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文化祭当日。その早朝。十月なのにダラダラの汗を流しつつ、私は半紙を収めた額縁を体育館まで運びおえた。
朝から夕方までは文化部の作品展示会、それから夜にかけて軽音部や有志団体のステージという構成だ。四面の壁に沿うように何枚もの展示ボードが並べられ、陶芸部やプラモデル同好会の作品がすでに運びこまれていた。
大きく『美術部』と用意されたスペースのすぐ脇、『書道部』の文字は鉛筆で走り書きしたように頼りなかった。展示でも片身が狭い。入り口で渡されたネームプレートと共に、臨書をボードにかける。
重厚な黒檀の額縁を指でなぞる。胸の底からもたげる、ほんの少しの期待。
(もしかしたら)
誰かが見てくれるかもしれない。
ほんのちょっとでも、『上手い』、思ってくれるかも。
──溢れだした期待を、しかし私は諦めの黒で塗りつぶした。
(ううん。きっと、誰も見やしない)
自分に向かって言いきかせる。文化部展示まで足を運んでくる人たちは、きっとこの臨書に何も感じてはくれない。
今までもそうだった。
『なにこれ』
『うわあ、書くの大変そう』
『あっ、見て見て向こうの絵、可愛いよ』
私の思いは、誰にも届くことはない。誰とも繋がることはない。
締めて百四十三字の自己満足。
諦めて、百四十三字の。
(それでいい。それでいいんだ)
墨の香りを思いだす。書道が好き。その気持ちだけでいい。
なのに。
お昼になって再び体育館の床を踏んだとき、私は火照っていく体を抑えることができなかった。丁度正午のチャイムが鳴っていた。お昼ご飯のために人通りのまばらになった通路を抜けていく。不安の向こうから、やっぱり顔を出す期待。そんな自分に対する恥じらい。何度言いきかせても、ついにこの気持ちが収まることはなかった。
(もしかしたら)
またもこぼれかけた思考に首を振る。
体育館の中では年配の男女が数組、陶芸部のブースに。あとは賑やかな女子の一団が「可愛い」、「上手」と声を上げながら美術部のブースの中心に集まっていた。
段々と重くなる足取りが自分でわかった。息を吸って、吐く。そのたびにありありと感じる肺のかたち。そのまま何かに押しつぶされてしまいそうで、私は胸に手を当てた。
体育館の隅っこで一人、臨書に向きあう。
「……下手だな、私」
昨日書きあげたときには、実はこれまでで最高の出来だと浮かれていたっていうのに、今こうして見てみればなんのことはない。節々にあらも目立つ。下手の横好きもいいところの失敗作だ。
周りには誰もいなかった。きっと、これから一日中ここで待っていたって誰も来ないだろう。
(わかってる)
けれど、わかりたくはなかった。
やりきれない思いで逸らした視線──『美術部』の、ブースに、
「……わ」
色。
モノクロの世界を流しつくす、色。色。色。
私の臨書のすぐ隣に展示された絵画。それは抽象画のようでいて、風景画でもあった。様々な色がめまぐるしく混じりあって、あちこちで世界の風景を咲かせている。色と色とが喧嘩していないのは、何度も重ね塗りをしているから? 隙間なく塗りつめられたカンバスにそんな予想を立ててみる。新緑の葉のすぐ横に真っ赤なきらめきが描かれる。黒の絵の具で縁取られた手が紙に向けて何かを書きつけようとしている。それに向きあうように描かれた人型の影は赤く塗られている。写実的。そのすぐ横では『ゲルニカ』のように歪んだ青色の熊が眠たそうに足を伸ばしている。少し体を引けば全体像は一つの瞳のようになっている。もしかするとこれは作者さんの心の中なのかな、なんて考えてみたりする。
私、絵のことってホントに詳しくないんだけど。
「「すごい」」
二つの声が重なる。一拍遅れて、声は私に呼びかけた。
「クロダさん。
まだらジャージに包まれた小さな体が、私のすぐ隣、私の臨書の前で腕を組んで立っていた。周りに人はいない。声を上げるとしたら彼女しかいないのだ。彼女は私の臨書にジッと見入っていた。
ひょっとして。思うまもなく私は直前まで見ていた絵のネームプレートを確かめる。
『
彼女の方へ視線を戻して、「うん……、夏目、さん」気の抜けた返事をした。話すのは実は初めてだったけど、『初めまして』とは続けなかった。
「私、書道って全然詳しくないんだけどさ。……なんて言えばいいかな」
夏目さんは言葉を探すように目をそらした。あちこちに視線を巡らせて、最後にはゆっくりと首を振る。見あげるように私と目を合わせると、ちょっとはにかんだ。
「頑張ってるの、ずっと見てたよ。お疲れさま」
モノクロだった私の世界は、そのたった一言で極彩色に弾けた。
私と、夏目さんと、臨書と、絵画。私たちだけの世界は体育館の一角で区切られ、とりどりに色づいていく。
彼女の朱(あか)も、私の玄(くろ)も。分け隔てなく、その世界を彩る。
何を大げさな。たったの一言、二言。ただのお世辞だ。そう言う人もいるだろう──わかってくれなくてもいい。私の芯から湧きあがるこの思いを、そんな簡単にわかってほしくはない。
繋がった糸をたぐり寄せるように、私は叫ぶ。
「私もっ!!」
あなたのこと、見てた。
火照る体から必死に絞りだした声。夏目さんは微笑むと、自分の描いた絵に照れくさそうに頬を掻いた。私も自分の臨書を見直す。それはもう私の自己満足だけではなくなっていた。
彼女に認めてもらえた、それだけで。
全てに臨む全ての望みが、それは奇跡のくせに、まるで当然のような顔をして届く。繋がる。混じりあっていく。
(そうか……だから、これが──)
「ん、ふ」
自然と頭に浮かんだ二文字に目を細める。
それは私には似合わない、とても眩しい言葉だった。
奇跡のくせに 煤 @North240
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