4-6 真実に向かう夜とたません

 それから二日後、花火大会の日。


 名古屋市営地下鉄鶴舞線を、上前津かみまえづ駅から庄内緑地公園駅へと移動する。

 地下鉄は満員を超えていた。浴衣姿の若い女性グループやカップル、家族連れなどの姿が目立つ。

 ドアが開き、ひしめく人々の波に流されて、僕たちもホームへと吐き出された。地下鉄で移動しただけなのに、相当な体力を消耗した気がする。茜ちゃんと来る時はアクセス方法を考えた方がいい。


 二番出口から地上へ出れば、目的地はすぐそこだ。

 空には夕焼けの余韻があり、まだ夜の帳は降り切っていない。生温い風が吹き抜けては、人熱ひといきれを掻き混ぜていく。


「すごい人だねぇ」

「意外と盛況だな」

「晴れて良かったです。まだちょっと蒸し暑いですね」


 本日のメンバーは四人。


 まずは、白地に紫の菊の柄の、しっとりした雰囲気の浴衣を着た百花もかさん。

 和装は見慣れていても、浴衣となると襟元がいつもより無防備に思えて、ちょっとドキッとする。


 次に、珍しく普段着の樹神こだま先生。

 淡いカーキの開襟シャツに、ゆったりめの黒いアンクルパンツ、そしてスポーツサンダル。

 ラフな服装なのに、すらりとした長身や括った長髪とも相まってやたらとお洒落に見え、僕は今回も神さまの不公平を呪った。


 僕と言えば、いつも通り普通のTシャツに普通のジーンズという何の面白味もない普通を極めた格好だ。


 そしてもう一人。


「カイコさん、会場に着きましたよ。大丈夫ですか?」

『うん、今んとこね』


 僕の中に、カイコさんがいる。


 ここへ来る前に『懐古堂』へ立ち寄り、カイコさんを連れて外出するための対策をいろいろと施してきた。

 百花さんの香でカイコさんの気を高めて保護し。

 先生の容喙声音インタヴィンボイスで自我を保つよう意識に働きかけ。

 その上で僕と『契約』して、憑依してもらっている。なお白い蝶のブローチはポケットの中だ。


 先日、花火大会へ行く提案をした直後、カイコさんはまた姿を消してしまった。

 残された時間は、きっと少ない。

 焦る気持ちを抑えて、僕はカイコさんの魂を運ぶ役目に徹しようと決めた。

 カイコさんの気配は既に、下手な触れ方をしたら壊れてしまいそうなほど弱くなっている。憑依させるにしても、身体の内側で適切な距離感を保つ必要がある。

 当然、外部から雑多な念がわずかでも入り込まないよう、回線はきっちり閉じている。

 これらのことを同時に行うにはひどく気を遣うし、集中力を維持しなければならない。


 入口の管理棟の横を抜け、駐車場の上を通る橋を渡れば、正面には大きな噴水がある。

 その向こうには、だだっ広い芝生広場。花火開始時刻三十分前の今、既に場所取りの人でいっぱいだ。

 広場を囲む通路に沿って、キッチンカーや屋台が並んでいる。やきそば、フランクフルト、ケバブにかき氷。食べ物を求める行列もそこそこに長い。


「何か食おうか。まだちょっと時間あるし」

「あっ、たませんもあるよ。懐かしい」

『たません?』

「カイコさん、食べます? 美味しいですよ」

『食べたい!』


 僕は列に並んで、たませんを三つ買った。

 それぞれ分担して調達してきた食糧を手に、芝生広場をぐるりと回り込んで移動する。

 花火は公園の南側を流れる庄内川のほとりから打ち上がるらしい。園内なら、どこからでも大きく見えるはずだ。


「この広場の向こうにバラ園があるんですよ。その辺ならあんまり人おらんと思います」

「へぇ、詳しいね」

「茜ちゃんと来るつもりで、事前に調べとったんですよ。人気ひとけの少ない場所を」

「えっ……」


 先生と百花さんが同時に僕の顔を見る。


「やだ、そっかぁ、うふふ」

「なるほど、祭りの時なんかはお互い盛り上がるもんだし、気持ちは分かるが……屋外だと嫌がられんか? 意外と人に見られるでな」


 二人の反応で、自分の発言がとんでもない誤解を招いたことに気付き、一瞬で脳味噌が沸騰した。


「そっ、そういう意味じゃないですよ! 茜ちゃん人混み苦手ですし、花火見るのに楽な場所がないか調べただけです!」

「いやぁ、若いっていいねぇ」

「うふふ」

『あははは、服部くん動揺しすぎだて』

「もうっ! カイコさんまで!」


 四人して騒ぎながら、目的のバラ園に辿り着く。花の時期ではないけれど、よく手入れされているようだ。予想通り、付近の人影はまばらだった。


 通路に陣取り、買ったものを各々食べながら、花火の開始を待つ。


「カイコさん、これがたませんですよ」


