4-2 神さまに伝えたいこと

 名古屋駅から名鉄あるいはJRで二駅。もしくは地下鉄東山線に乗り、栄で名城線左回りに乗り換えてから四駅。

 金山総合駅の程近く、とある雑居ビルの二階に、小さな事務所がある。

 看板は出しておらず、玄関扉の表側にレトロな風合いの小さな表札がかかっているだけ。

 そこには、こんな飾り文字が並んでいる。


『樹神探偵事務所』


 樹の神と書いて『こだま』と読む。

 密室殺人なんかとは縁がないけれど、この探偵事務所にはちょっと変わった依頼が持ち込まれる。 


 僕の名前は服部 はじめ

 ここで樹神こだま先生の助手をしている、名古屋市内の国立大学に通う十八歳だ。


 これからご紹介するのは、蝶の形のブローチに秘められた遠き日の約束の話。

 姿を消したカイコさんは、いったいどこへ行ってしまったのか——。



 ◇



 見慣れた事務所は、稀に見る緊迫感で張り詰めていた。

 マホガニーの書き物机とアンティークの本棚を背景に、応接セットの猫脚ローテーブルを挟んで、正面のソファにはお客さんが一人。

 今日の昼過ぎに、僕が『懐古堂』の前でぶつかってしまった男性だ。


 僕の隣に座った樹神先生が、深く頭を下げた。


「このたびは、うちの助手がご迷惑をおかけし、申し訳ございませんでした」


 普段とは違う、硬く誠実な響きの声。

 僕は先生に倣ってこうべを垂れる。胃がキリキリ痛み、心臓が軋んでいる。


 あの時、「何をしているのか」という問いへの答えに窮した僕は、思わず「バイトのおつかいで」と口走ってしまった。

 この探偵事務所の名を告げて、その場で先生に電話をかけ、相手の男性と話をしてもらい。

 どういうわけか男性は事務所へ来ることになり、今に至る。

 大須から金山まで、タクシーで十分足らず。その間、生きた心地がしなかった。


 アブラゼミの声が遠く聞こえる。外はまた暑いだろう。この部屋は少し冷房が効きすぎているぐらいだけれど。

 そうして自分の膝を見つめる時間を、えらく長く感じた。


「いや、頭を上げてください。それはもういいですから」


 相手からそう言われ、僕は視線を落としたまま首を持ち上げる。

 そのタイミングで、百花もかさんが麦茶を運んできた。視界の端にミントグリーンの植物柄の着物が映り込む。


「どうぞ」

「あ、すみません」


 ふわっとした微笑みの気配。場の空気が少し和らいだのが分かった。

 百花さんは今、自宅兼店舗をリフォーム中で、その期間だけうちの事務所に間借りして心霊相談を受けている。正直、いてくれて良かった。


 口火を切ったのは先生だ。


「失礼ですが、『懐古堂』のご主人でいらっしゃる?」

「あぁ、いえ、あそこは僕の祖父がやっとった店なんですよ。十年前に店じまいしてますけど」


 以前、先生たちが言っていた。まだ現世うつしよの『懐古堂』が営業していた時は、予め『狭間の世界』に移動してから店に入っていたと。

 現在は紛れもなく閉業した店だ。


 男性は、犬飼 いさおと名乗った。


「このところ店内を整理するのに、ちょくちょく出向いてまして。今日もそれで、シャッターの鍵を開けようとしたら、急に彼が現れて」

「すっ、すみません、僕の不注意で……」

「いやいや。訊きたいのは、どうやって店の中に入っとったのかということです。ちゃんと鍵かってますし、僕には彼がシャッターをすり抜けて出てきたように見えたもんで」


 やっぱり。臓腑が更にきゅうっと縮む。完全にやらかした。誰の顔も見られない。

 だけど我が雇用主は特に慌てた様子もなく、軽く居住まいを正す。


「こうした話を、どこまで信じていただけるか分かりませんが」


 前置きした上で、先生は話を始めた。

 ここが怪異現象を専門に調査する探偵事務所であること。

 現世うつしよ幽世かくりよの間に『狭間の世界』という階層が存在すること。

 僕の用事があったのは、狭間の世界の『懐古堂』だということ。


 そんな突拍子もない話を一般の人に信じてもらえるものなのか。

 しかし意外にも、勲さんはすんなり頷いた。


「なるほど。あの辺、いろいろある土地ですからね。そういう心霊系の話があっても不思議じゃない。実を言うと僕自身も、ちょっとだけ霊感がありまして。この探偵事務所の名前も小耳に挟んだことがありました」

