが俺に抱いているものもそんな感情ではないはずだ。温情を縒り合わせた気遣いに、困り眉で微笑むことしか出来なかった。


「貴方のおかげでマスターがいなくても店をやれてるんだ。充分助かってる」


「私……。エドウィンのことも、このお店のことも、私が守るわ。だから、もっと頼って。ほんとは眠れてないんでしょ」


「そんなことはない」


「嘘。クマ出来てるもの」


 俺を見上げたカレンの親指が、下瞼を押し伸ばしてくる。苦り顔で唇を曲げれば、カレンはくすりと笑って俺から離れた。遠ざかった白い手がひらめいて、俺が一か所にまとめていたグラスを流し台へ運んでいく。


「ねえ、今晩エドウィンの部屋に行っていい? 貴方がちゃんと眠るまで見守っててあげる」


「……必要ない。子供じゃないんだ。一人で寝られる」


 棚からトレーを引っ張り出すと、銀光が散った。カウンターを出てテーブル席の片付けに向かうも、背中にはカレンの鶯声おうせいが喃喃と投げつけられていた。


「どうして強がるの。一日くらい甘えてくれてもいいじゃない。私、妹がいるから寝かしつけるのは得意よ。童話だっていっぱい知ってるんだから。毎日眠れるまで語り聞かせてあげるわ。ふふ、シェヘラザードになれそう」


「子供扱いされているのか、それとも女性不信の残虐な男と思われてるのかどっちだ」


「あら、アラビアンナイトは知ってるのね」


 俺も妹がいたおかげで、物語の類はある程度知っている。カレンに何を語り聞かせられても、聞いたことがあるな、という気持ちになるのが目に見えていた。だが、妹に絵本を読んでやった過去を思い出し、僅かに呼吸がしやすくなっていた。


 頬を緩め、グラスや皿をトレーに載せていく。チップも端に載せ、空席を回っていった。カレンは洗い物を始めてくれたようで、水の音が深閑を埋め始める。店の半分を回り終えると、一旦カウンターに戻って食器をカレンに差し出した。


「エドウィン、今夜は絶対貴方の部屋に行って布団に忍び込んであげるから。楽しみにしてて」


「来なくていいって言ってるだろ……」


「──ご飯は、出来ましたか?」


 靴音と共に階段から下りてきたのはユニスだ。手枷も帽子もしていない姿は、マスターがいなくなってから連日の装いで、見慣れたものになっている。外出する予定がないからだろう、彼女が『手枷を付けて』と頼んでくることはなくなっていた。


 生成色の髪を靡かせてユニスがすぐ傍まで歩いてくる。俺とカレンを見上げる仏頂面から察するに、よっぽど空腹らしい。


「まだだ。座って待ってろ」


「夕食は私が作っておくから、エドウィンにはそのまま閉店作業をお願いしていい?」


「ああ。食器は後で俺が洗う。端によけておいてくれ」


「わかったわ。先にご飯作るわね、ユニスちゃん」


 ユニスに微笑んだカレンと、椅子に座ったユニスを流し見して、残りの空席を回っていく。回収した食器類と貨幣をカウンターに置いてから店外へ出た。


 夜の降りた街は藍で満ち、街灯と月明が白らかに華やいでいる。揺らいだ街路樹がさざめいて寂然を攫う。空気は冷たく、吐息が風に色を与えていた。


 店の扉に掛けられている『open』の札を裏返し、化物退治の依頼のポストを確認する。鉄製の蓋は冷気がこびりついていて、指から熱を奪う。


 一通の手紙が入っていた。取り出してみれば、白い封筒には表裏ともに何も書かれていない。店の外壁に背を預け、中身を取り出す。軒灯を頼りに、書かれている文字を目で追うと、眉を顰めた。


 ある施設の明確な住所。化物ではなく『魔女』という名称。『処分して欲しい』という言葉。魔女の研究に携わっていた人間でなければ、こんな文面を書かないだろう。そして、俺達が『化物』ではなく『魔女』を狩っていることを知っている可能性も高い。


 便箋がひしげて、乾いた音を鳴らす。魔力のこもった指先が、紙を歪めていた。


 魔女の研究を辞めたくなった者が助けを求めているのか、或いは、魔女研究施設を潰している俺達への罠か。


 酒場・化物退治が、魔女狩りをしていることを知っている人間。ふ、と浮かんだのはマスターだ。旅先で魔女研究施設を見かけ、旅行中だからと戦闘を避けて、俺達に討伐を任せようと──。


「……ないな」


 淡い白霧を夜闇に泳がせ、閉口した。便箋を封筒に戻して懐に収める。明記されていた街への行き方を勘考しながら、酒場の扉を潜った。


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