4-4 約束の痕

【あかね】ごめん、やっぱり花火大会は難しいって。

【服部 はじめ】そっか、残念だけど仕方ないね。花火は来年も再来年もあるよ。いつか絶対一緒に行こう。


 LIMEのトーク画面は、『ありがとう』の文字が入った猫のキャラクターのスタンプで終わっている。それが茜ちゃんの空元気に見えて、胸が小さく痛んだ。

 僕はブックマークしていた花火大会の特設サイトや、開催場所である西区の緑地公園の園内マップの画面を、そっと閉じる。


 何だか、思うようにいかないことばかりだ。


 カイコさんには、あれから会えていない。

 依頼を受けた翌日と翌々日、つまり一昨日と昨日、二日続けて樹神こだま先生と共に『懐古堂』へ赴いたけれど、白い幽霊の店主は姿を現さなかった。

 それでもまだ『狭間の世界』の店内へは行けるので、カイコさんの『場』は存在しているらしい。彼女はどこへ行ってしまったのか。



 そうこうするうち、依頼人である犬飼 いさおさんとの約束の日を迎えてしまった。



「いやぁ、今日もあっついねぇ」


 真夏の晴天の日の、午後二時前。

 いつも通りきっちりとしたスーツベストにネクタイ姿の先生は、大須商店街に入ってからハンカチで額の汗を拭った。長身イケメンは、こんな時でもやたらと絵になる。

 入学式以来のワイシャツとスラックスを選んだにも関わらず童顔と貧相な体格のせいで高校生にしか見えない僕は、不公平な神さまをなじりたくなった。


 先生がいつも通りなので、僕も気持ちを落ち着ける。

 若干の不安と緊張感を伴って歩けば、あっという間にアーケードの大通りを逸れる路地まで来てしまう。


 照り付ける太陽の下。待ち合わせ場所である『懐古堂』の軒先に、勲さんが見えた。彼は僕たちを認めると、やや深めにお辞儀をした。

 その姿に、再び既視感を覚える。

 今度は、もしかして、と思い当たることがあった。

 だけどまだ、確信には至らない。


「すいませんね、暑い中ご足労いただいて」

「いえいえ、とんでもない」

「今日は祖父が元気だもんで、ちょうど良かったです。ここ数日はちょっと夏バテ気味だったみたいで」

「そうでしたか。では、できるだけ手短に済ませます」


 日向の道を、三人ぞろぞろ歩いていく。

 勲さんが言った。


「祖母が死んでから、祖父はあの家で一人暮らしだったんですよ。でも足腰が弱なってきたもんで、うちの両親と同居になりました」


 つまり、今から行くのは勲さんの実家ということだ。


「ここから五分とかからん場所ですよ。同居になってからも時々、祖父が家の風抜きや神棚の手入れをしに店に行っとったみたいなんですが、最近はそれも難しなってきて」


 勲さん自身の現在の自宅は、少し離れた名東区にあるそうだ。しかし両親も既に高齢のため、代わりに店の片付けに駆り出されているとのことだった。


「まぁ、じいさんには可愛がってまったんでね。こういう形でも孝行できればいいですよね」


 ここです、と示された先は、茶色の壁の一軒家だ。

 勲さんが小さな門扉の留め具を回し開け、中へと案内してくれる。表の庭にはプランターがいくつかあり、ミニトマトやきゅうりが実を付けていた。

 ガラガラと鳴る、重たげな格子のサッシの玄関扉。靴の片付いた三和土たたき

 出迎えてくれた勲さんのお母さんの表情には、得体の知れない訪問者に対するわずかな警戒の色があった。だけど手土産を渡して丁寧に挨拶すれば、滞りなく招き入れてくれた。


 通されたのは、和室の応接間だった。

 よその家の匂いを嗅ぐと、不思議な気分になる。

 知らない誰かが、確かに生活を営んでいる空気。僕の知らない人生が息づいた『場』なのだ。


 間もなくして、勲さんがお祖父さんを支えながら入ってくる。

 その人はとても痩せていた。歩くのも、ものすごくゆっくりだ。

 確かにかなりのお年に見えるけれど、九十九歳だと考えると、介添が必要とはいえ自宅で生活できているのは健康な証拠かもしれない。

 二人はよく似ていた。勲さんが年を取ったら、ちょうどこんな顔になるに違いない。


 勲さんがお祖父さんの耳元で大きな声を出した。


「ほら、じいちゃん、お客さん!」

「あぁ、どうも、いらっしゃい。勲の祖父の一郎です」


 皺だらけの顔が更にくしゃりとして、人の好い笑みの形になる。

 勲さんのお母さんが、麦茶となごにゃんを出しにきてくれた。

 座卓を挟んで二対二の対面となったところで、先生がにこやかに話を始める。


「探偵の樹神と申します。私どもは勲さんからのご依頼で、『懐古堂』に住む霊への対処の方法について探っています。一郎さんがご存じのことを——」

「えぇ? 何だって?」


 耳の遠い一郎さんに、勲さんが通訳してくれる。


「じいちゃん、この人たちに、店におる神さまのこと教えたって!」

「神さまなぁ……まだおるんかしゃん」

「おると思うよ、何か気配するでさ。店壊す前に、神さまを移動させるか何か、せならんでしょ」

「ほうかぁ、そんなんできるんか、よぅ知らんけど。何話したらいいの?」


