洋紅色5
追ってくる魔女を瞥見した後、人混みを横切って橋を目指す。魔女の喚きが背中にぶつかる。腕の中からも号哭が上がって顔を顰めた。
「いやああああ! 下ろしてください‼」
「お前の速度じゃすぐ追いつかれる。悪いが我慢しろ……!」
「やだぁぁぁ‼」
「肌には触れていないしお前に興味なんてない。それと、その、なんだ……餌は餌らしく黙ってろ!」
どうすれば嫌悪感を抱かせずに済むか分からない。彼女が慰み者として扱われていた過去が人間嫌いの原因なら、そういった目で見ていないことを伝えるしかなかった。
今にも落涙しそうだったユニスの双眸が、落ち着いた色を取り戻しつつあった。攻撃を避けながら橋梁に踏み出す。足元で橋の表面が砕け散る。それを視認し、欄干に乗り上がり堤外地へ飛び降りた。
秒針が鳴る。中空で魔女を見上げる。赫々たる陽射しを背に、魔女が腕を振り上げていた。臙脂の紐が風に煽られる。ユニスを片腕で抱き込み、転がるように高水敷へ着地。彼女を地面に寝かせたままホルスターから抜いたナイフで日輪を切り弾いた。
金属音と時の刻みが重なる。鋼鉄のような魔女の腕を貫いたまま、切っ先を薙ぐ。溢流する鮮血。
右へ左へと流れるように振るわれる魔女の腕。動きを読むのは容易い。躱し弾いて切り込む。抉った表皮。けれども肉に至る前に退かれる。魔女の泣哭が一段と張り上がる。痛みに敏感な個体なのか傷を刻むたび泣きながら退避していた。
片足を軸に引き避く魔女。そのまま逃げるわけでなく巡り踊るように攻めてくる。空気の断裂音が耳朶に触れた造次、魔女の腕を抱き込んで投げ飛ばした。高く振り上げたナイフ。定めた軌道の先は仰向けに倒れた魔女の喉。
飛び掛かり剣鋩を振り下ろせば、代償のように臓物が潰される。頸の骨を押し削る感覚が指先に絡みつく。魔女の足が貫通し、砕かれた肋と背骨の痛みが嘔吐感を溢れさせる。
馬乗りになったまま縫い留められ身動きが取れない。一心に、腕へ魔力を注ぎ込んだ。早く首を斬り離せと己を急き立てる。魔女の喉頸を貫く刃は硬く沈み、横に引くことも抜くことも敵わない。魔女が喉を狭めて押し留めているみたいだった。
奥歯を擦り鳴らすと歯の隙間から血が溢れ出す。苦々しい血反吐は止まらない。魔女の片足は俺の胴を穿通したまま煩わしそうに左右へ暴れる。傷口が少しずつ広げられる。破れた肺腑が掻き回される感覚は、筒音と共に止んだ。
ユニスの銃弾が数発魔女の頭部に打ち込まれる。脳を潰された魔女は麻痺したように動きを沈めていき、泣き叫んでいた声も静まっていく。拳だけに魔力を集中させる。痛みを思考の外へ追いやった。霞のような
一思いに横へ引いた鋭刃。切断した首は静かに草むらを転がった。腥い液体が頬を滑り落ちる。返り血が顎を伝って魔女の死体を濡らしていった。深呼吸をして意を決する。
手足に魔力を注ぎ込み、跳ね起きるように立ち上がる。魔女の足に絡まった己の臓物が、溢れてしまいそうだった。腹部から夥しい血煙が噴出する。穴の開いた傷口を押さえる。口腔を満たす血に、苦りきった顔を浮かべて魔法で止血していく。
肩で息をしていたら、蒼褪めた顔のユニスが俺に歩み寄っていた。
「エドウィン、大丈夫ですか……?」
「……ああ、傷は塞いだ。お前は、怪我してないか?」
「貴方が守ってくれたから大丈夫です。少し休みます?」
「いや、いい」
「良くないです、休みましょう。無理しないで座って」
意思の強い瞳が真っ直ぐに俺を刺していた。足止めでもするように、爪先が触れ合いそうなほど傍にある。仕方なく後ずさり、草の中に座った。
先刻赤く染まっていた川は何事もなかったかのように碧落を映している。川音を聴きながら深く息を吸う。損傷した臓器と腹部を治すのに思いのほか魔力を消費したらしい。耳鳴りを錯覚だと思いたくて、草木の音色を傾聴した。
