洋紅色3

 僕も支度をしなければと思い立ち、壁際のアタッシュケースに手をかける。革製のそれに仕舞い込まれていたのは雪白のワンピースだ。数日前に脱ぎ捨てた、いもうとが元々着ていたもの。


 孤児院では綺麗な服を与えられ、美味しい食べ物も出されていた。全て僕達を騙して魔女にする為だけの、嘘だったのだろうが。


 喚想してからユニスを顧視こしした。


「そういえば、ユニスがいた教会も魔女の研究施設だったの?」


「いいえ、ただの教会です。私は……少しだけ魔女に感謝しているかもしれません」


「感謝?」


 ユニスは数丁の拳銃を拘束具に挿していた。魔力を弾丸にしているから実弾は込められていないのだろう。静淑な手つきを観察していたら、彼女が一丁の拳銃に弾を込め始めていた。天光が銀の銃身を白く染め上げる。


「教会から少し離れたところに研究施設があったみたいなんです。そこから逃げ出した魔女が、聖水の匂いにつられて教会に来たんですよ。大嫌いな司教様も子供達も、みんな魔女が殺してくれた。私も殺されそうになった時に、マスターが魔女を殺して、私のことを保護してくれたんですけどね」


「魔女は聖水が好きなのか……?」


「恐らく。このあたりの国では、生まれた子供はまず聖水で清められます。特別な香りがする水。二人の人間を掛け合わせた魔女は、混濁する二つの意識の中で、共通する記憶である『聖水の香り』に反応しているんじゃないか……ってマスターが予想してました。真相はわかりませんが」


「そうなんだ……」


 いつの間にか高く昇っていた赤烏たいようが眩しく感じた。カーテンを引いて玻璃を覆う。爪先を旋回させたらユニスとぶつかりかけて咄嗟に後退した。


 窓の下枠に手を突く。硝子に肘をぶつけた。軽い痛みに振り返る間もなく、ユニスが僕の襟を掴んで視線を惹きつける。


 生糸のような金髪が頬に触れる。漂ったのは果実に似た甘い天香。互いの衣服が触れ合う距離。間隔を詰めていた彼女はやがて身を離す。桜色の花唇が静かに動いた。


「匂いますか?」


「え」


「教会にいた頃は毎日聖水に浸かっていたので、私には聖水の香りが沁み付いているみたいです。そのせいで魔女も私に反応する。廃病院で、薬で一時的に魔女になっていた彼らも、私が起き上がったらメイさんじゃなく私を追い始めたでしょう? 動いたから聖水の匂いが舞ったんだと思います」


 胸元に固い金属が押し付けられる。銃身を握った彼女が、グリップを僕に押し付けていた。彼女に触れないよう気をつけながらグリップに指を這わせる。僕が銃を握ると、彼女は微笑んで踵を鳴らした。


「その銃は護身用に持っていてください。準備しましょうメイさん。クズ男を殺しに行くんでしょ」


 装填されている弾を数える。銃とワンピースを小棚の上へ置いた。ユニスの背中は頼りない。装着していない手枷を見つめて、彼女は片手で自身の腕を抱いていた。震える細指。意を決するように大きく上下した双肩。僕は彼女との距離を保ったまま問いかけた。


「ユニス。抱きしめてもいい?」


 彼女が黙りこくったのは一瞬だけ。直後、眉を吊り上げた童顔が髪を振り乱して僕を見据えた。


「な、なに言ってるんですか⁉ なんで⁉ いくら女の子相手でも、人との接触は嫌だって……」


「っそうだよね、ごめん。怯えている子をどうやって落ち着かせてあげたらいいのか、他に思いつかなくて。君が妹だったら抱きしめるのにって思ったんだ」


 優しさは一灯みたいなものだと思っていた。僕にとって、渡されると暖かくて安心できるようなものだった。その熱を、触れることなく伝える術なんて僕には分からない。


 彼女がこの先も優しさの温度を知らぬまま過ごしていくのは、寂しいような気がした。怖くない接触もあるのだと知って欲しかった。


 そうして自己満足に浸りたいだけなのかもしれない、そこまで尋思して唇を噛む。握りしめた拳を紺色の袖が撫でる。布越しに触れた彼女の手。その冷たさに吃驚して頭をもたげた。現前に立つ彼女は、黒目を他所に向けたまま、強張った頬を引いていた。


