4-9 残響

「万華鏡の件で、命を助けてもらったことをお礼しに行った時ね……カイコさん、『大袈裟だ』って笑っとったの。でも、もしあそこで力を使わんけや、まぁちょっと猶予があったのかも。もっと、じっくり話をする時間も……」


 百花もかさんは小さく鼻をすすり、俯いて軽く笑った。


「あぁ、でも駄目だ、そんなこと言ったら……きっと、カイコさんに怒られる……」


 言葉尻が消え入って、押し殺したような嗚咽に取って代わった。

 その気持ちは、痛いほど分かる。

 だけどこんな時ほど、他者の感情を勝手に受信してしまう共感応エンパスの回線はきっちり閉じるべきだと思った。


 まだ最後の花火の残響が、耳の奥に留まっている。

 あの音が掻き消した、カイコさんの最期の言葉も。


 樹神こだま先生は茂みに隠していたスマホを回収し、懐中時計型スマートウォッチの蓋をひと撫でしてからポケットに入れた。

 溜め息混じりの言葉がこぼれる。


「ある程度は覚悟しとったつもりだけど、さすがになぁ……何だかんだ言って、これまでの人生の半分くらいは付き合いのあった相手だでな」


 二人の哀しみの深さは、彼女と出会って数ヶ月の僕とは比べるべくもないだろう。


 自分の手の中にある白い蝶のブローチへ意識を向ける。どれほど注意深く探っても、カイコさんの気配はやはり欠片も感じられなかった。

 御神札の方はまだわずかに清浄な気を発しているけれど、今にも消えてしまいそうだ。


 ぐるぐると、言いようのない気持ちが渦を巻く。どうやって向き合えばいいのか見当も付かない。


 カイコさんが、付喪神つくもがみだったら良かったのに。長く大切に使われた道具に、自ずと宿った魂であれば。

 あるいは、幽霊ならば。彼女自身の意思で、在り方を決められる魂だったなら。


 憑依された時に軽いと感じたのは、生前の記憶がなかったからじゃない。

 それが『魂』ではなく、ただの『思念』だったからだ。


「……カイコさんみたいな存在を、何て呼んだらいいんでしょうね」

「明確に名前を付けられるものばっかりじゃないさ。我々はそういうものを総じて『神さま』と呼ぶんだろうよ」

「そう、ですね……」


 『神さま』だなんて、思ったこともなかったのに。


 視線を彷徨わせた先にある芝生広場では、花火の見物客が撤収しつつあった。さぁっと波が引くように、ざわめきも人熱ひといきれも薄らいでいく。

 つい半刻前まで、あんなに楽しかったのに。信じられないくらい楽しかったのに。

 心に穴が空いていた。カイコさんの『心』があったところに。

 同じうつし身で同じものを味わって、同じタイミングで同じ感想を抱いた、あんな奇跡はきっと二度とない。


 花のないバラ園の青々と生い茂る葉から、飛び立っていったのは蝶か蛾か。

 少なくとも彼女はもう、一つの場所に縛られることはなくなったのだと思った。




 犬飼 一郎さんの死が確認されたのは、その翌朝のことだった。前日の夜、自宅で眠りに就いたきり、目覚めることなく息を引き取ったそうだ。

 僕と先生で通夜に参列し、線香を上げた。その折に、白い蝶のブローチをいさおさんに託した。


「棺に入れて、一緒に弔うのがいいと思います」


 それがカイコさんの望みでもあるはずだ。火葬の煙と共に、空の高いところへと昇っていける。この世に跡形も残ることなく。




 そこから更に一週間後。

 僕と先生は『懐古堂』を訪れていた。『狭間の世界』ではなく、現世うつしよの『懐古堂』だ。


「どうもすみません、何度もご足労いただいて」


 勲さんが頭を下げる姿はやはり変化へんげしたカイコさんを彷彿とさせて、人知れず胸が詰まった。


 盆を十日ほど過ぎ、八月も終わりに差し掛かろうというのに、強い日差しは蒸した空気をしぶとく熱していた。四方八方から声を降らせるアブラゼミは、短い命を謳歌している。

 錆び付いたシャッターを開ける音が路地に響き、思わずぎくりとした。もう周囲を気にする必要もないのに。


 ガラス戸の向こうは、閑散としていた。棚の中身はほとんど空っぽで、カウンターも埃を被っている。

 天井から吊り下がったペンダントライトは、電球が外されていた。外の強い光から一転、店内はひどく暗く感じられる。


「一郎さんが『神さま』と呼んだ彼女は、納得した上で天へと還っていきました。一郎さんの想いごと、来世へ持っていくのだと。目に見える、手で触れられるような証拠は提示できないんですが」