 先生からの質問を勲さんが一郎さんに伝え、一郎さんが覚えていることを答える。そんなやりとりが、何往復もあった。


 要約すると。

 今ある店舗は、一郎さんが戦争から戻ってきた後に新築されたものだった。

 くだんの神さまは、一郎さんが先代から店を継いだころに出始めたらしい。

 事前に聞いていた通り、商品の位置が変わったり、壊れものが知らない間に修理されていたりということが、たびたびあったそうだ。

 だけど一郎さん自身は神さまの姿をはっきり見たことがない、とのことだった。


「お店を閉めてこちらに移ってからもあの家を残していたのは、神さまがいるからですか?」


 この問いに対しては。


「そういうわけじゃのぅて、ずぅっとあすこに住んどったもんでな。いろんな思い出が詰まっとる、戦後の焼け野原に一から建て直した店だでよ。だけんどまぁ、わしもよぅ手入れできんくなってまったでかんわ」

「神さまと何かやりとりがあった、ということはないんですか?」

「いんや、毎日神棚拝んで、時たま掃除したりしとっただけだわ」


 どうやら『神さま』と何らか契約したということではないようだ。少なくとも、一郎さんの認識の中では。


「では、この蝶のブローチに心当たりはありませんか?」


 先生がカイコさんの依代であるブローチを見せると、一郎さんは目をみはった。


「どうしてあんたがそれを持っとるの?」

「これは、例の幽霊……『神さま』が身に付けていたものです。先日、私の助手が彼女に会いに行ったところ、これだけが置いてあったもので」


 一郎さんは、そっと視線を落とした。


「その襟飾りは……わしが絹子さんに贈ったもんだがや」

「絹子さん? 奥さまですか?」

「いや……昔、結婚の約束をしとったひとだわ。戦争が激しなったもんで、取りやめになった」

「えっ、じいちゃん、それ本当?」

「あぁ」


 勲さんの動揺をよそに、一郎さんは語り始めた。


 その女性、鬼頭きとう 絹子さんとは、太平洋戦争の前に親同士の口約束で許嫁となった間柄だった。彼女は豊橋の蚕糸さんし工場の経営者の娘だったそうだ。

 だけど、戦争が始まってしばらくすると一郎さんも徴兵検査を受け、召集される可能性が高くなった。そのため自分の側から結婚の話を保留にした。

 最後に会った時に渡したのが、このブローチだったという。

 結局、一郎さんは出征することとなる。二度と再会できないだろうと思っていたけれど、彼は戦争を生き延びて帰国した。


「でも、絹子さんとは結婚されなかったんですか」

「わしが戻ってきた時には、絹子さんは胸を病んどった。だもんで、ロクに会うこともできんまんま……」


 結核。かつては不治の病だったと聞いた。他の人に感染らないように、罹患者は隔離されていたはずだ。


「この襟飾りは、絹子さんが亡くなる前に、わしに送り返してこやぁたもんだわ」


 一郎さんは、やや湿った声で続ける。


「わしが戦争に行く前、最後に会った時、いつか一緒に花火大会に行けやぁいいって話しとったんだがよ。でも、それも結局できんかった」


 花火大会。

 思わずハッとした。不意に胸が苦しくなる。

 絹子さんという女性が、茜ちゃんに重なった。


「写真、一枚だけ残っとったと思うでよ。勲、わしの部屋から一番古いアルバム出してきたって」

「わ、分かった」


 勲さんが和室から出ていく。時間がかかるかと思いきや、数分後には戻ってきた。その手には濃い茶色の表紙の、くすんだ金色のリングで綴られた一冊のアルバムがある。


「これ?」

「おぉ、それだわ」


 節くれだった指がページを捲る。貼り付いている箇所があるらしく、時おりパリパリと音が立つ。

 初めは白であっただろう台紙は茶色っぽく変色していて、そこに大小さまざまなサイズの白黒写真が並んでいた。多くは学生の集合写真だ。


「あぁ、これだ。最後に一緒に撮ったんだわ」


 示された一枚には、若い男女。カップルという感じではなく、何となく気恥ずかしげな距離感で立つ二人が写っている。


「この方が絹子さんですか。お綺麗な方だ」


 黒髪を後ろで一つに結んだ、ブラウスにスカートの女性。

 先生の言う通り、不鮮明な写真ながらも美人だと思えた。髪型や服装は違うけれど、よく見れば顔立ちがカイコさんと似ている……ような気がする。

 何より、胸元には蝶の形のブローチが留まっていた。


 だけど僕が驚いたのは、むしろ男性の方だった。


「こちらは一郎さんですか?」

「あぁ、そうだよ。まだ二十歳かそこらのころだわ。今のあんたとおんなじくらいかもしれんね」


 なぜ、勲さんの顔に見覚えがあったのか。もしやと思っていたことが、ようやく確信に変わる。

 やや面長で優しげな目元。ひょろりとした体格。僕の記憶にあるイメージよりかなり若いけれど、間違いない。

 写真の中の一郎さんは、カイコさんが店内の階層を現世うつしよに切り替えて接客する時に変化へんげする、あの男性とそっくりだったのだから。


 『未練』。

 その言葉が、僕の頭を過った。

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