「そうでしたか。どのみち不法侵入であることに変わりはないので、そこは弁解のしようもありませんが」

「いえ……これも、何かのご縁かなと思ったんですよ。僕がここまで来たのも、そのためです」


 ご縁、とは。

 何だか話の向きが変わってきた気がする。

 僕はようやく勲さんの顔を見る。柔和な面差しの、穏やかな感じの人だ。


 先生が控えめに切り出す。


「何か、お困りごとがおありとか?」

「えぇ、実は。あの店におる神さまのことなんですが」


 神さまとは、もしや。


「僕、近くに住んどったもんで、子供のころはしょっちゅう祖父んとこに遊びに行っとったんですよ。昔からあの店、よく不思議なことが起きとったんです。知らん間に物の位置が変わったり、壊れたものが直っとったり。時々、パチンパチンてラップ音みたいなのも」


 思わず声が漏れそうになったのを、どうにか堪える。

 隣の先生は絶妙な微笑をキープしていた。


「……なるほど、そんなことが」

「祖父は『神さまがおるんだ』と言ってましたね。店には神棚もありますし、そういうもんかと子供のころは納得してました。だもんで、神棚がちょっと怖くてね」


 勲さんは、麦茶を一口飲んだ。


「それこそ変な話をしますけど……実は昔、いっぺんだけ神さまを見たことがあったんです。白っぽい服を着た綺麗な女性の」

「もしや、白い髪でショートヘアの?」

「えぇ、そうです。……やはりご存じでしたか」


 完全にカイコさんだ。

 指パッチン一つで階層を操作できるわけだから、そりゃあ現世に移動した瞬間に誰かと鉢合わせることもあり得ただろう。

 また、モノに強い影響力を持つカイコさんのテリトリー内では、品物たちも階層を渡ってしまう。


「妙な現象のこと、それまでは不気味に思っとったんですけど、あんな綺麗な神さまなら良いかと思えるようになりましたね。祖父からは『夢でも見たんだろう』と言われましたが」


 いや、そのひと、メロカリで店の商品を勝手に売買してますけど。

 そんな事実を知らない勲さんは、照れくさそうに小さく笑って、どこか遠い目をした。


「最近、久方ぶりに店に行っとるんですけど、やっぱり誰かおるような気がするんですよ。ラップ音も聞きましたし、行くたんびに物の配置も少しずつ変わっとるような。見たことない人形とかもありましたね。……だから正直、どうしたらいいのかと思いまして」

「どうしたら、と言うのは?」


 彼の視線が先生から僕に移り、そしてまた先生へ戻る。


「近いうちに、あの店を取り壊すことになったんです」

「えっ?」


 一瞬で胸の奥が冷えた。

 店を取り壊す。つまり、『懐古堂』の建物そのものがなくなるということだ。

 そうなったら、カイコさんはどうなってしまうのだろう。


「姿形も知らない、気配も分からんような神さまだったら良かったんですけど。あの綺麗な神さまが、まだあそこにみえる形跡があるもんで。お寺さんに頼んで供養するにしても、一方的に棲処すみかを失くしてまうのは不義理な気がしとったんです。探偵さんたちは、あの神さまと面識があるんでしょう?」

「えぇ、まぁ、そうですね。知り合いと言えば知り合いです」


 神さまと知り合い。何だか変な会話である。

 しかし勲さんは至極真面目な表情で、きっちりと姿勢を正した。


「一つお願いがあります。あの神さまに、店を壊すことを伝えてもらえませんか。それで、どういう対処をすればいいのか、訊いてまえると助かります。供養しても大丈夫なのか、それともどこかに引っ越してもらうのがいいのか……」

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