「肌には、触らないでください」


「……わかった」


 困り眉と微笑を、そっと胸に抱く。優形やさがたの体はひどく震えていた。傷付けないように、驚かせないように、ゆっくりと腕に力を込めていく。強く抱きしめたまま、彼女の緊張をほどきたくて話しかけた。


「ユニスは、男の人の体が嫌いで、女の人の心が嫌いなんだよね」


「……そう、ですけど。どうして?」


「もしかしたら、僕は大丈夫、って思ってもらえるかもしれないなって」


「無理ですよ。メイさん、妹さんの体とはいえ、心だって女の子でしょ。メイって名前なんだから。女の人でも、触ったら汚い心に触れそうで嫌ですもん」


 メイ。唇の裏で、自分の愛称を反芻した。


「そっか。ちゃんと名乗ってなかったね」


「え?」


 エドウィンに名前を聞かれた時、僕を呼ぶ妹の声が脳漿で反響していた。それを繰り返すように呟いただけだった。だが、今思い返してみると『穢されたくない』という気持ちが無意識下で働いたのかもしれない。信用出来ない人間に、母がくれた大事な名前を呼ばれたくなかった。


 名前は、失うことのない形見だから。


 大切な宝箱を、親友に開けて見せるような感覚。エドウィンにも改めて名乗りたい。息苦しい仮面を外すみたいだった。自然と目顔が綻んでいく。


 ユニスから体を離した僕は、とても晴れ退いた気持ちで笑っていた。


「僕は、メイナード・フォーサイス。この体の、双子の兄だ」


 明かしてしまったら、自分の本心を目の当たりにしている。思えば僕は、魔女を生む薬の事件の日のことを、ここ数日で何度も思い返していた。二人の優しさを何度も確かめた。信じてはいけない、信じたくないと塗り潰してきた心根を、今ならしかと見つめられる。


 僕は、彼らが好きだ。エドウィンもユニスも、いつの間にか僕にとって大切な存在になっていた。信じられないと喚き散らした僕から、二人は離れなかった。優しくしてくれた。単純な理由かもしれない。それでも、嬉しかったんだ。


 透き通った玲瓏玉が僕を見る。きょとんとしているユニスに、なんだか気恥ずかしくなってくる。ワンピースと拳銃を抱きかかえ、廊下へ急いだ。


「それじゃあ、僕は別の部屋で着替えるから。また後でね」


「あ、え、はっ、はい!」


「ユニス、話してくれてありがとう。君が怖いものと戦うのなら、出来るだけ支えるから。僕だけじゃなくてエドウィンもいるんだ。安心して、一緒に戦おう」


 後ろ手に扉を閉める。朝日の満ちる通路は心地が良かった。静寂に身を委ねる。冷静になって、苦笑した。救いたかったのに、救われているのは僕の方だった。僕は、ユニスを安心させられたのだろうか。


 碧天を飛んでいく白い鳥。僅かに影を落とされた窓硝子が、瞬目、いもうとを映していた。ワンピースを掻き抱く。


「……シャノン、友達、出来たかも。君も二人のこと、好きになると思うんだ。だから」


 眠っているだけなら、早く起きて。そう続けようとして、俯いた。


 妹がこの体の中で、まだ生きていたとして。目覚めさせることが出来たとして。僕は、妹を救う代わりに死ぬのだろう。家族以外で好きだと思えた人達と、別れなければいけないのだろう。


 それでいいのか? と、己に問いかけた。嫌だと浮かんだのは錯覚だ。妹の幸せがなにより大事なのだから。守れなかった上に、自分だけ幸せになるなんてどうかしている。だけど、今だけは。まだもう少し、ここにいたかった。


「――メイ? そんなところで何をしてるんだ?」


 旭日を受ける黒髪がさらりと靡く。階段を上がって来たエドウィンは、端正な顔を不思議そうに傾けていた。彼の、女性みたいな長い睫毛が上下する。洋紅色の美玉が僕を打ち守る。


