4-7 想いをつなげ

「『懐古堂』に伺った一昨日の、カイコさんが姿を消した後のことです。カイコさんを長時間無事に外へと連れ出すため、魂を店に結び付けている仕組みを私と服部で探りました。そうして店内で見つけた、カイコさんの『本体』とも言えるものを、今日ここに持ってきています」


 樹神こだま先生に促され、百花もかさんが巾着からあるものを取り出した。

 御神札だ。

 神社で頒布される、神さまのしるし

 割と新しいもので、今は百花さんの特殊な香の術で護られている。


「これが、私の『本体』?」

「そうです。店の神棚の中にありました。カイコさんのテリトリーがあの店の中に限定されていたのは、そのためです」


 商売をする店に神棚が備えられているのはよくあることだ。だから神棚が発する気も、あの場所にあって当たり前のものだと思い込んでいた。

 まさかそこにカイコさんの『本体』があるとは、僕は先生に言われるまで全く考えも至らなかったなかった。


「カイコさんの『本体』を神棚で見つけた時、全ての話が繋がりました」

「つまり……どういうこと?」

「実際に見ていただいた方が早いかと。自分が何者なのかを知ることで、ご自身の存在理由も認識できるはずです。この御神札に宿を服部に憑依させようと思いますが、よろしいですか?」