「それにしても餌呼ばわりは失礼ですよ。事実だとしても!」
「別に……本当にそう思ってるわけじゃない」
「わ、わかってますけど。貴方ってたまに結構素直ですよね」
「……メイは、どうした?」
ユニスの表情が固まった。魔女との戦闘に意識を注いでいたせいで気が付かなかった。いつからメイがいないのか、記憶を遡る。最後に彼女を見たのは香水屋の前だ。魔女に応戦しようとして人混みに呑まれていた。ただ逸れただけなら、彼女もすぐ俺達を追いかけたはずだ。彼女の身体能力も魔女と同等。追いつけなかったとは考えにくい。
嫌な予感に不安が込み上げる。囮役であるメイを守らなければと、そう思った数刻前を思い出して苛立ちが発露してくる。地面を掻き鳴らして橋を仰いだ。
眼路の隅、橋の下には一人の男が立っていた。橋が落とす影の中でも目立つ赤毛が、柔らかに揺れている。着崩されたシャツは赤黒く色付いており、手持無沙汰に動く片手では短剣が煌めいていた。
メイに募る焦慮を唾と共に飲み下し、ナイフを抜いた。男は気だるげに首を傾け、俺達を見止めて立ち止まった。
「なんだァ? 魔女死んでるじゃねぇか。逃がした魔女を処分しとけって言われたんだけどな」
「お前が魔女殺しの犯人か」
俺が吐き出した敵意を彼は嗤う。刃物が受け流した日光の眩しさに諸目を細める。彼が剣尖で示したのは俺達の後方にある魔女の死体だ。
「ソイツを殺したのはアンタだろ」
「新聞に載ってた事件の話をしてるんだよ。魔女を犯して殺してる物好きはお前かって聞いてるんだ」
「……ぁあ、そういうことか。犯人捜ししてんだな? 探偵サン、いや、警察か?」
「どちらでもない。お前はさっき『処分しとけって言われた』とか言っていたな。仲間がいるのか。お前らの根城はどこだ」
仕留めた魔女をこの男とその仲間が追ってきたのなら、大通りでの騒ぎを見ていた可能性も高い。魔女の傍にもう一人赤い紐を揺らす人間がいれば、研究者は注目しただろう。メイはこの男の仲間に
駆け付けたい気持ちが溢れるほど、得物を握る腕に魔力が込められていく。耳障りな幻聴が風声を潰し続ける。金属に爪痕を刻んでいるような音差しと男の哂笑が重なった。
「んなこと教えるわけねぇだろ。ああでも……殺してから手向けに教えてやってもいいかもしれねぇなァ!」
轟々たる筒音。疾駆した男に透徹の弾丸が
鮮少の火花を散らして彼の刀鋩は毀たれていく。何度も
防ぐのは悪手だと看取したのだろう。彼は険阻な顔で舌打ちをしつつ足付きを変えた。俺の攻撃を避ければユニスの弾丸が彼に放たれる。それでも器用に全て躱すものだから焦りが滲み出す。
振るわれる劔を受け止めても伝播する力は退くほどではない。彼も研究者だと思われるが魔法を使う様子もなかった。銃声と鉄塊の合奏を朧げに聞きながら好機を待望する。一撃で腕、あるいは彼の刀刃を断ち切る隙、一定の間隔を保って間合いの内側へ飛び込む機会。今か今かと待ち懸けて追撃を繰り返す。
擦り減る刃と弾ける火花。彼が退避した先へ蹴りを捻じ込めば砂埃が舞い上がる。虚空を蹴った足で砂利を磨り潰す。彼は宙返りをして後方へ着地すると即座に飛び出した。斬り込んできた腕を受け流す。爪先で半円を描くと同時に腕を振るう。横払いは屈んだ彼の赤毛を散らした。
土の臭いが鼻を突く。地を蹴ったのは双方。彼の足払いと俺の後退は枯色の煙で空気を染めた。無色の弾丸が草を散らし大地を抉る。血痕は眇たるものばかり。布地や上皮を引き裂く剣先は手応えを望んでいた。
発砲音と共に男が崩れかける。それを契機に彼我の距離を狭めた。彼の右腕を刈り取るために構えた霜刃。狙った腕は慮外にしなった。一条の銀光が視野の外へ駆け抜ける。
冷汗が額を下った。先刻のユニスの弾丸は何も貫いていない。よろけていた彼は負傷などしていない。なげうたれた短剣が目指していたのはユニスのいる方向。