「エドウィン、話したいことが」


「ん……?」


 目路の高さを合わせるように、彼が屈んだ。焔のような紅い虹彩に、流れた前髪が重なる。片側だけ編み込まれた黒髪。その下方で、吊り目気味の目尻が優しく下がっていた。


 凛とした少年のようにも見える、落ち着いた青年かれの顔。冷たい女性と見紛うほどの、どこか造り物じみた麗容。年齢も性別も曖昧にしか捉えられない瑰麗かいれいさが、頭の中で何かと結びつく。僕は、この感覚を以前から知っているような気がした。


 なぜか、言葉を紡げなくなる。心臓が早鐘を打っていた。踵を引き摺ると床板が不快な音を立てた。


「な、なんでもない。着替えてくる」


 気付いた時には、彼から逃げるように駆け出している。呼吸が乱れていた。喉を締め付けられているみたいだった。


 原因の分からない憂苦が、冷汗として額を下っていく。わけもわからず、頭を左右に振っていた。


     (三)


 メイとユニスを待っている間、買い物を済ませ、それでもまだ二人が来ない為、店内の掃除をしていた。マスターもいつの間にか外出しており、誰もいない店内は静かだった。


 先刻、俺を呼び止めたメイを思い出す。ユニスと何かあったのか機嫌が良さそうだった。かと思えば、俺を見るなり精彩を欠いていった。応じ方が悪かったのだろうか、冷たく見えたのだろうか、と答えの出ない勘考を繰り返して額を押さえた。


 拭いたばかりのテーブルが室内光で艶めき、人影を反射する。薄らと見えた己の渋面を布巾でかき消していれば、階段が人の訪れを告げていた。後目に見遣ると白いワンピース姿のメイがいた。


「ごめんエドウィン、考え事してたら遅くなった。ユニスは?」


「まだだ。お前と同じで、心の準備に時間がかかってるんじゃないか?」


 カウンターに布巾を片付け、隅に置いていた紙袋を取る。大判のストールを取り出してメイに手渡した。


「これ、羽織っておけ。それじゃ寒いだろ」


「え、あ……ありがとう。終わったら返せばいい?」


「返さなくていい。さっき買ってきたんだ。お前にやる」


 メイは目を白黒させながら紺色のストールを凝然と眺めていた。羽織る素振りは見受けられず、固まっている様子に困ってしまう。一花しばらくのあいだ見守っていたら、ようやく動いた彼女の手が生地を撫で始める。無言に耐えかねて開口した。


「この前、服を選んでる時に青や紫ばかり見ていただろ。だからその色にしたんだが……気に入らなかったか?」


「……ううん。好きな色だ。嬉しい」


 解語の花が綻ぶ。人形のような容色は喜びを湛えていた。出会ってから見た中で一番綺麗な笑顔に瞠目する。羽織ったストールを両手で持ち上げ、幸せそうに頬へ押し当てているものだから笑ってしまった。


「メイ、それはフェイスタオルじゃないぞ」


「わ、わかってる! 触り心地が良かったから……!」


「気に入ったのなら良かったよ」


「うん。プレゼントなんて初めてだ……大切にするよ」


 無邪気な笑みに、つい手を伸ばしていた。柔らかな頭を軽く撫でてから階段の方へ踏み出す。ユニスを呼びに行こうかと思ったが、いつの間にか彼女も二階から降りてきていた。唇をへの字に曲げたまま彼女は髪を靡かせる。


「お邪魔でしたか?」


「どういう意味だ。お前を待ってたんだが」


「お待たせしました。手枷付けてください」


 ユニスが抱えていた手枷を軽く引っ張る。予想外の重量に落としかけるも、腕に魔力を注いでどうにか持ち直した。出来るだけ彼女に触れないように手枷を嵌めてやり、首輪から垂下しているベルトで繋ぐ。少しだけ俯いている面差しを瞥見した。唇を噛み締めているのを認め、彼女から距離を取った。


「ユニス、無理はするなよ」


「程々にします。少しくらいの無理は許してください」


「僕もエドウィンもいるんだから大丈夫だよ」


 顔を見合わせたメイとユニスが互いに一笑する。仲の良さそうな姿に愁眉を開き、外へ向かい始めた。


「じゃあ、行くか」

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