4-8 共鳴糸エンゲージメント
「神という存在は、人々の祈りによって力を得ます。この御神札も初めは何の変哲もないものだったのでしょうが、一郎さんの祈りに繰り返し触れるうち、特別な思念を宿すようになった」
絹子さんが病から快復するように、と。
切実な願いは、力を持つ。
「一郎さんの強い想いを受けて、御神札の力が拡張し、あの神棚や店舗そのものが特別な『場』に変じた。そこへ、絹子さんからブローチが返却されてきた」
ブローチは、一郎さんが想いを込めた、絹子さんとの最後の繋がりだった。
現実で絹子さんとの縁が絶たれてしまったからこそ、想いは更に強さを増した。
彼女と共に同じ道を歩めたら。
同じ店に立てたら……
「願望の思念が顕現するのに、ブローチはうってつけの依代だった。そうして絹子さんの姿をベースにした『カイコさん』は生まれた。絹子さんとしての生前の記憶はなくて当然です。あなたは『一郎さんから見た絹子さん』のイメージなんですから」
カイコさんが骨董に詳しかったり機械の修理が得意だったりするのは、元となった願望の主である一郎さん自身がそうだからだ。
糸で紡ぐ『契約』の能力も、果たせなかった約束への後悔が形を変えたものだろう。名を縛り、交わした取り決めを完遂するという。
先ほど覗いた記憶が蘇ってくる。
——想像の中で、絹子さんは私と共に店に立っていた。
「……ある意味、一郎さんと『絹子さん』は、同じ時に一緒に店先に立っとったわけですよね。
胸が締め付けられる思いがした。
愛しい女性の姿をした幻影を、一郎さんは視認すらできなかった。
それは幸か不幸か。
もし視えていたら、もっと深く心を囚われていたに違いない。
「一般的に御神札は年に一度交換するものです。店を閉めてからも、一郎さんは毎年神棚に新しい御神札を供えていたそうです。転居後も時々神棚の手入れをしに来ていた。そうしてあなたを『神さま』として『場』に結び付け続けた」
このことは、御神札を見つけた後、
一郎さんは『神さま』を大切に思っていたのだ。
「少し前にカイコさんが姿を消した数日間、一郎さんは夏バテで寝込んでいたそうです。それで一時的に結び付きがひどく弱まった……」
それが何を意味するのか。決定的なことを、先生はまだ口にしない。
じっと話を聞いていたカイコさんが、ブローチに触れながら静かに紡ぐ。
「絹子は、ひどい女だね……ブローチなんて返したら、一郎さんは余計に忘れられんくなるに決まっとるのに」
大きな黒い瞳が揺らぐ。声が震える。
「
白い頬を、大粒の涙が次々と滑り落ちていく。
数日前、ちょうどあんな色彩で澄み渡った青空の下、『懐古堂』の前で僕と先生を待っていた勲さんを思い出す。
『まぁ、じいさんには可愛がってまったんでね。こういう形でも孝行できればいいですよね』
僕は今一度、御神札をしっかり握り直した。
「カイコさん、一郎さんは、ちゃんと幸せだったと思いますよ。お孫さんにも慕われて、長生きして。一郎さん、言ってました。あの店にはいろんな思い出が詰まっとるって。家族と過ごしたり、お孫さんと遊んだり、店主として『懐古堂』に立ったりした日常も、一郎さんにとって大事なものだったってことなんだと思います」
『神さま』が宿る店。
家族と暮らした場所。
数々の古い道具に触れ、元の持ち主から新しい持ち主への橋渡しをした日々。
その全てが、一郎さんの人生の中で大きな意味を持つものだったはずだ。
カイコさんはわずかに表情を緩めた。
「知っとるよ。ずぅっと見とったでさ。あの店、居心地良かったもん。よぅけ大事にしてまったわ」
笑顔が、くらりと揺らめく。白い指先は既に透け始めている。
先生が澱みなく言った。
「店の取り壊しは、一郎さんの意思です。つまりあなたの『神さま』としての役目は、これを以てお終いということだ」
カイコさんの力の源は、一郎さんの意思。それを無しにしては、存在を保てない。