彼女を庇わなければ、と無意識下で足を引いている。だが現前の男を貫かなければと思った。太刀影のやり場に迷いを滲ませた寸陰の間。武器を失くし徒手になった彼が、俺の腕を掴んでいた。
「子守りは大変だなァ? お兄さんよォ」
「は――」
脱力感に、弾指のあいだ息を忘れた。折れた膝が地面に沈む。肺が握り潰されるように呼吸が詰まり、必死に吐き出した空気は赤い色をしていた。鼓膜から響いて脳髄を穿孔する耳鳴り。咽喉に充溢した血の塊に咳き込んだ。力の入らない体を俯かせ、喀血を繰り返していれば尺骨を握り潰される。
「う、ぐ……!」
「細腕にしちゃ攻撃が重いからよ、魔法でも使ってんのかとは思ったが……ちょっと魔力を吸収したくらいでおしまいか? 噛みついて来た割には随分弱ぇんだな」
何をされたのか語られて把捉する。と同時に下唇を噛み潰した。全身の力が霧消していく。どうにか握っていたナイフが指先から零れ落ちた。
立て、と心髄で叫ぶ。動けと四肢に念じる。飽和していた血液が口端から溢れる。枯渇する魔力をかき集めようにも、空になっている底を抉って、意識を削っていくことしか出来なかった。
「エドウィンを離して‼ 撃ち殺しますよ!」
「なぁ、アンタもしかして、魔力がないと動けねぇのか?」
嘲謔が耳にこびりつく。腕を離された体躯は、糸が切れた人形みたいに崩れ伏した。視界がぼやけ始める。だが自我を手放すわけにはいかなかった。口内を力強く噛み、痛みで目を覚まそうとする。
砲声が上がる。一つ、二つ。それに続いたのは少女の泣き声。拳を握り締めたいのに指は痙攣さえしなかった。
助けを求める哀哭と、立ち上がれない無力感が過去を喚想させる。また繰り返すのか、と、拳を固めた。喉奥から押し出された血液に嘔吐きながら一抹の魔力を全身に走らせた。
「エドウィン……!」
「よくそんな体で生きていられるな。死体と変わんねぇだろ。死んだ方が幸せだと思うぜ」
心臓に深々と刺さった機鋒。彼はそれを引き抜くと、振り返ることなく遠のいていった。ユニスの声も聞こえなくなっていく。時計が秒を刻む音さえ耳鳴りに呑まれていく。呻き声は憤然にまみれていた。
手が動かないからなんだ。足が動かないから、生きるのを諦めるのか?
諦めてたまるか。足掻くのをやめるものか。俺はまだ息衝いている。それを誰より実感している自分が、自身の生を否定してはいけない。
この拍動がどれほど熱いか知りもしない他人に、この命を否定する権利などない。死を認められるのは自分だけだ。だからこそ、意思が消えるまでは、己の生を肯定し続けなければならなかった。
思考しろ。沈思に浸る意識でひたすらに尋思する。四肢を動かせる程度の魔力なら数分後に回復するはずだ。だがそれでは足りない。あの男を倒し、その仲間も殺さなければならない。魔力を補う術を案出しろ。戦う為の力を作り上げろ。
瞑目した瞼を烈日が照らしていた。痛いほどの光に、睫毛をほどいて目を開ける。眩しさを感じられることに安堵した。
乱れた呼気が、血の匂いを清風に溶かす。震えた手が砂を掴んだ。表皮を引き裂かれる痛みはどこから走っているのか、判断が出来なかった。
生温い浄血が肌にまとわりつく。見えない刃で傷が刻まれていく手足を、動かした。かすかな片息を、吐き出した。魔力で嗅覚を上げ、ユニスの聖水の香りを辿る。血を
A型の魔法は《拡張》。拡張は『力や範囲を広げる』そして、『役割を増やす』という意味も持ち合わせている。魔力を消費して魔力を増やすことは出来ない。だが《拡張》の魔法なら、他の『何か』を魔力に代用出来るかもしれない。そんな悪足掻きじみた賭けだ。
魔力の代わりに失われていく血液。冷え切っていく頭を左右に振って道筋を睨み据えた。衰弱して死ねと囁いた『
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