 カイコさんの不安げな視線を、僕は受け止める。


「カイコさん、僕と契約します?」

「……うん、じゃあ、頼むわ」


 冗談めかしたつもりもなかったのだけれど、いつもの笑みが返ってきて、内心ホッとした。


 もうカイコさん自身には、糸を操って魂を移動させる力は残されていない。

 だから今回は、僕たち三人で行わねばならない。

 実は一度『懐古堂』内で試みていたのだけれど、あの『場』テリトリーでは結束が強すぎて、中に宿るものを御神札から分離できなかった。


『約束の花火を目にすることで、カイコさんの自意識に変化が起こるかもしれん。命綱は一本でも多い方がいい』


 先生はそう言ったけれど、残念ながら効果はなかった。


 だから恐らく、これが最後のチャンスだ。今から僕たちがやろうとしていることは賭けに近い。

 怖くないと言えば嘘になる。真実が明らかになることで何が起きるのか、不安も大きい。


 深呼吸を一つ。

 心を揺らすなと、自分に言い聞かせる。


 思えば数ヶ月前、初めて人形の魂を憑依させた時は、危うく魂ごと呑まれかけた。

 自信が打ち砕かれて、自分の弱さが嫌になった。周りの大人たちの強さが羨ましくて、卑屈な気持ちを抱きさえした。

 でも、強いばかりの人は存在しない。

 彼らから教えてもらった。大事なのは、膝をつかないことだ、と。

 百花さんは、過去に囚われながらも自分を見失わず、前を向くことを選んだ。

 樹神先生は、どれだけ揺らいでも選択を誤らず、大切な人の手を離さなかった。

 僕も、そうでありたいと思う。


 僕たち一人ひとりでは、きっとどうにもできない。だけど、三人のうち一人でも欠けたら成し遂げられない。


 カイコさんを、必ず繫ぎ止める。


 手始めに百花さんがかんざしを引き抜き、髪に薫きしめた香を辺りに振り撒いた。嗅いだ者の感覚を開く効果のあるものだ。

 そして煙管キセルの香の煙で、僕とカイコさんを包む。


「服部くんとカイコさんの感覚を接続したよ」


 まるで、見えない糸での有線通信だ。


 さて、いよいよここから。

 御神札は、僕が小脇に抱えて持った。両手を打ち鳴らし、気の流れを呼び込む。ゆっくり深呼吸して、丹田に清浄な気を溜める。

 百花さんが新たな香の粉を火皿に落とし、煙管を一口吸った。細く長く吐いた煙が糸状になり、御神札を包む。

 跳ね上げられた煙管の先に結えた糸は、そこに宿るものを引っ張り出す。今度は上手くいった。


 先生が容喙声音インタヴィンボイスを発する。


「服部 はじめ


 その声は、まるで鼓膜を介さずに頭の中へと響く。穏やかだけど良く通り、自然と心の奥深くまで入り込む。

 直接的に意識へと働きかける言葉が、僕の纏う気に吸引力を生み出す。

 すると香の煙に包まれたそれが、すぅっと僕の身体へ沈んだ。


 魂が、共鳴する。


 今までのどれとも比べ物にならないほどの、巨大な存在感だった。次々流れ込んでくる情報の洪水に、気を抜けば呑まれてしまいそうだ。

 集中しろ。揺らぐな。必ず掴め。

 今、僕だからこそ、できることがある。

 拡張した意識が膨大な情報で埋め尽くされた。一瞬ブッ飛びそうになったものの、どうにか踏ん張る。

 そうして僕はようやく、カイコさんに繋がる『思念』の糸を探り当てた。

 そこへ向けてピンポイントに感覚の回線を引き絞り——




 ——いつか一緒に花火を見られる日が来るといいですね。

 ——そうですね。


 約束とも言えない約束だった。

 私が贈った蝶の襟飾りブローチは彼女の胸元に留まり、その朗らかな笑顔を彩っていた。

 それが、鬼頭きとう 絹子さんとの最後の会話となった。


 よもや、生きて祖国の土を踏めるとは夢にも思っていなかった。記憶にあるよりずっと老け込んだ父母は、私の帰還を泣いて喜んだ。

 大方の親戚や知り合いも無事だと聞いた。

 当然、絹子さんもそうであろうと、私は思い込んだ。


 戦後の復興の波に乗り、焼け落ちた自宅兼店舗も建て直した。

 敗戦の影響もあり、古美術品の取引は下火の時代であった。

 それゆえ高価な品ばかりに限らず、庶民にも馴染みのある雑貨にも手を拡げた。売買だけでなく、古道具の修理や調整も請け負うことにした。

 大須という場所柄もあり、どうにか食い繋げるほどには客の出入りがあった。


 身体を壊した父に代わり、長男である私が店を継ぐことになった。

 そろそろ嫁を貰おうという話が出たが、なぜか絹子さんの名が挙がらない。

 父を問い詰めれば、彼女は今、豊橋市内の公立結核療養所にいるのだという。


 奈落の底へ突き落とされた気分だった。

 思い返せば、最後に会った時、確かに彼女は軽く咳き込んでいた。


 死病だと知ってはいた。だが、祈らずにはいられなかった。

 毎日、店の神棚を拝むついでに願いを込めた。

 絹子さんが、病から快復するように。


 一度、面会できないことを承知の上で、買い付けついでに豊橋まで足を伸ばした。

 絹子さんのご実家をおとない、療養所の近くまで赴いたのだ。

 一目でいい。彼女の姿を見られたらと。

 こちらに気付かれることのないよう、遠くから眺めるのみに留めたが。


 恐らくご両親から、私が訪ねていったことが伝えられたのだろう。それからしばらくして、絹子さんから小包が届いた。

 中にあったのは、あの白い蝶の襟飾りブローチ

 震えた文字で、こう書き添えられていた。


 ——今までありがとうございました。一郎さんの幸せをお祈りしています。


 それはあまりに短い別れの言葉だった。


 返却されたものを、店頭に並べる気にはなれなかった。

 かといって、どこかへ仕舞い込むのも嫌だった。それで気持ちの始末の付けられることではなかった。


 悩んだ挙句、神棚に置いた。

 毎日拝む。毎日祈る。ただ、絹子さんが心穏やかに余生を過ごせるように。

 同時に、毎日想像する。絹子さんが病気に罹らず、私の嫁に来てくれるという夢物語を。


 空想の中で、絹子さんは『犬飼 絹子』だった。

 私と共に店先に立ち、可憐な風貌に似合わず大きく口を開けて朗らかに笑う。暮らし向きが少々厳しかろうと、彼女がいれば日々の景色は明るい。

 現実には決して叶うこともないのだから、せめて夢ぐらいはと、許しを乞うた。


 そのころからだ。店の中で奇妙な現象が起こり始めたのは。

 多くは物の位置が変わっていたり、仕掛かり中の修理が進んでいたりと、害のないものばかりだった。どことなく何者かの気配を感じることもあった。

 店に神さまが棲み着いたのだと思うことにした。骨董屋に付喪神の一人や二人、いてもおかしくはないはずだ。


 程なくして、絹子さんが亡くなったという報せを受けた。

 以降、私は絹子さんの来世の幸せを祈るようになった。


 それゆえか。私の思い描く『神さま』は、絹子さんに似た姿をしていた。

 最後に遠目から見た——療養所のベランダで、外の風に当たっていた絹子さんに。

 長く艶やかだった見事な黒髪は、傷んだせいか短く刈られ、心労に拠ってか白色に変わり。

 清潔そうな白い寝巻きに包まれた身体はひどく痩せ。

 白い肌はますます白く、大きな瞳だけがくっきり黒く。

 少女のようでもあり、老婆のようでもあり、瞬きの間にも儚く散ってしまいそうにも、その風貌のまま悠久の時を越えそうにも思えた。

 死病に冒されてなお、絹子さんは美しかった。

 この世に神がいるのなら、きっとそんな姿をしているに違いないと思えるほど。


 私は密かに、その『神さま』を『カイコさん』と名付けた。

 あの襟飾りブローチの意匠から想起された絹子さんの印象がそのもの『カイコ』であったことに加えて、私の店の名も『懐古カイコ堂』であったからだ。

 姿も見えぬ『カイコさん』。

 何であれ、私の店の守り神に違いない。


 やがて私は別の女性と見合い結婚をした。子も生まれ、平穏な時代がやってきた。

 月日は流れ、幾度も幾度も夏が過ぎ。

 ある時、孫のいさおが言った。「店の中で、白い女の人を見た」と。

 そんなはずはない。夢でも見たのだろう。『カイコさん』の姿は、私しか知らぬはずなのだから。


 私の心の中だけに秘めた、私だけの神さまなのだから。


 どれだけ時が経とうとも、夏が来るたび思い出す。

 果たすことのできなかった、あの約束とも言えない約束を。


 ——いつか一緒に花火を見られる日が来るといいですね。


 約束とは、契約だ。完遂するまで、心を縛る。

 かつて異国の地に送られた時、私をこの世に繋ぎ止めていたのは、紛れもなくあの約束だった。

 生きて戻らねば、と。

 結局、貴女の名前すら繋ぐこともできなかったが。


 絹子さん。絹子さん。許されるならば。

 来世でもう一度、巡り会えますように。

 今度こそ、同じ道を歩むという選択肢がありますように。


 絹子さん。絹子さん。どうか、どうか——




 僕の中で深く共鳴していた二つの魂に、境界線を引く。僕自身の魂の輪郭を、僕が僕であることをしっかり意識する。

 百花さんが煙管の先を跳ね上げると、僕ではない方の『魂』がすぽんと抜け、すぐに手元の御神札へと収まった。


「大丈夫か、服部少年」

「はい先生、僕は問題ありませんけど……」


 僕と感覚を共有していたカイコさんは、その場に立ち尽くして、御神札を見つめている。虚ろな表情のまま、薄い唇だけが小さく動いた。


「そっか……私は」


 白い指先が、白いストールに留まった白いブローチに触れる。


「私は、絹子の幽霊じゃなくて、一郎さんの祈りから生まれた存在だったんだ」

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