 たませんとは、大きめのえびせんべいで目玉焼きを挟んだものだ。せんべいの内側には、お好み焼きソースとマヨネーズがこれでもかというほど塗られている。

 ざくざくと噛み砕けば、想像通りのジャンクな味がして、それが最高に——


『うん、美味しい!』


 ほぼ同じタイミングで全く同じ感想が頭の中に響いてきて、思わず笑ってしまった。


 スパイシーなピタケバブに、甘くて冷たいブルーハワイのかき氷。国籍も取り合わせもめちゃくちゃ、しかも立ち食いで慌ただしいことこの上ない。

 少し離れた芝生広場の喧騒が、生温い空気を心地よく揺らしている。誰かの明るい笑い声も、風に乗って漂ってきた。

 「ビールが欲しい」と百花さん。

 「もうすぐ始まるよ」と先生。

 そわそわと、お腹の中がくすぐったい。

 あぁ、何だかすごく——


『楽しいねぇ』


 ちょうど僕も、そう思ったところだった。

 胸にちくりと痛みを覚える。今ここに、茜ちゃんはいないから。


 園内の照明が消えた。たちまち宵闇が濃さを増す。

 多くの人々が一斉に息を呑んだ音が、わっと小さな歓声のように沸く。しかし次の刹那には、張り詰めた静寂に取って代わった。


 ほんの少し、時が止まっていたと思う。

 満ち満ちた期待だけが、場を支配していた。


 開始の合図は何もなかった。

 ただ、白い光が糸を引いて、空を駆け上がっていく。

 パン!と大きな音が、体の芯に響く。

 花が咲いた。たった一輪の花が大きく大きく広がって、南の空を覆うほど。白から黄色、黄色から赤、最後に緑。見る間に色を変えながら、こちらに迫ってくると錯覚するぐらい。


『わぁ……』


 それを皮切りに、花火は次々打ち上がる。紫、橙、紅色に青色。三つ四つ、二つ三つと、競うように開花する。

 絶え間ない破裂音が心臓を打ち鳴らし、僕は呼吸の仕方を忘れた。どういうわけか、ひどく心細い。まるで自分がちっぽけな存在のように思える。

 今は僕の隣にいない、小さな手の持ち主が恋しくなる。


『綺麗……』


 カイコさんの呟きに、なぜだかぐっと喉の奥が詰まった。

 果たされなかった約束の代わり。

 同じものを見ていても、今この瞬間、僕たちの想いも時間も交わらない。


 僕の中で温かく膨らんだ、僕のものではない存在に、僕は声をかけた。


「カイコさん、何か思い出しましたか?」

『……うーん』

「やっぱり思い出せませんか」

『ごめん』

「謝らんといてください。思い出せんくて当たり前なんですから」

『……え?』


 先生と百花さんに目配せすると、首肯が返ってくる。

 だから僕は、はっきりと告げた。


「どうしてカイコさんに生前の記憶がないのか、やっと分かったんです」


 僕の中のカイコさんの『心』がざわめく。


『……なんで?』

「じゃあ、ちょっと階層を変えましょうか」


 先生は茂みにスマホを置き、懐中時計型スマートウォッチを確認すると、低く通る声で言った。



 きぃん、と耳の奥で鋭い音が鳴り、にわかに意識が遠ざかる。


 頭がはっきりしたころ、僕たちは真っ赤な景色の中にいた。

 見渡す限り、燃えるような夕暮れ色に変わっている。周りを囲む花のないバラ園も、少し離れた芝生広場も、太陽の沈み切ったはずの空さえも。

 僕たち以外に人の姿はなく、あれだけ盛大に天を彩っていた花火すら影も形もない。

 静かだった。今の今まで一帯に溢れていた数々の音が、まるきり消失している。


 『狭間の世界』だ。現世うつしよから隔てられた、幽世かくりよにも近い場所。

 これから僕たちは、カイコさんに重大な事実を告げなくてはならない。


「カイコさん、僕の中から出られます?」

『うん、ここなら大丈夫』


 ポケットからブローチを取り出すと、ひゅっと身体の軽くなる感覚があり、気付けばカイコさんが目の前にいた。

 ベリーショートの白い髪に、上から下まで白の服。耳元で揺れるピアスは、葉脈ではなく蚕蛾カイコガの触角を象ったものではないかと今さら思い当たる。

 はねのようにも見える白のストールに、留まっているのは白い蝶。

 端から端まで赤く染め抜かれた視界の中、その姿は白い光を淡く纏っているように見えた。

 そこだけ印象的に真っ黒な、やや吊り気味の大きな双眸が、僕たち三人へ順に向けられる。


「ほんで、私の生前の記憶がない理由って?」

「それについては私から説明しましょう」


 進み出たのは、先生だった。


「カイコさんが、何者なのかということを」

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