洋紅色4

 午刻の屋外は眩しかった。明昼の青空には雲一つ浮かんでいない。天気が良いからか、街も普段より賑やかな気がした。


 街路を進みながらも時折背後を確認し、メイ達が逸れていないか確認する。二人とも真剣な顔で正面だけを見据えており、ほんの少し肩の力を抜いた。


 事件現場までの地図を眼裏まなうらに思い描く。新聞に書かれていた住所と、マスターから聞いた道順を頼りに歩いていく。マスターが言うには、青い外壁の香水屋を通り過ぎ、一つ目の角を曲がって路地に行けばいいらしい。


 人海を分け入って目印を探すが、出し抜けに裾を引かれて踏みとどまった。メイの白い手から俺のコートが離れていく。


「なんだ。歩くのが早かったか?」


「いや……アレ、何かあるのかなって気になって」


 オッドアイの視線を辿る。数人の大人がガーランドを街灯に括りつけていた。色とりどりの三角旗が涼風ではためく。物珍しそうに凝望しているメイと同じく、すれ違った子供達も旗を指さしていた。


「ああ……祭りの準備じゃないか? 去年もこのくらいの時期にやっていた気がする」


「まつりってなんですか? ケーキとかケーキとか美味しいものが食べられたり?」


「ケーキはなさそうだが、クッキーくらいならありそうだな。俺も行ったことがないから詳しくはない」


「行きたいので連れてってください、クッキー食べたいです」


「マスターから許可が貰えたらな」


 ユニスが外出出来るようになったのはここ最近のことだ。人への恐怖心はあれど、催し事などには歳相応の興味を抱くのだろう。歩を進めながら追懐に浸る。妹も、祭に行ってみたいと言っていた。いつか再会出来たなら、連れて行ってやれるだろうか。


 日常の平安に息を吐く。気持ちを切り替えるべく細めた眼路に、白群の建物があった。硝子越しに覗き見た店内にはいくつもの小瓶が並んでおり、目印たる香水屋だと推断した。鼻を顰める。両開き戸が閉まっているにも拘わらず、馥郁とした香りが一帯に染み渡っていた。


 メイとユニスが傍にいることを確認し、「曲がるぞ」と一声掛けてから細道へ爪先を踏み入れた。


 旭光に背を向け、物陰に染まった石畳を鳴らす。数回の靴音ののち、片膝を突いて地面を見る。


 薄鈍色の石は砂や泥で汚れている程度だったが、溝が赤黒く染まっている。物は一つも置かれておらず、小さな街灯が備えられているだけの小道だった。煉瓦造りの外壁に挟まれているが、勝手口や窓もない一本道。見上げた先には階段があり、ただの通路のようだった。


 視野に影が落とされる。ユニスが足元を覗き込んでいた。


「ここが犯行現場ですか?」


「ここで事に及んだのか、殺してからここに捨てたのかは定かじゃないが。……それにしても、こうも見晴らしがいいと、遺品も何も探しようがないな」


「遺品を探してるの? 犯人の手掛かりじゃなくて?」


 メイが首を傾けて俺を見上げる。血色のいい唇が疑問符を零した。ストールを羽織っていても寒そうに見えたが、彼女自身はあまり気にしていないのかもしれない。


 魔女の証である紐が冷たい風に揺らされる。左肩を晒している彼女は、右肩から落ちそうになっているストールを引っ張っていた。


「手掛かりもそうだが……犯人を殺しても被害者の遺族には何も渡せない。遺体にさえ会わせてやれないのなら、せめて遺品くらい渡してやりたいだろ。生きていた証は家にいくらだってあるかもしれないけどな。本当に死んでしまったと証すものも、きっとあった方がいい」


「……死んだ証を渡すなんて酷だなとも思うけど、でも分かる気がする。生きているか分からない中で期待をし続けて、それでも再会出来ないのも辛いよね。期待し続けられるのは良いことなのかもしれないけれど」


 それは、メイ自身に向けた言葉のようでもあったし、俺に向けた言辞にも思えた。見下ろした彼女の顔ばせは愁いの色で染まっている。鏡を見ているみたいだった。己の顔も、同じ形に歪んでいくのがわかった。それは彼女にも伝わってしまったのかもしれない。


 こちらの心情を気取った彼女の腕が僅か持ち上がる。気遣うような指先が俺に触れる前に、小さな頭に手の平を乗せた。


「諦めた方が楽だと思うまでは、期待してていいんじゃないか。期待してしまうのが辛いと感じたら、諦めて良い。お前の心を一番大事にしろ」


「……うん」


「エドウィン、あそこに何か引っかかってませんか?」


 呼び声に俯かせていた顎を上げる。ユニスが指さしていたのは高い位置に取り付けられている街灯だ。光の灯っていない瑠璃はくすんでいて、靄がかかったように白い景色を透かしていた。


 黒紅の傘に僅少の血痕を見つける。その上方へ焦点をずらすと空色の紐があった。どうやらランプの頂点に絡まっているらしい。踵を持ち上げて手を伸ばすも届きそうにない。試しに地を蹴って跳んでみたが、煽いだ手は硝子を叩いただけに終わった。