 勲さんは小さく首を振る。


「いえ、何となく分かります。こないだまであった気配が全然なくなっとるんで。神さまも、祖父と一緒に逝かれたんですね。ありがとうございました」


 改めて深々と頭を下げられる。


「この神棚も、ちゃんと魂抜きして焚き上げしてもらおうと思います」


 御神札は花火大会の後、いったん神棚に戻していた。あの清浄な気は、僕が集中してやっと少し感じられる程度までに弱まっている。

 『神さま』のいなくなった店。それはまるで魂の抜けた肉体のようだった。

 棚に残っているのは、最近カイコさんが仕入れた品物が数点のみ。


「この辺の商品、神さまが持ってこりゃあたものですかね。神さまもここで商売しとったんかもしれませんね。こういうの見ると、信じざるを得ないなぁ」


 笑み混じりの勲さんに、僕も口元を緩める。うっかりすると涙腺まで緩みそうで、喉の奥を引き締めた。

 メロカリまでやっていたとは、さすがに勲さんも信じないだろうけれど。あのアカウントは、何の痕跡もなく消えていたから。


「こないだから気になっとったんですけど、この変わった人形。これも、神さまのですよね」


 そう言って勲さんが手に取ったのは、アサガオ柄の浴衣姿の、ショートボブの市松人形だった。


「服もいくつかあるし、着せ替え人形なんだ。……あれ?」


 勲さんはじっと人形を見つめた後、僕の方へと視線を向けた。


「この人形、服部くんのことが好きみたいだね」

「えっ?」


 ——良かったねぇ、服部くんがいっぱい着替え持ってきてくれたよ。


 カウンターの側に立つカイコさんの姿が蘇ってくる。

 柔らかい声で人形に語りかけながら、優しく丁寧な手付きで着替えをさせていた。


「僕の霊感、そんな大したことないんだけど、何となくそんな気がしたんだわ。ほら」


 勲さんから人形を手渡される。そのビー玉みたいな瞳は、確かな意思を感じる。

 この『魂』は、僕が初めて憑依させた付喪神だ。

 そして、僕が初めて自分の意志で『念』を浄化した相手。


 ——いらっしゃい、服部くん。待っとったよ。


 力が弱くなっているからと、カイコさんは僕を頼ってくれた。


 ——契約しよう。服部 はじめくん。


 最初はおっかなびっくりだったけれど、そのうちに慣れた。ちゃんと役立てるようになって嬉しかった。


 ——服部くん、私の未練になってくれんかや?


 恋愛感情じゃない。だけど、一緒にいて楽しい相手だった。

 未練になったって良かった。

 カイコさんのいるこの店は、いつの間にか僕の居場所になっていた。


 ——また店の手伝いしに来てよ。何かあったら呼ぶわ。


 カイコさん。服部です。今日も来ました。

 何かお手伝いできることはないですか?

 雑用でも、掃除でも。軽い『念』なら祓います。

 カイコさん。カイコさん。

 ねぇ、いつでも呼んでくださいよ。


「服部くん……?」

「あ……す、すみませ……」


 押し寄せてきた情動の波に一瞬で呑まれた。一旦決壊してしまったら、涙は次々溢れてくる。まるで堰が切れたように、簡単には止まりそうもない。

 上手く声にならないのを、代わりに先生が答えてくれた。


「このところ彼は、カイコさんの……例の『神さま』のことですが、よく手伝いをしに来ていたんです。だいぶ仲良くなったみたいだったんで……」

「なるほど、そうだったんですか。……そうか、『神さま』は『カイコさん』というんですね」


 自身の『魂』を持たない存在だった。神さまへ向けた祈りから生まれた『思念』の塊でしかなかった。

 だけどその人には、『カイコさん』という名前があった。

 他の何者でもない。

 もうどこにもいない。


「良かったらその人形、持ってってください。その方が喜ぶんじゃないかな。人形も、それから『カイコさん』も」


 ——ちゃんと相応しい持ち主が現れるまで店におってもらおうかな。それまでは私が世話するわ。


「えぇ、ありがとうございます。私もそう思います。……良かったな、服部少年」

「……はい」


 先生の大きな手が、僕の頭にぽんと置かれた。

 僕の腕の中にある人形が、ほわっと温かな熱を発した気がした。



 勲さんから報酬を受け取り、見送られる形で『懐古堂』を後にする。


「もうこれが最後になるかな」

「……ですね」


 通い詰めた店を、改めて振り返る。

 一階が店舗、二階が住居。煤けたようなモルタルの外壁に、ところどころ端の欠けた文字で『古美術 懐古堂』と屋号が入っている。

 良く言えば昭和レトロ、悪く言えば時の流れに取り残された店。


 外側からでは分からない。ここに誰がいたのか。どんなことがあったのか。

 今や何もかも、僕たちそれぞれの記憶の中にしか存在しない。

 和らいだ午後の日差しが、ただ優しく、古ぼけた店の姿を照らしている。


「行こう」

「はい」


 僕たちはまた歩き出す。

 降り注ぐアブラゼミの合唱の中に、ツクツクボウシの声が混ざり始めていた。



—#4 約束のブローチ・了—

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