4-9 残響
「万華鏡の件で、命を助けてもらったことをお礼しに行った時ね……カイコさん、『大袈裟だ』って笑っとったの。でも、もしあそこで力を使わんけや、まぁちょっと猶予があったのかも。もっと、じっくり話をする時間も……」
「あぁ、でも駄目だ、そんなこと言ったら……きっと、カイコさんに怒られる……」
言葉尻が消え入って、押し殺したような嗚咽に取って代わった。
その気持ちは、痛いほど分かる。
だけどこんな時ほど、他者の感情を勝手に受信してしまう
まだ最後の花火の残響が、耳の奥に留まっている。
あの音が掻き消した、カイコさんの最期の言葉も。
溜め息混じりの言葉が
「ある程度は覚悟しとったつもりだけど、さすがになぁ……何だかんだ言って、これまでの人生の半分くらいは付き合いのあった相手だでな」
二人の哀しみの深さは、彼女と出会って数ヶ月の僕とは比べるべくもないだろう。
自分の手の中にある白い蝶のブローチへ意識を向ける。どれほど注意深く探っても、カイコさんの気配はやはり欠片も感じられなかった。
御神札の方はまだわずかに清浄な気を発しているけれど、今にも消えてしまいそうだ。
ぐるぐると、言いようのない気持ちが渦を巻く。どうやって向き合えばいいのか見当も付かない。
カイコさんが、
あるいは、幽霊ならば。彼女自身の意思で、在り方を決められる魂だったなら。
憑依された時に軽いと感じたのは、生前の記憶がなかったからじゃない。
それが『魂』ではなく、ただの『思念』だったからだ。
「……カイコさんみたいな存在を、何て呼んだらいいんでしょうね」
「明確に名前を付けられるものばっかりじゃないさ。我々はそういうものを総じて『神さま』と呼ぶんだろうよ」
「そう、ですね……」
『神さま』だなんて、思ったこともなかったのに。
視線を彷徨わせた先にある芝生広場では、花火の見物客が撤収しつつあった。さぁっと波が引くように、ざわめきも
つい半刻前まで、あんなに楽しかったのに。信じられないくらい楽しかったのに。
心に穴が空いていた。カイコさんの『心』があったところに。
同じ
花のないバラ園の青々と生い茂る葉から、飛び立っていったのは蝶か蛾か。
少なくとも彼女はもう、一つの場所に縛られることはなくなったのだと思った。
犬飼 一郎さんの死が確認されたのは、その翌朝のことだった。前日の夜、自宅で眠りに就いたきり、目覚めることなく息を引き取ったそうだ。
僕と先生で通夜に参列し、線香を上げた。その折に、白い蝶のブローチを
「棺に入れて、一緒に弔うのがいいと思います」
それがカイコさんの望みでもあるはずだ。火葬の煙と共に、空の高いところへと昇っていける。この世に跡形も残ることなく。
そこから更に一週間後。
僕と先生は『懐古堂』を訪れていた。『狭間の世界』ではなく、
「どうもすみません、何度もご足労いただいて」
勲さんが頭を下げる姿はやはり
盆を十日ほど過ぎ、八月も終わりに差し掛かろうというのに、強い日差しは蒸した空気をしぶとく熱していた。四方八方から声を降らせるアブラゼミは、短い命を謳歌している。
錆び付いたシャッターを開ける音が路地に響き、思わずぎくりとした。もう周囲を気にする必要もないのに。
ガラス戸の向こうは、閑散としていた。棚の中身はほとんど空っぽで、カウンターも埃を被っている。
天井から吊り下がったペンダントライトは、電球が外されていた。外の強い光から一転、店内はひどく暗く感じられる。
「一郎さんが『神さま』と呼んだ彼女は、納得した上で天へと還っていきました。一郎さんの想いごと、来世へ持っていくのだと。目に見える、手で触れられるような証拠は提示できないんですが」
勲さんは小さく首を振る。
「いえ、何となく分かります。こないだまであった気配が全然なくなっとるんで。神さまも、祖父と一緒に逝かれたんですね。ありがとうございました」
改めて深々と頭を下げられる。
「この神棚も、ちゃんと魂抜きして焚き上げしてもらおうと思います」
御神札は花火大会の後、いったん神棚に戻していた。あの清浄な気は、僕が集中してやっと少し感じられる程度までに弱まっている。
『神さま』のいなくなった店。それはまるで魂の抜けた肉体のようだった。
棚に残っているのは、最近カイコさんが仕入れた品物が数点のみ。