 眉根を寄せ、煉瓦造りの壁に手を置いた。浅い溝に指を沈めるのは難しい。どうにか登れないかと爪先を壁に擦り当てていれば少女の笑声が背後で響いていた。


「ユニス、なに笑ってるんだ」


「ご、ごめんなさい。エドウィンが試行錯誤してるの珍しい気がして。その壁登るのは絶対無理ですよ」


「……そんなことくらいわかってる。ちょっと手を突いてみただけだ」


「僕が取ろうか? 跳んでも届くかもしれないけど壊しそうだから……エドウィンの肩に立っていい? それで届く高さだと思う」


 俺が勘案している間に、メイは黒いロングブーツを脱ぎ始める。本当にやる気なのかと嘆息を零し、俺は壁と向かい合って膝を突いた。両肩に子供の体重が圧し掛かる。「立つぞ」と声を掛けてから立ち上がると、目の前がメイの影で絵取られた。壁に手を突いて姿勢を正している様子に不安が募る。


「落ちるなよ」


「大丈夫……っ、とれた」


 肩が軽くなった感覚、それに次いで裸足特有の湿った足音が幽かに響いた。俺から飛び降りたメイが小さなリボンを握りしめている。手渡されたそれを摘まんで翳した。大通りから差し込んだ日色で真珠が煌めいた。青いリボンは解れているが、そのイヤリングの特徴は、酒場で聞いたものと一致していた。


「ジュディの娘が着けていたものか。片方外れてたんだな」


「でも、どうしてあんなところにあるんです? もしかして死体を上から投げ捨てているとか?」


「その可能性もないとは言い切れないが……わざわざ屋根に上って死体を落とすとは考えにくい。どこからか逃げ出した魔女が、屋根伝いにここまで来て、ここで降りた可能性の方が高くないか」


「犯人の仕業じゃなく魔女が決まってここにくる、なんてことあり得ます? 人気のない道に死体を捨てていると考えた方が自然です」


 ユニスの推論に軽く頷いてから静思する。喧々たる大通りを眺める。陽光が明滅していた。路地に進んでくる者はいないが、人の波が疎らになることもない。時折通行人と目が合う。角の店で香水を買ったのであろう貴婦人が仄かな麝香を散らしていった。


 壁に寄りかかり、正面の建物を見上げる。三階建ての建物の屋根にわざわざ登るだろうか。考え込みながら逆側へ目を凝らす。階段を上がった先も人影が絶えず、日華は途切れ途切れに降り注いでいた。


「……もし犯人が、魔女に目を付けた一般人なら、人気のない道に死体を捨てている可能性もある。だが一般人がそう何度も魔女を見つけられるとは思えない。とはいえ研究者が犯人なら魔女の遺体を研究施設で処分するだろう。一般人に知られちゃいけない存在、その遺体をここに捨てていくなんて真似は故意に行わないはずだ」


「つまりエドウィンはどう考えているんです?」


「そうだな……施設から逃げ出した魔女をここで追い詰め殺害する。だが、ここは大通りに程近い。逆に行けば階段だが結局は一本道で、抜けた先も人通りが多い道だ。魔女の遺体を持ち帰るにはリスクが高い。放置せざるを得なかったんじゃないか」


 ユニスも真剣に推察しているようで、童顔が険しさを孕んでいく。メイはブーツを履き直し、ストールの位置を整えながら呆然としていた。ユニスが一歩俺に詰め寄る。


「でも、魔女の死体は複数見つかっているんでしょう? どうして魔女はここに?」


「全部仮説でしかないが、そこに香水屋があるだろ。外からでも香りが漂ってる。人間の鼻でも分かるんだ。魔女ならもっと遠くからでも嗅ぎつけるはず。魔女は特別な香りに惹きつけられるって言ってただろ?」


「ユニス、聖水の香りって作れるものなの?」


 聖水という単語を頭で反芻した。故郷の教会にも聖水があったような気がする。生まれた赤子をそれで清めるらしいが、物心ついてから触れたことも近付いたこともないため、香りの想像は出来ない。ユニスが修道女のようなヘッドドレスを揺らして頷いていた。


「可能だと思います。所詮聖水という名の付いた、人の手で作られている香水ですもの」


「……となると、ここの香水の香りが届くか届かないか、そのくらいの位置に魔女研究施設があると考えてよさそうだな。遺体が見つかった日は普段より強風だったのかもしれないし、施設の窓を開けていたのかもしれない。尤も魔女の嗅覚なんて分からないから、範囲を想定するのも難しいが」


「エドウィン、前に視力を上げてましたよね? 嗅覚も上げられないんですか? 倍くらいに高めれば魔女の嗅覚に近付けるんじゃ……」


 言われて、鼻先に魔力を集める。混ざり合っていた香水の香りが一つ一つ分かるくらいには昭然としていく。石の香り、煉瓦や鉄の匂い、血の残香まで吸い込んで、噎せかけた口元を手で覆う。煙草の紫煙を一気に吸い込んだような不快感に咳払いをした。