「ただし、今後も存在し続ける手段はあります。それにはカイコさんが自分の存在意義を認識する必要がありました。とりわけ、どうやって名を与えられたのかを。明確な自意識で意思表示をすることで、『場』に結び付いた『思念』の塊であるあなたも、
当人を当人たらしめる唯一無二の言葉。自分の名と向き合うことは、自分の存在を強くする。
「すなわち、今のあなたならば、自分の意思でこちらに留まる選択肢を取ることができるんです」
だけどこうする間にも、カイコさんの姿はどんどん薄らいでいく。
「時間がありません。ひとまず全ての思念を御神札に戻します。我々三人で祈りを込めて多少なり力を回復させてから、可能な限りの術で保護しますので、なるべく早めに新たな神棚を作りしましょう」
百花さんが、カイコさんの手に触れる。
「カイコさん、あたしのお店、もうすぐ改装が終わるんです。秋にはオープンするつもり。良かったら、そこに来てまえません?」
「えっ、ほんとに? おめでとう、百花ちゃん」
華やいだ声は、これまでと変わりないように思えた。
だけど。
「ありがとね、みんな」
白い身体が、淡い光を放つ。その輪郭の端から光の粒子が解けていく。
「……一郎さん、まぁじき逝ってまうんだら。ここんとこ私の力が弱なってきとったのは、つまりそういうことだったんだろうな」
『神さま』は、人々の祈りによって力を得る。
祈りを込めた張本人の寿命が、尽きようとしている。
——絹子さん。絹子さん。
「私、一郎さんに、願いをかけられたんだよ。『神さま』だもんでさ」
——許されるならば。来世で、また巡り会えますように。
「ほんだで、私が遺るわけにはいかんのだわ。この想いも全部、ちゃんと来世に持ってかんと」
そう言って、カイコさんは微笑んだ。今まで見た中で一番美しい笑顔だった。
誰も、何も、口にすることができなかった。
消えないで。逝かないで。どうか、ここにいて。
どうしようもなく溢れて止まらないのに、きっとどんな言葉も用を成さない。
「最期に一つだけ」
自分の身体から立ち昇っていく細かな光を見上げながら、カイコさんは独り言のように呟く。
「みんなで、花火が見たいな」
無数の粒子が煌めきながら吸い込まれていくこの世界の空は、端から端まで夕暮れ色に塗り潰されている。
残された時間は、もう
「……承知しました」
先生は乾いた声で平坦に告げると、淀みなくスマートウォッチを操作した。すぐに鋭い呼び出し音が鳴り始める。二回目のコールが終わらないうちに、回線が繋がった。
その瞬間。
空の頂点から膜が剥がれ落ちるように、景色の赤みが抜けていく。
そうして露わになったのは、夜空を埋め尽くすほどに咲き乱れる、色とりどりの打ち上げ花火だった。
同時に、湧き起こるような音の洪水に呑み込まれる。
赤、青、緑、黄色に紫。咲いては散り、散っては咲き。絶え間なく鳴り続く破裂音に身体の芯を揺さぶられ、僕は自分がどこにいるのか分からなくなった。
頬に触れる温い風。草と土と湿気の匂いに混じる、ほんのわずかな火薬の匂い。
不意に光と音が途切れた。
散りゆく花々の残像が映る空を、ひときわ存在感のある光の糸が駆け昇っていく。
それが中天に到達しようかという刹那。
「ありがとう」
小さな声は、大気を震わす轟音で掻き消えた。
響き合う。共鳴する。僕たちを形作る何もかもを一緒くたに。
空の最も高いところで開いた真円の花は、鮮やかに花弁の色を変えながら、大きく大きく広がっていく。覆い尽くすように。迫り来るように。降り注ぐように。
だけど一つ
ハッとして、辺りを見回す。
先生と、百花さんと、それから——
胸が引き千切れそうになる。
彼女の姿は、もうどこにもなかった。
強すぎる閃光で灼かれた目では、まだ宙を漂っているはずの小さな光の粒子を捉えられない。
足元に、白い蝶のブローチだけが落ちていた。
僕はそれを拾い上げる。
つい先ほどまでそれを身に付けていた人のことを想う。
その人の名前は。僕たちが知っている、彼女の名前は。
「……カイコさん、さようなら」
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