「この辺の商品、神さまが持ってこりゃあたものですかね。神さまもここで商売しとったんかもしれませんね。こういうの見ると、信じざるを得ないなぁ」
笑み混じりの勲さんに、僕も口元を緩める。うっかりすると涙腺まで緩みそうで、喉の奥を引き締めた。
メロカリまでやっていたとは、さすがに勲さんも信じないだろうけれど。あのアカウントは、何の痕跡もなく消えていたから。
「こないだから気になっとったんですけど、この変わった人形。これも、神さまのですよね」
そう言って勲さんが手に取ったのは、アサガオ柄の浴衣姿の、ショートボブの市松人形だった。
「服もいくつかあるし、着せ替え人形なんだ。……あれ?」
勲さんはじっと人形を見つめた後、僕の方へと視線を向けた。
「この人形、服部くんのことが好きみたいだね」
「えっ?」
——良かったねぇ、服部くんがいっぱい着替え持ってきてくれたよ。
カウンターの側に立つカイコさんの姿が蘇ってくる。
柔らかい声で人形に語りかけながら、優しく丁寧な手付きで着替えをさせていた。
「僕の霊感、そんな大したことないんだけど、何となくそんな気がしたんだわ。ほら」
勲さんから人形を手渡される。そのビー玉みたいな瞳は、確かな意思を感じる。
この『魂』は、僕が初めて憑依させた付喪神だ。
そして、僕が初めて自分の意志で『念』を浄化した相手。
——いらっしゃい、服部くん。待っとったよ。
力が弱くなっているからと、カイコさんは僕を頼ってくれた。
——契約しよう。服部
最初はおっかなびっくりだったけれど、そのうちに慣れた。ちゃんと役立てるようになって嬉しかった。
——服部くん、私の未練になってくれんかや?
恋愛感情じゃない。だけど、一緒にいて楽しい相手だった。
未練になったって良かった。
カイコさんのいるこの店は、いつの間にか僕の居場所になっていた。
——また店の手伝いしに来てよ。何かあったら呼ぶわ。
カイコさん。服部です。今日も来ました。
何かお手伝いできることはないですか?
雑用でも、掃除でも。軽い『念』なら祓います。
カイコさん。カイコさん。
ねぇ、いつでも呼んでくださいよ。
「服部くん……?」
「あ……す、すみませ……」
押し寄せてきた情動の波に一瞬で呑まれた。一旦決壊してしまったら、涙は次々溢れてくる。まるで堰が切れたように、簡単には止まりそうもない。
上手く声にならないのを、代わりに先生が答えてくれた。
「このところ彼は、カイコさんの……例の『神さま』のことですが、よく手伝いをしに来ていたんです。だいぶ仲良くなったみたいだったんで……」
「なるほど、そうだったんですか。……そうか、『神さま』は『カイコさん』というんですね」
自身の『魂』を持たない存在だった。神さまへ向けた祈りから生まれた『思念』の塊でしかなかった。
だけどその人には、『カイコさん』という名前があった。
他の何者でもない。
もうどこにもいない。
「良かったらその人形、持ってってください。その方が喜ぶんじゃないかな。人形も、それから『カイコさん』も」
——ちゃんと相応しい持ち主が現れるまで店におってもらおうかな。それまでは私が世話するわ。
「えぇ、ありがとうございます。私もそう思います。……良かったな、服部少年」
「……はい」
先生の大きな手が、僕の頭にぽんと置かれた。
僕の腕の中にある人形が、ほわっと温かな熱を発した気がした。
勲さんから報酬を受け取り、見送られる形で『懐古堂』を後にする。
「もうこれが最後になるかな」
「……ですね」
通い詰めた店を、改めて振り返る。
一階が店舗、二階が住居。煤けたようなモルタルの外壁に、ところどころ端の欠けた文字で『古美術 懐古堂』と屋号が入っている。
良く言えば昭和レトロ、悪く言えば時の流れに取り残された店。
外側からでは分からない。ここに誰がいたのか。どんなことがあったのか。
今や何もかも、僕たちそれぞれの記憶の中にしか存在しない。
和らいだ午後の日差しが、ただ優しく、古ぼけた店の姿を照らしている。
「行こう」
「はい」
僕たちはまた歩き出す。
降り注ぐアブラゼミの合唱の中に、ツクツクボウシの声が混ざり始めていた。
—#4 約束のブローチ・了—
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