「……香りに酔いそうだ」


「香水嫌いみたいですものね。でもせっかくですし、聖水の香りくらい覚えてみませんか? わかります?」


 ユニスの香りが魔女を惹きつける理由は、聖水によるものだったのかと今更知る。背伸びして催促してくる彼女の前へ、跪いた。


 嗅覚を《上げる》と多くの匂いが絡み合う。聖水の香りだけに注視するべく、長い金糸を軽く掬いあげた。髪に触れない程度の距離まで顔を近付けると、天香が舞う。


「花……いや、柑橘か? なんだか、懐かしい香――」


 腕を払い除けたのは重い衝撃。拳銃を収めている手枷が前腕部に食い込んで呻きかけた。鈍痛を呑み込んで手を下ろす。ユニスの事情を知っていながら髪を引いてしまった失態を思い返し、額を押さえた。


「び、びっくりしたじゃないですか! なに平然と触れてるんですか!」


「悪い……触られるの嫌いだったよな。嫌な思いをさせて済まなかった」


「え、あ、わ……私も、叩いてごめんなさい」


「エドウィン、ユニス。このあたりに魔女が来る可能性が高いなら、ここ周辺で待っていればいいんじゃないかな?」


 蘇芳の紐が宙を泳ぐ。メイは賑やかな街に興味があるのか、陰湿な細道に耐えかねたのか、大通りへ爪先を向けていた。彼女の提案にユニスも眩しい道へ跳ねていく。


「そうですね。私お腹空いたので! 香水屋さんのお隣にあったケーキ屋さんに行きたいです!」


「ユニスも気付いた⁉ すごく美味しそうなケーキとかタルトとか並んでたよね! 苺たっぷりで美味しそうだったな……!」


「お前ら……そんな所を見ていたのか」


「行きましょエドウィン! 魔女が現れるまでおやつタイムを」


 燦々とした陽の光が直に落ちてくる。一歩路地から出ただけでさざめきに鼓膜が侵される。欣躍してケーキ屋へ向かう少女らを追いかけ、進めた革靴は砂埃に呑まれた。


 玻璃の砕ける音が響く。香水屋の街灯を砕き割り、そのままへし折った少女がメイとユニスの前に降り立っていた。周囲で湧き上がる吃驚と狼狽。黒いワンピースを纏った少女の、上腕部でたなびく赤い紐。


「ぅぅうあああああああ‼」


 雑踏を潰すほどの咆号が鼓膜を裂いた直後、ユニスの襟を掴んで引き寄せた。轟音が耳を突き抜ける。叩かれた石畳が砕片を巻き上げる。メイが魔女に向けて足を振り上げていたが、傍に居た女性にぶつかられてよろめいていた。


 異常な状況に気付いた人々が悲鳴を迸らせる。逃げる女性、何事かと見物しに来る男、逃げられないままへたり込んでしまった子供、我関せずと通り過ぎていく夫婦。コートの内側からナイフを抜こうとしたが人が多すぎる。


 悩んでいる暇など与えられない。ユニスを背にした俺に、真っ直ぐ向けられた拳。避ければユニスや一般人に当たりかねない。熾烈な一撃を受け止めて握り込む。魔女の腕を押さえ込もうとしたが、俺を振り払おうとする素振りもなく、彼女は邁進する。衝突する前に彼女を壁へ放り投げた。


 一際高い裂帛ひめいが上がる。魔女がぶつかったのは香水屋を覆っている硝子だ。飛散した破片が白光を弾く。いくつもの香水を壊して店内へ倒れ込んだ魔女に、貴婦人達が怯え切っていた。


 唸る魔女は身を起こし、刹那、矢の如く飛び出す。こちらに、ではない。香水を手にしていた女性に向かって腕を振るっていた。すぐさまナイフを抜いて魔力を込め、投擲する。それが届くよりも先に赤い一文字が内装を綾なしていた。一手遅れて飛沫を上げたナイフ。腕に刺さったそれに一瞥もくれず、魔女は殺した女性の首を引き千切っていた。


 生首の長髪が重力に従って零れ落ちる。喚叫を劇伴に赤黒い断面を啜り始めた魔女。嬉々として緩んでいた魔女の目顔が泣き出しそうに歪んでいく。声にならない声で喚きながら首を投げ捨て、店内を荒らし始めた。


 客も店員も、通行人も、撒き散らされる紅血に怯えて逃げ出していく。しかし何も知らず通りがかる人の波は未だ止まない。ナイフの柄を握り締めて牙噛きかむ。 


「っくそ、こんなところで……」


「こっちです!」


 銃声が突き上がる。頭部を撃ち抜かれた魔女が首を回してユニスを目視した。甲高い風韻を携えた魔女の強襲。受け止めようとしたがユニスの意図を察して避ける。彼女も魔女の突きを躱し、そのままどこかへ駆け出した。


 人気のない所へ誘導するつもりなのだろう。彼女を追走した魔女を見据える。足に魔力を注ぎ、馳せる速度を上げていく。


 時計が音を立てるまでの間で、ユニスに並んだ。続く一秒間の中で彼女を抱え上げた。

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